第四話 そういう意味じゃない
朝の教室は、ひと雨降ったあとのにおいがした。
窓の外でケヤキが濡れていて、葉の裏側から水滴が落ちるのが見えた。廊下の床も少し湿っていて、上履きが普段より音を吸う。教室に入ると、誰かの傘が椅子の背もたれにかけてあって、先の方から水が垂れていた。
恒一は自分の席に鞄を置いた。
朝倉はもういた。窓際の席でノートを開いていた。ペンを持って何か書いている。昨日の授業のまとめでもしているのか、教科書も開いていた。
恒一が席に着くと、朝倉がこちらを一度見た。
「おはよう」
「おはよう」
字幕。『大丈夫』。
昨日までと同じ温度だった。印刷室で一緒に作業した日から、朝倉はこちらに短く声をかけてくるようになっていた。必ず、というわけじゃない。でも、完全に無視するわけでもない。そのくらいの距離だった。字幕も、乱れるより先に落ち着いた方向で出ることが増えていた。
「昨日のプリント、もう提出した?」
恒一が聞いた。係の仕事の話だ。
「した。先生の机に置いといた」
「そっか、ありがとう」
「どっちかがやればよかったから」
淡々と答える。でも短く切る感じではなかった。ペンをノートの上に置いて、少しこちらを向いて答えた。
字幕。『このくらいなら』。
恒一は自分のノートを出した。ホームルームまでまだ少し時間があって、教室はまだ半分くらいの人数だった。後ろで久我と男子数人が何か話していて、笑い声がたまに来る。
「ノート、細かく書くんだね」
朝倉が言った。
「そう?」
「前に見えた。色も分けてた」
「忘れやすいから」
「きれいなノートって、見返すとき楽だよね」
「見返すかどうかは分からないけど」
朝倉は少し笑った。声が出るほどじゃなかったが、口元が動いた。字幕は『話せる』になっていた。
これくらいの会話なら続く。どうでもいい話ならできる。印刷室で一緒になったあとから、その感じが少し残っていた。名取相手だからといって、朝倉が構えるわけじゃない。少なくとも、二人だけのときは。
ホームルームのチャイムが鳴った。
昼休みに入ったとき、朝倉は後ろの席の子と話していた。
牧瀬がその輪に入って、三人で何か見ている。教科書かプリントか、机に広げたものを囲んでいた。朝倉の字幕は見えない角度だったが、声は聞こえた。普通の会話だった。
恒一は久我と弁当を食べながら、窓の外を見ていた。雨は上がっていて、校庭の砂が濡れたまま日を反射していた。
「そういえばさ」と久我が言った。「プリントの係、朝倉さんとだよな」
「そう」
「次の作業いつ?」
「来週か再来週」
「ふうん」
久我はそのまま卵焼きを口に入れた。
字幕は『腹減った』のままだった。
弁当を食べ終わったころ、後ろから声がした。
「名取、こっちも来いよ」
男子数人がいた。名前は全員わかる。悪い連中じゃない。クラスの中の普通のグループで、誰に対しても声をかけてくる感じの人間たちだった。
恒一と久我がそちらに移動すると、話題はクラスのゲームの話だった。誰が何をやっているか、という話で、久我がすぐ混ざっていった。恒一も適当に入りながら、牧瀬たちのいる方向を少し見た。
朝倉はまだそこにいた。輪の中で少し笑っている。字幕はまだ見えない角度だ。
男子の一人、田中という生徒が恒一のことを見て言った。
「名取って、朝倉さんと同じ係だよな」
「そう」
「あの子、感じいいよな。なんか最近よく話してない?」
「作業があるから」
「いや、それ以外でも。今朝も話してた」
田中は別に意地悪で言っているわけではなかった。字幕には『なんとなく気になった』程度のものが出ていた。
「結構しゃべってる印象あるわ」
久我が「やめろよ」と軽く言った。
「いや、いい意味で。朝倉さん、話しかけにくいかと思ってたけど名取とは話してるよなって」
誰かが「確かに」と言った。誰かが「そんな感じする」と言った。
その流れの中で、恒一はふと朝倉の方を見た。
距離は四メートルくらいあった。声が届いているかどうかは分からない。届いていないかもしれない。ただ、朝倉の字幕が見えた。
『やめて』
すぐに次が出た。
『また』
朝倉は牧瀬と話していた。表情は変わっていなかった。笑っていた。声の感じも、さっきと大きくは変わっていなかった。ただ、牧瀬の話に返すタイミングが一拍遅れていた。
恒一は前を向いた。田中がまだ何か言っていた。久我が適当に話題をずらしていて、字幕には『そのへんでいいだろ』と薄く出ていた。
午後の授業が始まって、昼休みの話は終わった。
五時間目は数学だった。教師が黒板に式を書いて、チョークが乾いた音を立てた。隣で久我がノートを開く。ページが空気を切る音。廊下の方から、別のクラスの椅子が鳴る音が聞こえた。
朝倉の席は斜め前だ。後頭部と肩だけ見える。五時間目に入ってから、朝倉は一度もこちらを向いていなかった。授業中だから当たり前だが、休み時間も含めてそうだった。
六時間目とのあいだの休み時間、恒一はシャーペンを回しながら窓の外を見た。
朝倉が席を立った。廊下の方に出ていった。牧瀬と一緒だった。
しばらくして戻ってきたとき、通路を歩く朝倉と目が合った。四歩分くらいの距離だった。
字幕。
『普通に』
朝倉は短くうなずいた。恒一も同じくらいの動きで返した。それだけだった。朝倉は自分の席に着いて、教科書を出した。
授業終わりのホームルームが終わって、教室が動き始めた。
帰り支度をしながら、恒一は朝倉の方を少し見た。牧瀬と話しながら鞄を持っていた。教室から出る前に、朝倉がこちらを向いた。目が合った。
字幕。
『離れた方がいい』
朝倉は先に出ていった。
恒一は鞄を持ったまま、少し遅れて立ち上がった。久我が「帰ろ」と言って先に廊下へ出る。
「うん」
教室の外は、朝より乾いていた。
窓の外では、ケヤキの葉先に残った水がまだ光っている。
昼休みのあれは、たいした話じゃなかった。
誰かが少し並べて、誰かが笑って、すぐ別の話題に移る。そのくらいの軽さだった。クラスにはよくある。悪意がないぶん、流れとして処理されて終わるやつだ。
でも朝倉は、そのあと名取の方を見なくなった。
『やめて』
『また』
あの二つだけが、まだ頭のどこかに残っている。
廊下の向こうで、久我が別のクラスのやつに声をかけていた。笑い声が返る。全部いつも通りだ。昼の続きを、みんなもう忘れている。
恒一は窓の外へ目を向けた。濡れた校庭の端で、サッカーボールが一度転がって止まる。風はもう朝より軽い。
昼のあと、朝倉が避けたのは名取本人というより、名取のそばにいる形そのものに見えた。
そこまで浮かんで、恒一はその先を止めた。
今あるのは、昼休みに字幕が崩れたことと、そのあと距離を空けられたことだけだ。勝手に意味をつなげるには足りない。
校門へ向かう途中で、前を歩く朝倉が一度だけ見えた。牧瀬と並んでいて、何か話している。声までは届かない。歩幅はいつも通りだった。
恒一はそのまま歩いた。
追いつくでもなく、離れるでもなく。
雨上がりの空気はまだ少し水を含んでいて、息を吸うと喉の奥がひんやりした。




