予感 3
明けて翌日の土曜日、喪服がわりの黒いワンピースとバッグ、パンプスで支度をしたまりあは、小松と青木美帆の実家の最寄り駅で待ち合わせていた。郊外電車にあまり乗車した経験はなく、切符を買うところから苦戦したわりには待ち合わせ前に到着できたようだ。初めて降り立った駅は、思っていたよりもプラットホームが大きい。小松がすぐに見つけられるよう、駅の入り口で待つことにした。
まだ午前中とはいえ、日が昇りきると暑さがいや増す。額や首筋に滲む汗をハンカチで押さえつつ、華奢なチェーンが揺れる時計を確認すると、待ち合わせの十分前に到着したようだ。つま先を見下ろし、鴉のように真っ黒な出で立ちの自分の姿を思ってため息を吐く。
「これが喪服でなければなぁ……」
「喪服でなければ、何だい?」
すぐ側で聞こえた穏やかな声に、文字通り飛び上がりそうになった。自分の脈の音が小松に聞こえてしまうのではないだろうかと心配になるほど、耳の奥で大きく鳴り響いている。
「あ、その……暑く見えるだろうなって。真っ黒だから……」
「そう? 僕には涼しげに見えるぐらいだけどね。まりあくん、華奢だからだろうけど」
「そう、ですか」
これから亡くなった人のお別れ会に出るというのに、こんな事で浮かれてしまいそうになる自分を戒める。当事者である青木美帆は、亡くなっているのだ。友人の幸代までそうなってしまわないように、今日は少しの違和感も見落とせない。気を引き締めて挑まなければいけないのに、ほんの少しだけ小松と一緒に出掛けられる事実に心が浮き立っていた。
「先生、お休みの日にすみません。今日はよろしくお願いします」
頭を下げると「こちらこそ」と返される。それから連れ立って青木美帆の家に向かうと、彼女の実家は最寄り駅から歩いて五分ほどの近い場所にあった。インターフォンを鳴らすと、すぐに家人が応対してくれる。小松とまりあは、会場として用意された客間に通された。
まず目に飛び込んだのは、お骨の入った純白の骨箱が飾られた白木の後飾り台だった。人ひとり分の骨が、あの小さな箱に収まってしまう事に呆然としてしまう。青木美帆は火葬され、骨だけになってこの家に帰宅したのだという事実を、改めて突き付けられる。彼女はもう、この世にはいないのだ。
「まりあくん」
肩に重みを感じると、部屋の入り口で立ち尽くしている自分のすぐ後ろに小松が立っていた。とんとん、と軽く肩を叩かれて部屋の中に足を踏み入れる。部屋の中には線香の煙が充満しているのか、天井近くの空気が白く濁っていた。
慣れない様子で焼香を済ませて部屋の端に座っていると、お茶を運んできた女性がこちらへ歩み寄ってくる。
「この度はお悔やみ申し上げます」
声を掛けると、女性は憔悴しきった顔に薄らと笑みを浮かべた。目は充血して腫れており、女性が何度も涙した事は容易に見てとれた。この女性が母親なのだろう。
「美帆のお別れ会に来て下さってありがとう」
「いいえ、その……美帆さんの友人の石田幸代の名代として来ました。彼女、美帆さんのことがショックで体調を崩しているんです」
「ああ、そうだったのね。幸代さん、大丈夫?」
「いいえ……その、あまり調子が良くなくて」
「そう、早く落ち着くといいわね。幸代さん、美帆と仲良くしてくれていたから……」
女性はお盆を胸元に抱いたままで、その場に正座する。すると、小松も焼香を済ませたらしく、まりあの隣に腰を下ろした。
「この度はお悔やみ申し上げます。私、美帆さんの通っている大学の講師で、小松斎一郎と申します」
「まあ、先生がいらして下さったんですね。ありがとうございます」
女性と小松は挨拶を交わし、小松は少しの世間話を挟んだ後に本題を切り出した。
「こういった話をこの場で切り出すのは不躾かとは思いますが、美帆さんはどうやって亡くなられたんでしょうか?」
一緒にいた石田さんの様子がおかしくて、と小松が続けると、母親は目元を指で押さえた。浮かんでくる涙を拭う指先が小刻みに震えている。
「美帆は───もともと喘息の持病があったんです。高校二年生ぐらいから、少しは落ち着いていたんですが……部屋で何故か過呼吸を起こして息が出来なくなり、近くに吸入器がなかったため、発作が止まらずに窒息死したんではないかと」
最後のひと言を紡いだ唇が、きつく引き結ばれた。
それからどうやって青木美帆の家を出たのか、気がつくと、小松と並んで最寄り駅までの道を歩いていた。
「まりあくん、大丈夫かい」
「あ……はい」
自分と同じ年の学生が亡くなったという事実が、両肩に重くのしかかっている。人は亡くなると、あんな小さな骨箱に収まってしまうのだ。純白のレースがあしらわれた骨箱は、夏の日差しを照り返して無機質に光っていた。そこにはもはや、故人の面影などはない。
「先生、人って呆気なく亡くなってしまうんですね」
「ああ、そうだね」
目の前のマンションが陽炎の中で、ゆらゆらと揺れている。その光景が、当たり前だと思っていることが実はそうではないのだと訴え掛けているように思えてきた。
「まりあくん、青木くんの死因は彼女の持病だった。とすると、怪異事件に巻き込まれた恐怖から誘発された発作と想像するのが一番分かりやすいかもしれないね」
「そうですね」
こちらを見返して微笑んでいるような遺影が、目に焼き付いている。その写真はどこか生々しく、彼女が死んだとはにわかに信じがたいほどだった。しかし、その写真の前に小さな骨箱は置かれていたのだ。
「君は、コックリさんのせいだと思う?」
「分かりません……でも、さっきの先生の言う原因が本当なら、無関係ではないと思います」
「うん、僕も同じ意見だ。もう少し推測するとすれば、恐ろしい体験をしてショック状態にある彼女が、極度の緊張状態にあったため、発作を誘発されたという流れかもしれない。ちなみに、石田くんには喘息かなにかの持病はある?」
「いいえ、私は特には聞いたことがありません」
「そう、ならば石田くんが今すぐ危ないというわけではない、と思いたいところだね」
「……はい」
怪異事件に巻き込まれたことで、青木美帆は死んでしまった。その死因はおどろおどろしいものや、呪いなどといった漠然としたものではなく、もっと現実的なものだった。それが妙に生々しいのだ。鼻の奥が痛い。目の前の風景が滲んでくるのを止められない。
「まりあくん」
名前を呼ばれて小松を見上げると、大きな手がこちらへ向かって伸ばされているところだった。それは頭の上に乗せられ、ぎこちなく撫でてくれている。
「先生……?」
「慰めるのが下手でごめんね、講師失格かもしれない」
「そんなこと、ないです。せんせい、ありがとう」
グス、と鼻を鳴らしていると、まるで飼い犬を撫でるような手つきで頭を撫でられた。その不器用な動きに慰められ、緊張が少しずつほぐれてくる。
「何としても石田くんを助けよう」
穏やかに続けられた言葉に胸が詰まり、声にならない。何度も必死に頷くと、こちらを見る小松の瞳が柔らかくたわんだ。小松のおかげで気持ちが落ち着いてくると、不意に昨晩の夢が頭を過ぎる。
「先生、この件とは関係ないと思うんですけど、昨晩おかしな夢を見たんです」
「そう、その話、少し聞かせてくれないかな。駅のベンチで休憩していこう」
数分も経たないうちに到着した駅の自販機で、小松はお茶を落とした。こちらへ差し出されるペットボトルを礼を言って受け取り、プラットホームの端に据えられたベンチへと並んで腰掛ける。視線で続きを促されるから、昨晩見た通りに夢の内容を小松に告げた。
「それは随分と変わった夢だね」
「そうなんです。あの夢を見て、そういえば子供の頃、蔵に一度だけ入ったことを思い出しました。体験した内容も、夢の中の自分とほとんど同じです」
「蔵の中で、胴の長いたぬきみたいな動物をたくさん見たんだね?」
「はい」
「ねえ、まりあくん。君、憑き物筋という言葉は聞いたことがない?」
「つきものすじ、ですか? すみません、今初めて聞きました」
「そうか、君自身は知らないんだね」
「その言葉、この夢と関係あるんですか?」
小松は手の中のペットボトルを弄びつつ、「ううーん」と唸る。
「君の出身地は、N予の方だったね。実家は山間かい?」
「ええ、そうです。山の中腹が少し開けていて、そこに実家があります」
「そうか。君のご両親が話していないことを、推測だけで僕が話すのはどうかと思うから。少し待ってもらえるかい」
「え……あ、はい」
小松が一体何を言い淀んでいるのかが分からない。尋ねられた『つきものすじ』という言葉に心当たりもないのだ。昨晩の夢は、ただの昔の記憶を見ただけではなかったのか。やはり、何かよく分からない事に巻き込まれているような、漠然とした不安が心の中に吹き荒れる。どうやらこの怪異事件は、まりあ自身の身にも降りかかり始めているようだった。




