予感 2
その夜のことだった。
まりあは気がつくと、半年前まで暮らしていた実家の庭に立っていた。辺りを見回しても、記憶と寸分違わぬ姿の庭や、裏山、そこから庭へと引き込まれているせせらぎなど、どこまでも見知った光景が広がっている。
「いつの間に……帰ったんだっけ?」
その場でぐるりと回転し、最後に視線が止まったのは大きな二階建ての蔵だった。その蔵は、自分が生まれるよりもずっと前からあるのだと祖母から聞いているものだ。
「この蔵が開いているのを見たことがないな」
いつでも大ぶりな南京錠が掛かっている蔵の扉は、黒漆塗りで、いかつい何かの絵が描かれている。目がギョロリとひん剥いている動物を描いた絵は、長年風雨に晒され続けたため、輪郭などがすっかりと剥げ落ちていて、一体何の動物を描いたものなのかさっぱり分からない。しかし、何故か血走った大きな目だけはしっかりと残っているのである。この絵が恐ろしくて、小さい頃は近寄りもしなかった。中学生ぐらいになった頃、祖母にあの蔵には何があるのかと聞いたが「知らんけんの、近寄られん」と言われただけだ。蔵は庭の端にあるから、それ以降すっかりと忘れていたが、そういえばいつだってこの蔵には鍵が掛かっていた。やはり今も掛かっているんだろうと、歩み寄って手を掛ける。
「やっぱり鍵が掛かって開かな……あれ?」
南京錠は大きな音を立てて地面に転がり、扉は観音開きにがたつきもなくゆっくりと開いた。扉の奥からは、埃っぽい匂いが漂ってくる。息を止めて覗き込むと、天窓から差し込む光の帯に、巻き上がった埃がチラチラと光っていた。
中は思っているよりも狭く、壁が妙に厚いのだと分かる。等間隔に木製の棚が並び、棚には瓶がざっと数十ほど置かれているようだ。蓋がわりの油紙がめくれ上がっているのを見ると、随分古いものだということが分かる。中をしげしげと見回していると、子供の声が遠くから響いてきた。
「いーち、にーい、さーん」
振り返ると、その声に追われるようにして、小さな子供が長い髪を乱してこちらへ走って来るのが見える。少女は無我夢中といった様子で蔵へと走り込んできた。
「ここ……入るの初めて。きっとお兄ちゃんには見つからないよ」
少女に見つからないように、慌てて内側に隠れたまりあは、その小さな顔を見て酷く驚いた。なぜなら、それは小さな頃の自分だったからだ。先ほどまで、現実だったと思っていたことがあっという間に崩れ去る。少女はあちこち見回して、棚の影へとしゃがむことにしたようだ。
すると、ぐらり、と地面が揺れたような気がする。それから間を置かずに、ぐらぐらと地面が上下に揺れ始めた。
「やだ! 怖い!」
少女の声を聞いて、慌てて棚を掴んで足を踏ん張る。少女は体を丸めてうずくまり、震えているようだった。そうしてまりあは、子供の頃、のちにG予地震と呼ばれた大型の地震がこの地方を襲ったことを思い出していた。
地震の揺れはどんどん大きくなっていき、とうとう棚を支えきれなくなる。まりあは棚から手を離すと、咄嗟に小さな体の上に覆い被さった。次々に瓶が落ちて割れる音が続き、地震はまだおさまる気配がない。
「いやだ、怖いぃ、ひ、ひっ」
少女はおこりのように震え、引きつったような泣き声を上げる。
「大丈夫、もう少ししたらおさまるからね。大丈夫だよ」
背骨の浮き出た小さな背を撫でると、少女が起き上がって抱きついてきた。すると、一斉に何かが動き始めたような気配がする。床を歩き回るような足音、それから時折上がるヂッという鳴き声。どうやらこの蔵には、こちらからは見えないけれども、何らかの動物が複数いるらしい。
「やだッ、来ないで!」
鋭い少女の声に、ハッとして辺りを見回す。しかし、まりあの目には何も写っていない。ただ、瓶があちこちに散乱してしまった棚があるだけだ。腕の中で体を震わせている少女が、大きな目に涙をためて「いやだ、来ないで」を繰り返している。
「ねえ……」
少女に声をかけた瞬間、頭の中が締め付けられるように痛んだ。膝から落ちるように床へと、少女を抱いたままで座り込む。
「おねえちゃん、怖い、何かいっぱいいるの」
「何、が……いる、の」
頭が燃えるように痛む。脂汗が滴り、目を開けていられない。それでも少女を守るようにして、覆いかぶさるようにして抱き抱えた。痛みはどんどんとひどくなっていき、意識が遠のき始める。
「おねえちゃん、怖いよ。胴が長い、たぬきみたいな……」
勢いよく身を起こすと、そこは見慣れたひとり暮らしの自室だった。早鐘を打つ心臓の上を押さえ、は、は、と荒い息を繰り返す。夏のまばゆいばかりの朝日が室内いっぱいに広がり、そこに影が入り込む余地はない。そこでやっと、ああ夢を見ていたんだと思い至った。
「……忘れてた。あの地震の時、確かに蔵は開いてた。でも、あの時は私ひとりだったし、誰もいなかったけど……何か、動物はたくさん見たような……」
夢に見た光景から、子供の頃の曖昧な記憶を手繰り寄せる。やけに光るたくさんの動物の目を見た記憶に行き当たり、その光景を思い描いて身震いした。ずっと閉じていたはずの蔵に、何の動物が住めるというのだろう。けれどもあの時、真っ暗な蔵の中で、金に光るたくさんの目が自分を捉えていた。
「だめだめ、今は夢に振り回されている場合じゃないんだから」
世界が白んで見えるほどの朝日の中で、まりあは自戒するように呟いた。幸代の怪異事件に関わってから、自分自身も妙な体験をするようになった気がする。それとも怖い怖いと思っているから、何気ない出来事を恐怖体験に置き換えてしまうのだろうか。寝起きが悪かったせいか、つらつらと思考を巡らせてしまったが、それよりも今は青木美帆の実家に連絡をとることが先決だ。腕を天井に向けて突き上げるように伸ばし、あーっと大きな声を出して気持ちを切り替える。
陽子に連絡をとってみると、青木美帆の実家の連絡先は簡単に手に入った。何でも大学の友人たちのためのお別れ会というものをやる予定らしい。それなら、自分が小松と紛れ込んだとしてもおかしくはないだろう。実家の住所と電話番号を聞いてから小松に連絡を取ると、話はトントン拍子に進み、明日のお別れ会へ参加する運びとなった。




