第五話 前もあったから
昼休みの一件のあとから、朝倉は名取への返事を一つずつ短くした。
感じが悪いわけじゃない。おはようと言えばおはようと返ってくる。係の確認をすれば答えてくれる。
ただ、その先が続かない。
朝の教室は、窓から光が斜めに入っていた。黒板の左端が白く飛んで、前の席の生徒の鞄の金具が光った。朝倉はいつも通り席にいて、ノートを開いていた。字幕は『普通に』と出ていた。
恒一が席に着くと、朝倉が一度こちらを見た。目が合った。字幕が一瞬切り替わった。
『戻せ』
それから前を向いた。どこに向けた言葉かまでは分からない。ただ、今の朝倉が何かを元に戻そうとしていることだけは見えた。
「おはよう」と恒一が言った。
「おはよう」と朝倉が返した。
それだけで終わった。
二時間目が終わった休み時間、恒一は隣の男子にシャーペンの芯を借りた。廊下では誰かが走って注意されていた。朝倉は後ろの女子と少し話していた。笑っていた。字幕は『大丈夫そう』と出ていた。恒一の方は見ていなかった。
三時間目は体育で、体育館でバドミントンの説明だけあった。シャトルが床に落ちる音が何度もした。朝倉は別のグループだったので、距離があって字幕は見えなかった。牧瀬と並んで立っているのが見えた。普通に話していた。
久我が昼休みに言った。
「朝倉さん、最近そっけなくない?」
「そうか?」
「前はもう少し話してた」
「係の作業が終わったから」
「そういうもん?」
久我は特に深くは聞かなかった。字幕に『まあそうかも』と出て、話題が変わった。
その日の午後、牧瀬由奈が恒一に声をかけてきた。
「名取くん、ちょっといい?」
廊下だった。授業の合間で、人が行き来していた。牧瀬の字幕には『言うか迷ってる』と出ていた。
「うん」
「朝倉のこと、なんか気にしてる?」
「なんで」
「なんとなく。ちょっと最近、名取くんのこと気にしてるみたいだから」
恒一は少し黙った。朝倉が距離を取っているのに、気にしている、というのは矛盾しているようだが、字幕で見ているとそれが両方本当だということは分かっていた。
「朝倉があの手の話、苦手なの知ってるか?」
牧瀬は少し間を置いた。『どこまで言うか』と字幕が出た。廊下の壁に貼られた掲示物が、換気の風でめくれかけていた。
「苦手、とかじゃないと思うんだけど。前に似たような感じで、ちょっと大変だったって言ってたことがあって」
「中学のとき?」
「そこまでは聞いてない」
牧瀬はそれ以上は続けなかった。
「なんか、ごめんね、変なこと言って」
「いや」
「名取くんが何かしたとかじゃないから。朝倉も悪くないし、あのクラスメイトも悪気ないだろうし。ただ」
牧瀬は少し考えてから言った。
「ちょっと引きずるタイプかも、そういうの」
字幕は『言い過ぎたかも』に変わっていた。でも嘘をついているわけじゃない。牧瀬が知っている範囲で、できる限り正直に言っている、そういう字幕だった。
「教えてくれてありがとう」
「ううん」
牧瀬は少し肩の力を抜いた。
「朝倉、悪い子じゃないから」
「分かってる」
それだけだった。牧瀬は「授業始まるね」と言って、教室に戻った。
放課後、雨が降り始めた。
五時間目が終わったころから窓の外が暗くなっていて、ホームルームが終わる前に本格的に降り出した。傘を持っていない生徒が廊下に溜まって、止むかどうかを話している。恒一は折り畳み傘を持っていた。
下駄箱で靴を替えていたら、朝倉が横に来た。傘立てを見ていた。
「傘、ない?」
「家に忘れた」
「駅まで遠い?」
「十分くらい」
雨脚は強くなっていた。屋根から落ちる雨水が地面を叩く音が、下駄箱まで届いてくる。朝倉は外を見たまま、特に動かなかった。
「一緒に入るか」と恒一が言った。「北の方向だろ」
「……いい」
「方向同じだから」
「でも」
「途中まででいい。駅が同じ方向なだけだから」
朝倉は少し間を置いた。外の雨を見た。傘立てを見た。それからこちらを見た。
字幕。
『またそういうことになる』
恒一はそれを見て、一拍止まった。
「嫌ならいい」
「……いい、です」
語尾が少し崩れた。断るのか承諾するのか、どちらの「いい」かは声のトーンで分かった。承諾だった。
外に出ると、雨のにおいがアスファルトから立ち上っていた。折り畳み傘は一人用で、二人で入ると肩が当たるかどうかの幅しかない。朝倉が少し距離を取ったまま歩いたので、傘の端から朝倉の右肩が半分出た。
「もう少しこっち」
「いい」
「濡れる」
「大丈夫」
大丈夫とは出ていなかった。字幕には『近い』と出ていた。恒一はそれ以上言わなかった。
歩きながら、しばらく何も話さなかった。雨の音と、水たまりを踏む音だけがあった。朝倉の上履きの替えが鞄から少し出ていて、雨に当たりながら揺れていた。
「昼のこと」と恒一が言った。
朝倉の歩く速さが、少しだけ落ちた。
「あのくらいで、ああなるのか」
責めているわけじゃない。確認だ、という出し方をしたつもりだった。
朝倉は少し黙った。五歩分くらいの沈黙だった。
「前もあったから」
それだけだった。
「中学のとき?」
「……うん」
「何があったとかは、聞かない」
朝倉が少し顔をこちらに向けた。向けて、また前に戻した。
字幕。
『分からなくていい』
その後、すぐに別のが出た。
『変に聞かない』
雨がコンビニのひさしを叩く音がした。二人ともその下には入らずに歩き続けた。傘の内側に雨の音が反響して、少し近い感じがした。
「別に、名取くんが悪いとかじゃない」
朝倉が言った。
「分かってる」
「でも、ああいう空気になると」
少し間があった。
「なんか全部、前みたいになる」
「そっか」
それ以上聞かなかった。
字幕。
『助かる』
一語だけ出て、消えた。
駅の手前の交差点まで来た。信号が赤だった。雨が少し弱まっていた。朝倉の右肩の制服が、やはり少し濡れていた。
「ここまでで大丈夫」
「駅まで同じだろ」
「でも改札、違う方向だし」
「それは駅に着いてから」
朝倉は少し黙った。信号を見た。字幕に『このくらいでいい』と出た。
信号が青になった。二人で渡った。
駅の入口で、朝倉が「ありがとう」と言った。
「うん」
「……今日のこと、別に」
そこまで言って、少し言い直す。
「ありがと」
恒一は短くうなずいた。
朝倉はそのまま自動ドアの向こうへ入っていく。恒一はひさしの下で傘を閉じた。布に残っていた雨粒が足元へ落ちる。
少し遅れて、自分も駅に入った。
雨はまだ、細かく降り続いていた。




