第六話 そのくらいでいい
翌朝、朝倉は傘を持って来ていた。
傘立ての端に、黒い柄が見えた。朝倉のものだった。昨日の帰り道のことを、そんなところで確かめている自分に少し呆れながら、恒一は席に着いた。
「おはよう」と朝倉が言った。
「おはよう」
昨日より、声の距離が少し近かった。雨の帰り道の話は出なかった。恒一も出さなかった。字幕には『普通に』と出ていた。前みたいに、自分へ言い聞かせる感じではない。
久我が来て、「おはよ」と言った。字幕は『眠い』だった。いつも通りだ。
一時間目が始まるまで、恒一はノートの整理をした。隣で朝倉が教科書を開いている音がした。ページが空気を切る音、それから紙の上をシャーペンが滑る細い音。
窓の外のケヤキは、葉の色が少し濃くなっていた。五月に入ってからそうなった。光の当たり方も変わっていて、朝の教室の影の角度が四月より急になっている。
昼休みの終わり、担任に「前に配った行事の資料、図書室に予備があるから取ってきてくれ」と言われた。恒一が返事をすると、席が近かった朝倉も、机の上のプリントを見ながら「私も行く」と言った。
廊下は昼の声で少しうるさくて、階段を上がるにつれて静かになった。図書室の扉は重くて、引くと空気が変わった。本のにおいと、エアコンの乾いた冷気が混ざった。
資料は司書の先生のところにあると聞いていた。カウンターに向かいながら、テーブルの配置を見た。
朝倉がいた。
窓側の席で、本を読んでいた。こちらには気づいていない。白いシャツの袖口が机の端に乗っていて、ページの上に指先が乗っかっている。
司書の先生に声をかけて、資料の封筒を受け取った。ありがとうございますと言って、出口に向かいかけて、朝倉の前を通ることになった。
朝倉が顔を上げた。
「名取くん」
「資料」と恒一は封筒を軽く上げた。「昼休みに来いって言われた」
「そっか」
「読んでたとこ、邪魔した」
「してない」
特に出て行く理由もなかった。昼休みの残りはまだあった。恒一は朝倉から三席分ほど離れたテーブルの椅子を引いて、封筒を開けた。中身を確認するだけの作業で、五分もかからない。
図書室の中は人が少なかった。奥の方で男子が二人、参考書を広げている。司書の先生がカウンターで何か作業していた。
朝倉は本に目を戻していた。
字幕は『聞かないんだ』と出ていた。
恒一は封筒の中身を一枚ずつ見た。行事の日程と担当分けが書いてある。特に難しい内容ではなかった。封筒を閉じて、机の端に置く。
「本、好きなの?」
恒一が聞いた。自己紹介で言っていたことだ。
「まあ」と朝倉はページを繰りながら答えた。「好きっていうより、読んでると落ち着くから」
「何読んでるの」
「小説。ちょっと古いやつ」
「面白い?」
「面白いというか」
少し考えてから言う。
「このくらいの長さだとちょうどいい」
「図書室に来るの、よく?」
「たまに。昼休みに食堂が混んでると、ここで食べてから戻る」
「そっか」
「名取くんは来ないの?」
「来ない。本を読む習慣がない」
「じゃあなんで今日は」
「資料の受け取りが図書室だった」
朝倉は少し笑った。昨日より、少し声に近かった。字幕には『そのままでいい』と出ていた。
「読んでる作家、決まってる?」
恒一が聞いた。
「あんまり。図書室で見つけたの読む感じ。タイトルで選ぶことが多い」
「今日のはどこで見つけた」
「棚の端にあった。背表紙が少し傷んでて、よく読まれてたんだろうなと思って」
「それで選ぶの」
「たまに。傷んでる本って、なんか気になる」
朝倉はページを一枚めくった。
会話が途切れた。それでもどちらも特に動かなかった。恒一は封筒を手の中で少し回した。エアコンの音がずっと一定で続いていた。本のページが一枚めくれる音が、よく届いた。
三分か四分、そのまま時間が経った。図書室の窓から光が入って、床のリノリウムに白い四角を作っていた。朝倉が本を読んでいる。恒一は特に何もしていない。それで別に困っていなかった。
字幕が出た。
『変に踏み込まない』
朝倉がページをめくりながら出していた。こちらを見ていない状態で。
「名取くんってさ」
朝倉が言った。本から目を上げていた。
「何」
「あんまり、踏み込んでこないね」
「そうか」
「なんか変なの。普通、聞いてくるじゃん。あの日のこととか、なんで急に距離置いたのかとか」
「聞いてほしい?」
朝倉は少し黙った。
「聞いてほしいわけじゃない」
「じゃあそれでいい」
また少し沈黙があった。朝倉が本に目を落とした。でもページはめくらなかった。
字幕が出る。
『楽』
朝倉は本に目を落としたままだった。
昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。図書室の奥の男子二人が立ち上がる音がした。朝倉が栞を挟んで本を閉じた。
「戻る?」
朝倉が言った。
「うん」
二人で図書室を出た。廊下に出ると、昼の空気が戻ってきた。声と足音が一気に増える。廊下の窓から校庭が見えて、昼休みに出ていた生徒が戻ってくるのが見えた。グラウンドの土はもう乾いていて、走るたびに砂が薄く上がる。
階段の前で、朝倉が少しだけ歩幅をゆるめた。恒一と並ぶほどではないが、さっきまでより離れなかった。
「名取くんってさ」
「何」
「ほんとに、聞かないよね」
恒一は手すりに触れかけた指を止めた。
「聞いてほしいなら聞く」
朝倉はすぐには返さなかった。先に一段下りて、それから少しだけ顔を横に向ける。
「今は、いい」
「じゃあ聞かない」
朝倉はそこで小さくうなずいた。字幕は出なかった。代わりに、肩の力だけが少し落ちたように見えた。
下の階まで下りるあいだ、会話はそこで切れた。でも気まずくはなかった。誰かが廊下を走って、先生に名前を呼ばれている。窓の外では風が少し出て、ケヤキの枝先が揺れていた。
教室の前まで戻ったところで、朝倉が先に戸へ手をかけた。
「今日、ありがと」
「資料取っただけだろ」
「それでも」
朝倉はそこで一瞬だけ言葉を止めたが、言い直さなかった。
「また何かあったら、たぶん頼む」
恒一は少し間を置いてから、「分かった」と返した。
朝倉はうなずいて、そのまま教室に入っていった。逃げるみたいな速さではなかった。前と同じ歩幅で、自分の席の方へ向かう。
恒一も少し遅れて中へ入る。席に着く直前、朝倉がほんの少しだけこちらを見た。
字幕。
『いても平気』
それだけ見えて、すぐ前に戻った。ちょうど授業の始まる音がした。




