第三話 読めるはずだった
朝のホームルームが始まる前、担任が出席簿を持って入ってきた。
字幕には『今日は五限で終わりだったか確認しとけばよかった』と出ていた。先生の字幕はだいたい業務上の後悔か、授業の段取りへの不安だ。恒一はそれを一瞥して、前を向いた。
久我が「おはよ」と言いながら椅子を引いた。字幕は『腹減った』だった。
牧瀬由奈が後ろの女子に話しかけている。字幕は『この子、話しやすい』。後ろの女子の字幕は『牧瀬さん、感じいいな』。この二人は普通に仲良くなる。それだけのことだ。
朝倉は窓際の席で、プリントを揃えていた。
字幕は見えなかった。こちらに顔を向けていないので、出ていても読めない角度だ。横顔だけが見える。プリントの端を机の角に当てて揃える、その動作だけが見えた。
恒一は自分のノートを開いた。
三日経って、クラスの字幕は読みやすくなっていた。誰がどのくらいのペースで感情を出すか、どういうときに字幕が乱れるか、だんだん把握できてくる。久我は腹が減ってると正直に出る。牧瀬は誰かをつなごうとしているときに『うまくいくといい』が出る。担任は毎朝何かを後悔している。
最初の一週間を越えると、だいたいこうなる。
人間関係は、少し先まで見えるものになる。
誰かが不機嫌になりかけているのが分かる。誰かが話しかけたがっているのが分かる。先に分かるから、大きくしくじらない。
便利ではある。
そのぶん、薄くなる。
久我のことは好きだ。話しやすいし、引き際もわかってる。でも久我が何を考えているか、大抵は字幕で先に出る。だから話していても、どこかで先を読みながら相槌を打っている。
朝倉の席の方から、プリントの束が机を叩く音がした。
揃え終わったらしかった。それだけのことだ。
三時間目の終わりに、担任が言った。
「プリントの整理が終わってない。係の二人、残って手伝え」
係の決め方は、入学初日にあみだくじでやった。恒一はクラスのプリント類を管理する係になっていた。担任が指したもう一人が、朝倉澪だった。
廊下に出ると、昼休みの声が遠く聞こえた。日差しが廊下の端まで来ていて、床のワックスが白く光っている。担任に鍵を渡されて、準備室の隣にある小さな印刷室に入った。
プリントの束が三種類、机の上に重なっていた。クラスごとに仕分けて、ファイルに綴じる作業だ。
朝倉は机の前に立って、一番上の束を手に取った。
「どっちがどっちやる?」
「どっちでも」
「じゃあわたしこっち」
字幕は出ていた。『このくらいなら』。
恒一はもう一方の束を取った。教室より狭い部屋で、机を挟んで向かい側に立っていた。距離は一メートルくらいだった。プリントをめくる音だけがしばらく続いた。
「料理、本当にするの」
恒一が聞いた。自己紹介のときの話だ。
朝倉は手を止めなかった。
「する。平日はあまりしないけど、週末は少し」
「何を作るの」
「スープとか。あと和食系が多い」
「手のかかるやつ?」
「かかるかどうかは分からない。作り慣れてるから、時間はそんなに」
そういう答え方をする人間だ、と恒一は思った。多く話さないが、聞いたことには答える。過不足がない。
「実家が料理するの?」
少し間があった。一秒か二秒か。
「おばあちゃんが好きで、よく一緒に作ってた」
「そっか」
「名取くんは料理する?」
「しない」
「なんで聞いたの、じゃあ」
「自己紹介で言ってたから」
朝倉は少し黙ってから、「そうだったね」と言った。責める感じではなかった。ただ確認した、という感じだった。
字幕。
『変に聞かれない』
恒一はプリントを揃えながら、その字幕を横目に置いた。
作業が続いた。プリントをめくる音、ホッチキスの音、ファイルのリングが閉まる音。廊下から話し声が遠く聞こえて、昼休みが進んでいるのが分かった。
「家、遠い?」
朝倉が聞いた。
「電車で二十分くらい」
「そっか。わたしも同じくらい」
「どっちの方向?」
「北の方」
「逆方向だ」
「そうなんだ」
それだけの会話だった。深くない。ただの確認で終わった。
朝倉の字幕は、さっきより少し落ち着いていた。
『普通でいられる』
恒一はファイルの背表紙に日付を書きながら、その字幕を頭の端に置いた。
「久我くんって、名取くんと仲いいの?」
「仲いいかどうかは分からんけど、話しやすい」
「そうなんだ。あの人、なんか自然に話しかけてくるよね」
「牧瀬と似てるかもしれない」
「そうかも」
朝倉は少し考えてから言った。
「牧瀬さんは、なんか、力みがないよね」
「久我もそれだと思う」
「名取くんは?」
「俺は?」
「力む方?」
少し考えた。正直な答えを探した。
「あまり力まない。でも、油断はあまりしない」
「どう違うの」
「力むのは、うまくやろうとすること。油断しないのは、見えてなかったことを見逃さないようにすること」
朝倉はしばらく黙った。四秒か五秒か。
「なんかうまいこと言った感じがする」
「そんなことない」
「した。自分でわかってる顔してた」
恒一は少し黙った。言い返しにくかった。
字幕。
『話せる』
作業が終わって、印刷室の鍵を返しに行った。担任の席に置いて、廊下に出る。昼休みの残りはあと少しだった。
朝倉が「ありがとう」と言って、教室の方へ歩いた。恒一はその後ろを少し距離を置いてついていった。別に一緒に戻る必要もないが、方向が同じなので自然にそうなった。
廊下の窓から、校庭が見えた。昼休みに出ている生徒が何人かいて、ケヤキの影が校庭の東側まで伸びていた。
教室に入る手前で、久我が廊下に出てきた。恒一と朝倉を見て、少し顔が動いた。
「あ、係の作業?」
「そう」
「お疲れ。朝倉さんも」
「ありがとう」と朝倉が言って、教室に入っていった。
久我が恒一の隣に並んだ。小声で言った。
「お前、さっきまでなんか慎重だった?」
「何が」
「なんか、普段より話すテンポが遅い。朝倉さんと話してるとき」
「そんなことない」
「あるよ。俺とのときより、一拍分くらい遅い」
久我の字幕には『当たってると思う』が出ていた。
恒一は特に返さなかった。否定する言葉が出てこなかったわけじゃない。出てきたが、使う気にならなかった。
「まあいいけど」と久我は言った。「珍しいと思って」
それだけ言って、久我は先に教室へ戻った。
恒一はすぐには入らなかった。廊下の窓に手をかける。アルミの枠が少しぬるい。校庭では昼休みの連中がまだ残っていて、ボールが一度、高く跳ねた。
一拍遅い。
久我の言い方が、そのまま耳に残っていた。
たしかに、朝倉と話しているときは返事が少し遅れる。言葉を選んでいるというより、一回そのまま受けてから返していた。いつもならそんなことはしない。だいたいは、相手が次に何を言うかも、その少し手前で見えてしまうからだ。
廊下の向こうでチャイム前のざわつきが戻ってくる。誰かが走って、別の誰かがそれを止める声がした。
恒一は窓から手を離した。
教室に入る。朝倉は牧瀬と話していた。机の上のプリントだけが西日に白く浮いている。朝倉は笑っていた。さっき印刷室で見たときと、たいして変わらない顔だった。
恒一は席に着いた。ノートを開く。紙の端が指に当たる。
まだ少し、話したあとの間だけが残っていた。




