団地の怪異 2
それから歩くこと十分、彼らはとうとうK団地へとたどり着いたのだった。
団地の棟は三つ、それらは5階建で、上にはそう高くない。砂時計のような形の給水塔が入り口にあり、団地はまりあの背丈ほどのブロック塀で囲まれている。それはありきたりな団地であって、何か特別な雰囲気を醸し出している訳ではない。しかし、それがまりあにとって余計に恐ろしかった。日常からずれた、と思わされるからだ。
「まりあくんが通りがかったのも、ここで間違いないのかい?」
「はい、ここです」
「そうか、ああ、どうやら間違いないみたいだ。彼も待っていたんだね」
「え、先生?」
小松が視線を向けている先に、少年が立っている。給水塔を背に、陽炎の向こうにゆらゆらと滲む子供の姿があった。しかし、彼の姿は以前とは全く違っている。遠目からでも分かる、漆黒が目に鮮やかな着物を身にまとっていた。あまり馴染みのない着物姿を見たことがあるとすれば、それは歴史の教科書だろうか。平安時代の絵巻物に出てくるような少年の出で立ちは、やはり彼がこの世のものではないと示している。
「おねえちゃんだと思った。ここら辺では感じない、ケモノの気配がしたからね。あれ、この人はおねえちゃんの知り合い? 珍しいね、何にも感じない」
「こんにちは、君が〝やすのり〟くんで間違いないかい?」
「うん、間違いない。ふうん、貴方は知っているのに見えないんだね」
「ああ、そうなんだ。ついでに言うと、感じたり、聞こえたり、触れたりもできないね」
「それで、ようも我の元に来おったなぁ。後ろの女、そなたは閉じているだけだが、お前には何も感じぬ」
少年の声は透き通って高く、しかし、その口調は先ほどとはガラリと変わった。まりあは無意識に、隣の小松の背後に体を隠す。背後から伺う少年は、あの時と同じく美しい容姿をしていた。小松の腕にすがり、震える足でなんとか体を支える。
「我の名は安徳だ。しかし、そなたらの知る人の子ではない」
「驚いたな、何故名乗ったの」
「敵意がないことを示すためだ」
ふたりの間で交わされる会話の意図が分からない。小松のシャツを握りしめながら耳をすましていたが、恐怖よりも好奇心が勝った。広い背中から顔を出すと、こちらを見ている漆黒の瞳で視線が交わる。
それにしても美しい姿をした少年だ。視線を離せないでいると、小松がまりあの肩を抱いた。
「まりあくん、視線を合わせないように。魅入られてしまうからね」
「あ、はい」
そう返事をして、視線を安徳少年から引き剥がす。すると、辺りの様子が尋常でないことに気がついた。団地は跡形もなく消え失せ、足元に波が押し寄せてくる。サンダルを履いた足を洗う水は冷たく、耳に届く波音にただただ驚いた。
「ここに、君の本体が祀られてるの?」
「ああ、もはや社すら押し流されて残ってはいないがな」
彼の言葉通り、そこには建物らしきものは何もない、ただの浜辺だ。五色にも見える、小石が敷き詰められた砂浜が視界の彼方まで続いている。生き物の息吹が全く感じられないこの場所の異様さに息を飲んだ。不意に、金色の霧が空にたな引き、そこから雨粒のような光が降り注ぐ。
「そなたらに名を引き渡したのは、我の不徳の致すところ故だ。我は───そなたらの同朋を殺すつもりなどなかった。ただ、少しの間、気持ちを慰めたくて呼び寄せたのだ」
語尾の揺れる声を聞くだけならば、彼は人と変わりない気がする。しかし、その語られる内容は普通ではなかった。安徳少年は、着物姿から現代の子供が着るようなシャツとハーフパンツという姿に変わる。眉尻は下がり、叱られた子供のような面持ちだ。
「月の初め、ここにふたりの女子大生を招いたね。彼女たちに何をしたの?」
小さな肩をびくりと揺らし、ほとほと困り果てたように少年は口を開く。
「話をしただけだよ。ただ、彼女たちがやっていた降霊術には干渉した。ここに来て───話をして欲しかったから」
「いいや、君は脅したはずだよ。田中河之介の話のように、君と会った事を他人に離せば死んでしまうと」
「僕は寂しかっただけだ。団地の前を通るみんなが優しそうだから、話をしたかっただけで……でも、この世に関与する事は僕の存在を危うくする。だから、誰にも話さないようにと口止めをしただけのつもりだった」
「けれど、そのうちのひとりは死んでしまった」
「それは……僕も予想していなくて……」
「予想していない? そんなことはないだろう。君は知っていて呪を吐いたはずだ。破れば死んでしまう、そういう運命をなぞるように」
「仕方がないんだ! 僕は、知られてはいけないんだから!」
「ならば、何故呼んだ」
「……!」
小松は追及の手を緩めない。まりあはふたりの会話に割って入ることができないでいた。この光景だけを見れば、子供が小松に叱られているだけだ。けれど、この少年は人ではない。小松は少年が自分のわがままで、自分の大学の生徒の命を奪った事を静かに怒っている。
「まだ幼い命だった。君が生きているよりもずっと、若い命だ。何故、その若い命に甘えようとした」
「長く生きれば、置いていかれる! 僕は寂しかったんだ……明るい声が、彼女たちの優しい声に惹かれてしまったから」
「それでも、君は隠れているべきだった」
少年は両手で顔を覆った。程なくして小さなすすり泣きが聞こえてくる。小松の言葉はもっともだ。安徳少年が何百年存在しているかはわからないが、それでも二十年そこそこしか生きていない自分たちよりもずっと長く生きている。
「……あの、貴方を呼んでいた女性では、だめだったの?」
まりあは勇気を振り絞って声をかけた。やすのり、と少年の名前を呼んだ女性を思い出したからだ。少年を問いかけに首を振り、しやくり上げるように息をすする。
「あれは……あの一族は、僕を嫌っているから。彼らは古の契約で僕を世話してくれているけど、彼女は僕を憎んですらいる」
そこまで話されて、まりあは合点がいった。女性の少年に対する態度がおかしかったのは、そういう理由だったのかと理解する。しかし、しおれてしまった少年にかける言葉が見つからなかった。彼のせいで、青木美帆は亡くなったのだ。また、幸代も辛い思いをしている。
「僕の生徒がね、君に会った事で苦しんでいる。後ろにいる子はね、怪異が本当に苦手なんだよ。それでも友人を助けたくて、必死の思いで君に会いに来たんだ」
小松の言葉に少年は顔を上げ、まりあを見た。その表情はすっかりと弱り果ててるようだったが、それでも真っ黒な瞳には力が宿ったようだった。
「───僕は、何をすればいい?」
細く紡がれた言葉に、まりあは恐怖を押し込めて返事をする。
「友人に、もう大丈夫だよって言ってもいいですか? もう、何も起こらないって伝えたいんです」
震える声は情けないほどに小さい。
おまけに小松の背から顔を出しただけで、対峙しているとは言い難かった。まりあは勇気を振り絞り、足を踏み出して体を小松から離す。
「いたずらだったと、もう大丈夫なんだって、音声を録音させて下さい。私の友人を助けることに、協力して下さい。お願いします」
必死だった。
青ざめた顔のすっかりと様子が変わってしまった幸代を安心させてやりたい。頭を下げたままでじっとしていると、大きな手が背中を撫でてくれるのが分かった。
「分かった、協力する」
少年の声はかすれていたが、聞いた途端、目の前のアスファルトが滲んだ。これで幸代は助かるんだと、心底ホッとした。堪え切れない嗚咽が漏れる。
「よく頑張ったね、まりあくん。僕が音源を録音するから、もう少しだけ頑張れるかい」
「……はい」
「いい返事だ」
小松は一歩踏み出すと、ポケットから端末を取り出したようだった。それから彼らは音源を録音していたようだったが、まりあの記憶はそこからぼんやりとしている。涙はとめどなく流れ、それが、恐怖からなのか安堵からなのか、それすらよく分からなかった。気がつくと景色は団地に戻っており、蝉の鳴き声が重なり合って聞こえてくる。吹き抜ける風は熱風のようで、太陽はじりりと肌を焼いた。それでも、当たり前の風景に戻ったに心底安心する。放心したように、会話をしている二人を見つめていた。声は届いているが、内容がちっとも理解できない。すると、小松がこちらを振り返った。
「さ、まりあくん、行こうか」
頷いてよろよろと歩み寄る。少年はもの言いたげにこちらをじっと見つめているから、一度だけ頭を下げた。小松に促されて立ち去る間も、きっと彼はこちらをじっと見つめていたのだと思う。それでも、もう振り返るだけの気力はなかった。機械的に動かすサンダルを履いたつま先が、アスファルトの亀裂にとらわれ、体が前に傾ぐ。このまま道路にぶつかると体を固くしたが、それは小松が咄嗟に腕を掴んでくれたから免れることができた。
「まりあくん、よく頑張ったね」
こちらの二の腕を掴んで支えてくれたままで、小松はそう声をかけてくれた。途端、張り詰めていた糸が切れて、まりあの両目から雫がポタポタと落ち始める。
「うう、うぁ、せ、せんせ」
もごもごと泣きじゃくるのを邪険にせず、小松は肩を抱いてしっかりと支えてくれた。歩幅を合わせ、急かさず、猛暑の中を一緒に歩いてくれる。
「いたずらをしてごめんなさい、という内容の録音をしたから、まりあくんの端末に送っておいたよ。あとで石田くんに送ってあげるといい。きっと落ち着くはずだからね。大丈夫、もう大丈夫だ」
まるで小さい子にするような慰めを、小松を何度も口にした。ぼたぼたと涙を落としながら、ウンウンとその言葉に頷きを返す。
「せんせい、せんせい、ありがとうございました」
今伝えられる精一杯を口にすると、小松は密かに笑った。視界いっぱいに広がる、涙で歪んだ小松の笑顔にやっと終わったのだと実感する。
「どういたしまして」
笑いまじりに返された言葉に、とくりと心臓が鳴った。小松の優しさに救われて、改めて恋に落ちる。駅までの道のりがもうずっと続けばいいのにと、そう願わずにはいられなかった。




