団地の怪異 1
明けて、翌日の朝。
思っていたよりも眠れていたことに安堵したまりあは、ぐ、伸びをした。今日は小松と団地へ行く日だ。気持ちをしっかりと持って挑まなければならない。ベッドから抜け出すと、まずは顔を洗った。
夏の朝、日差しはすでに高い。朝日が部屋の中を満たして、まるで白昼夢のような、現実感の薄い明るさだった。何か、自分が日常からずれたと思わされるような、そんな白けた明るさだ。
連日の寝不足でこしらえた隈をコンシーラーで隠し、服は動きやすいパンツスタイルを選ぶ。サンダルも足首にストラップのある、脱げないものを履いた。怪異と会うために、何が必要かなんて分かりようもない。それでも自分なりに頭を捻って用意する。
「よし、行くぞ」
ゴクリと生唾を飲み込み、震える足を叱咤して、まりあは部屋を出たのだった。
十時きっかり、S駅の時計の下に小松は立っていた。
賑やかな繁華街の中央にある駅だ、人の流れは活発で晴れ渡った空がどこか白々しい。雲ひとつない青空を背に立っている小松は、デニムに開襟シャツという素っ気ない出で立ちで、大学の外で会うと先生という感じがあまりしないことを発見する。慌てて足を早めると、こちらに気が付いた小松が手を上げて挨拶をしてくれた。
「先生、お待たせしました」
「僕も今来たところだから、大丈夫だよ。じゃぁ、行こうか」
緊張でぎこちなくなってしまうまりあの肩を、小松はひとつ叩いて先を促す。小松は授業の時と変りなく、これから怪異そのものに会いに行くという気負った雰囲気は感じられない。怖がっているのは自分だけなのだ。それからの道中、ふたりはずっと無言だった。電車に揺られている間、何か話しかけたいと口をもごもごさせても、話題が見つからなかったのだ。しかし、小松との会話のない時間は不思議と苦痛にはならなかった。ちらりとその顔をうかがうと、時折目が合う。その度に、柔らかく眦をたわませてくれる穏やかな表情に勇気をもらった。そうして郊外電車に揺られること十五分。ふたりは件の団地の最寄り駅へ降り立ったのだった。そこはやはり、小松が務め、まりあが通う大学の近くだ。まりあが通学するようになってから改修された駅はまっさらで、この近くで恐ろしい出来事があったなどと想像もできない。シルバーに塗られた柱に、日差しが乱反射している。
「先生、思ったよりも学校の近くなんですね……」
「ああ、地図で見るよりもずっと近いね。彼女から聞いた団地の名前はここしかなかったから、間違いないだろう」
「この近くの団地って」
頭の片隅でじっと息を潜めていた記憶が、一気によみがえる。この近くの団地と言えば、初めて挫折を感じて落ち込んだ出来事があったところだ。暑さだけではない、嫌な汗が背中を伝って流れた。蝶を捕まえてくれと言ったあの少年を思い出す。
「どうしたの?」
問われて、息をすすった。幸代に関係がなかったとしても、あの話は小松に話しておきたいと思う。
「先生、歩きながらでちょっと聞いて欲しい話があるんです」
K団地を目指しながら並んで歩く道中、まりあはそこで体験した出来事を小松に話した。日差しが照り返すアスファルトの熱気は、午前中とは思えない暑さだ。額や頸に汗が浮かび、肌を流れ落ちていく。
「……という体験をしたんです。どうして、さっきまで忘れていたのか分からないんですけど、その男の子もやすのりって呼ばれていました」
「まりあくんにとってショックだったから、忘れてしまいたかったのかもしれないね。それは心の自浄作用だから、そう気にしなくても大丈夫だよ」
「そうなんですね、よかった」
「こういう怪異にまつわる出来事が起こると、なんでもそのせいにしてしまうことが多いんだけどね。実は、その多くが思い込みであったり、錯誤であったり、そういった心の働きで説明できることが多いんだよ」
「じゃあ、団地の件もそういった説明ができるということですか?」
マリアが問うと、小松は少しの間沈黙した。会話が途切れると、電車の中とは違う重苦しい空気が流れる。だんだんと足が重くなり、嫌な予感でこめかみが痛い。少年を怖いと思ったこと、小松の沈黙、それらは嫌な予感を連れてくる前触れのように思えた。
「僕もね、そのやすのりくんについては、説明しづらいんだ」
───ああ、やっぱり。
この世のものとは思えないような美しい容姿をもった少年は、多分、人ではないのだ。彼を恐ろしいと思ったのは、間違いではなかった。歩みを進めれば、その少年との距離が縮まっていく。
「まぁ、本人に会ってみないことにはなんとも言えないんだけど。そろそろだね。団地の給水塔が見えてきた」
「先生、すごく怖い……」
不意に、足が地面に吸い付いたかのように動かなくなってしまった。呟いた声は震え、恐ろしさで泣き出してしまいたい。視界いっぱいにそびえ建つ給水塔は、経年劣化を経てところどころが黒ずみ、青空の中に異質の存在感を放っているように見えた。人を簡易なマークにしたような飾りは所々が欠けて歪な形だ。
「うん、そうだろうね。やめておくかい?」
かけられた声は優しく、そこに咎めるような色合いはない。ここで待っていても、小松はきっと助けてくれるだろう。もうここでうずくまってしまいたい。
しかし、そこで浮かんできたのは幸代の変わり果てた姿だった。いつもの明るく朗らかな彼女が、別人のようになってしまっている事実はを看過することはできない。前のように、彼女に笑って欲しい。ジワリと滲んだ視界に、目元をこする。
「怖いけど、行きます」
まりあは気力を振り絞って笑った。小松はそもそも、自分が協力してくれと頼んだからここにいるのだ。彼だけを危険な目に合わせることはできない。
「分かった。だけど、君は僕の背中に隠れていること。いいね?」
「はい」




