予感 4
青木美帆の実家を小松斎一郎とともに訪れた翌日、秋山まりあは石田幸代と自宅のアパートの下にある喫茶店で待ち合わせていた。
七月に入り、めっきり夏らしくなった日差しが目に痛いほどだ。重厚なドアに絡みつく蔦の葉が、てらりとして艶やかな真緑に光っている。自室から数分もかからないこの喫茶店に入るまでに、すでにまりあの白い額には汗が滲んでいた。
「こんにちは、ちょっと奥のボックス席をお借りします」
「こんにちは、まりあちゃん。ああ、どうぞ」
店内に足を踏み入れると、エアコンで管理された涼しい風に汗がゆっくりと引いていく。相変わらずカウンターの奥にいる、この店のマスターである岡田晋は気さくな笑顔を見せてくれた。店内は白熱灯のぼんやりとした明かりで満たされている。窓が小さなこの店は穴倉のようで、レトロな雰囲気を好む客に密かな人気だ。腰壁に使われている古材が印象的な白い珪藻土の壁や、各テーブルに配された和紙で出来た小さなスタンドなど、和洋折衷の店内は岡田の趣味によるものらしい。アンティーク家具がさらにノスタルジックな雰囲気を醸し出し、まりあはこの店の持つ独特の雰囲気が大好きだった。
しかし、今日ばかりはお気に入りの店にいても気分は晴れない。青木美帆の実家で聞いた彼女の死因を、幸代に話すことが今日の目的だからだ。こっくりさんを起因とするおかしな体験が、彼女の死と全くの無関係とは言い難いことが分かった。それを正直に伝えるべきなのかどうなのか、待ち合わせている今も迷っているままだ。知らずため息がもれてsまう。
幸代は程なくして来店したが、その姿は普段の彼女とは到底似ても似つかぬものだった。やわらかそうなほおはすっかりと痩け、ボックス席へと歩み寄って来る足取りもおぼつかない。いつもは身だしなみに時間を掛けている彼女が、ノーメークでやって来たのだ。向かいの席に座るすっかりとやつれてしまった姿に、まりあは嫌な汗が背中を伝うのを感じだ。
「まりあ、久しぶり……」
まるで幽鬼がそこにいるかのような、すっかりと影が薄くなってしまった姿に二の句が告げないでいると、岡田が気を利かせてアイスコーヒーを運んで来てくれた。
「ありがとうございます」
「どうぞ、召し上がれ」
岡田とのやり取りを見ているのかいないのか、幸代の目はどこか中空を彷徨っている。眠れていないのか目の下には濃い隈があり、彼女の様子が尋常でないことは、会話をしなくても見てとれた。そうなると、ますます青木美帆の件が切り出しにくくなる。
「久しぶりだね、幸代。すごくしんどそうだけど……」
「うん、眠ると夢を見るからさ……最近、あんまり寝てないんだ。ねぇ、それで美帆のことで話ってなに?」
力なく笑うその疲れた様子に、問われてもなかなか話し出せない。アイスコーヒーを飲む幸代のネイルを施してない爪に、妙な胸騒ぎを覚えたのだ。
「うん、それが……」
「何、はっきり言ってよ」
こちらの歯切れが悪いことに、幸代は苛立っているようだった。普段の彼女ならば、こんな風に急かしたりはしない。その彼女らしさがすっかりと失われてしまった様子に、まりあの胸は痛むばかりだ。
「ごめん、じゃあ話すね。あのね、昨日、小松先生と青木美帆さんの実家に行って来たんだ。お別れ会があったのは、陽子から聞いていると思うんだけど」
「うん」
「結論から言うとね、青木さんの死因は喘息の発作が原因の窒息死だったんだ。こっくりさんの呪いとか、そういったことが原因で亡くなったわけじゃなかったんだよ」
意を決してそう一息に告げると、幸代はこちらをじっと凝視している。瞬きもせず、一心に見つめてくる姿は常軌を逸しているように見えて恐ろしい。
「だから」
「え?」
「だから、なんなの?」
掠れた細い声で紡がれた言葉は、まりあの予想だにしない答えだった。呪いや怪異でないと分かれば、彼女が安心すると信じていたのに、そうではなかったのだ。
「そんな事が分かったからって、私がそうじゃないとは限らないでしょ!」
怒りに任せてテーブルを叩いた幸代の前の、アイスコーヒーが入ったグラスが倒れてごろりと転がった。テーブルの上にぶちまけたコーヒーはどんどんと広がり、とうとうテーブルから床へと滴り落ちる。まるで幸代の不安が溢れたようなその光景に、まりあは言葉を発する事が出来ない。
「これ、お金。私……帰る」
バッグの中から財布を取り出し、お札を一枚こちらに差し出してくる。急かされる手の動きにお札を受け取ると、幸代は無言で喫茶店を出て行った。ショックだった。あんな幸代を見た事がなかったから、何も、何も言う事が出来なかった。
「まりあちゃん、大丈夫かい?」
「……え」
「グラスは倒れただけか? 割れた破片で怪我はしてないかい?」
岡田の声にはっと我に返り、目の前の惨状を認めて慌てた。差し出された台拭きを受け取ってテーブルを拭くと、白い台拭きが瞬く間に茶色に染まる。
「大丈夫です、グラスは倒れた、だけ……です」
鼻の奥が痛くて、答える声がかすれてしまう。茶色に染まっていく台拭きを見つめる視界がぼやけてくるのを瞬きで誤魔化していると、岡田はまりあの肩を軽く叩いた。
「今日はもうバイトはいいから。家に帰ってしっかり休むといい」
「はい、心配をおかけしてすみません」
自分の財布からも千円札を出してテーブルに置き、まりあはよろけながら席を立った。幸代の悲鳴のような叫びが、耳にこびりついて離れない。それからなんとか自室に戻ったが、自分の不甲斐なさが情けなくて涙が溢れた。
「う、うう」
堪え切れない嗚咽がもれ、ぱたぱたと床に涙が落ちる。幸代は未だ、出口のないトンネルの中で苦しんでいた。自分なりに彼女を助けようと尽力していたつもりだが、それはひとりよがりだったのかもしれない。きつく拳を握り、何としても彼女の力になりたいと唇を噛んだ。
その時、夕暮れの赤に染まり始めた部屋に、軽やかなLINEの着信音が耳に届く。ずず、と鼻を啜りながらバッグを探ると端末を取り出した。
『まりあくん、今いいかい?』
LINEは小松からで、そのタイミングの良さと安堵感にまた涙が落ちた。夏前までは、夏休みには何をしようかと楽しい予感に思いをめぐらせていたはずだ。それが、今はどうだろう。幸代が引き起こしたこっくりさんの事件に、ずっと振り回され続けている。
「どうしたら助けられるの……先生、教えてください」
懇願にも似た呟きがもれる。
『こんばんは、先生。どうしたんですか?』
なんとか気持ちを立て直し、明るい口調で返信を送った。すると、待ち構えていたように吹き出しが表示されて、また気分が少し和む。
───やっぱり、先生が好きだな。
さっきまで、気分はどん底だった。切羽詰まって追い詰められていたのに、今は少しずつ前向きになってきている。友人を助けるのに、助ける側が溺れてしまってはどうにもならないのだ。
『うん、明日は土曜日だろう? 青木くんと石田くんが行ったという団地に行ってみようと思うんだ』
小松の提案は、至極もっともだと思われた。小手先だけではもう、幸代は助けられない。根本的な解決が必須になってしまっている。小松もまた、そこに思い至ったのだろう。
『私も行きます』
指は自然と動いていた。タップして表示された吹き出しの言葉に、後悔はない。何があっても、幸代を助けると決めたのだ。
『分かった。そう約束したからね、一緒に行こう。明日は郊外電車で行くから、S駅の前に10時集合でいいかい』
『はい、大丈夫です。よろしくお願いします』
『無茶はしない、必ず僕の後ろにいること。これは必ず守って欲しい』
『分かりました』
小松とのLINEを見返す。そうすると、すっかりと冷え切ってしまった心に熱が点り始めた。大丈夫だ、頑張れる。
怖い話を避けてきたまりあにとって、一体何をどうすればこの事件が解決するのかは分からない。そもそも、幸代が出会ったであろう怪異が現れるとも限らない。それでも、部屋でひとり泣いているよりは断然いい。例え怪異が現れなかったとしても、小松と一緒に行けば、何か解決の糸口が見つかる可能性だってある。
そう気持ちを立て直していたときだ。微かな、チチッという声が耳に届いた。辺りを見回して見るが、もちろん、部屋の中には何もいない。もしかしたら、暑さを避けるために、鳥がベランダにでもいるのかもしれない。それきり、その鳴き声は聞こえてくる事はなく、まりもまたあまり気にする事なくその日は早めに眠りについたのだった。




