第八話 それでも近い
翌日の朝、朝倉は少し早く来ていた。
恒一が教室に入ったとき、朝倉はもう席にいてノートを開いていた。顔を上げた。
「おはよう」
「おはよう」
恒一は席に着いて鞄を下ろした。窓の外で、ケヤキの葉が梅雨前の風に揺れていた。まだ明るい時間のケヤキは、緑というより若竹に近い。
字幕。
『変わらないんだ』
朝倉がノートに目を戻しながら出していた。こちらを見ていない状態で出ていた。
久我が「おはよ」と来て、すぐスマホを見始めた。字幕は『寝足りない』だった。普通の朝だ。
一時間目が始まる前、朝倉が消しゴムを落とした。机の端から転がって、恒一の席の方に来た。拾って渡した。朝倉が「ありがとう」と言った。受け取るとき、指先が少し冷たかった。六月でも朝は冷える日がある。
字幕は出なかった。
*
三時間目の終わりに、担任が言った。
「係の日誌、今日中に職員室に出しておけ。名取と朝倉、頼む」
昼休みに入ってから、恒一は朝倉と日誌を持って職員室に向かった。廊下は昼の声で少しうるさかった。二人並ぶには少し狭い廊下を、朝倉が半歩前を歩いた。
職員室を出たところで、同じクラスの男子二人とすれ違った。田中と、もう一人の浅井という生徒だった。
「あ、係か。お疲れ」と田中が言った。
「お疲れ」と恒一が返した。
「二人で動くこと多いな最近」と浅井が言った。悪意はない。字幕にも『なんとなく言った』程度のことしか出ていなかった。「係って大変そう」
「そんなでもない」
それだけで終わった。田中たちは先に行った。
朝倉を見た。歩き続けていた。表情は変わっていなかった。
字幕。
『また』
次が来た。
『違う』
ただ今回は、朝倉は歩くのを止めなかった。廊下を曲がって、階段の方に向かった。恒一もその後ろに続いた。
階段を下りながら、朝倉が少し言った。
「さっき、ちょっとだけ嫌だった」
「分かった」
「怒ってないけど」
「知ってる」
朝倉がこちらを見た。それから前を向いた。
字幕。
『でも』
廊下の先で、牧瀬がいた。別の女子と話しながら歩いていて、恒一と朝倉を見て手を振った。朝倉が手を振り返した。普通の動作だった。牧瀬の字幕には『ちょっと気にしてる』が出ていたが、声はかけてこなかった。
*
昼食を食べてから、恒一は教室に戻った。
弁当の最後に食べた卵焼きが、少し醤油の味が濃かった。母親が作り置きする日は、だいたい濃くなる。どうでもいい。
朝倉は窓際で牧瀬と話していた。恒一が席に着くと、少し経ってから朝倉がこちらを見た。牧瀬と話しながら、視線だけが来た。
字幕。
『いても平気』
それから戻っていった。
午後は四時間授業があった。五時間目の数学で、担当の先生が板書を消す前に問題の解答が分からないまま進んでしまった。後で久我に見せてもらうことにした。六時間目の英語は教科書の音読で、朝倉の番が来たとき声が少し大きくなった。昨日よりも落ち着いていた。
ホームルームが終わった。担任が連絡を読み上げている間、恒一は手帳に来週の予定を書いた。係の作業が一つある。次も朝倉と一緒かどうか、確認しておかないといけない。
放課後になって、教室の人が少しずつ減った。久我は先に鞄を持って出ていった。帰り際に手だけ上げたので、恒一も軽く返した。
教室に残る声が薄くなってから、朝倉が鞄を持って立ち上がった。そのまま出ていくかと思ったが、恒一の席の前で少し止まった。
「昨日のこと」と朝倉が言った。
「うん」
「言いすぎた、かもしれない」
「そうか」
「なんか、あんなに話すつもりなかった」
「でも話した」
朝倉が少し黙った。短い間だった。
「名取くんが聞かないから」
「それは前にも言ってた」
「うん」
朝倉は鞄の持ち手を少し持ち直した。指が革のストラップを握って、離した。
「なんか、変なことになりそうで」
「変なこと」
「またああいう感じになるかと思って。周りが勝手に決めるやつ」
「そういうの込みでも」と恒一が言った。
朝倉が顔を上げた。
「別に変わらない」
そこで一度、言葉が切れた。
「周りがどう見るかは知らないけど、俺は俺の話しかできないから。離れる気がないのは、そっちの事情に関係なく、そうだっていうだけだ」
少し長くなった。言い終わってから、自分でも少し長いと思った。でも、言い直さなかった。
誰かが廊下を走って、すぐ名前を呼ばれていた。窓の外でケヤキが揺れて、影が床を横切った。
「ずるい」と朝倉が言った。
「また言ってる」
「また言う。だってずるい」
字幕。
『そんなの困る』
次が来た。
『離れたくない』
朝倉は鞄を持ち直した。行くかと思ったが、動かなかった。窓の外を少し見た。そのまま、二メートルくらいの距離で立っていた。
「怖いの、なくなったわけじゃない」と朝倉が言った。
「知ってる」
「また何かあったら、たぶん引くと思う」
「それでいい」
「よくはないけど」
「お前が決めることだから、どっちでもいい」
朝倉がこちらを向いた。
恒一は何も足さなかった。
字幕。
『逃げなくていいかも』
「明日も来る?」と朝倉が言った。
「学校に?」
「図書室」
「用事があれば」
「じゃあ用事作って」
朝倉は少し笑った。
「また明日」
先に出ていった。
恒一も少し遅れて鞄を持った。廊下に出ると、朝倉は少し先を歩いていた。追いかけるほどでもない距離だった。
外に出ると、梅雨前の空気がまだ乾いていた。ケヤキの葉が光を受けて、若竹色が少し白く飛んだ。朝倉は校門の手前で一度だけ歩幅をゆるめた。
恒一がその横に並ぶ。
二人で校門まで歩いた。会話はなかった。歩幅だけが揃っていた。




