予感 1
それから数日後、石田幸代からLINEが届いた。内容は無事にお祓いを受けられたという報告で、いつも通りの絵文字が並ぶ内容にホッとする。この件はそれで一段落したのだと、単純なまりあは信じて疑わなかったのだ。
しかし、ことはそう簡単には終わらなかった。それから二週間が過ぎ、夏休みが目前に迫った金曜日のことだ。本日最後の授業が終わったことを知らせるチャイムが鳴ると、教室がわりの中会議室は一気に華やぐ。もちろん、まりあも休日前の授業の終わりには気分が高揚していた。
「まりあ」
教科書を片付けていると名前を呼ばれる。顔を上げると、そこには青白い顔をした渡部陽子が立っていた。隣にはいつも一緒にいるはずの幸代の姿はない。彼女の様子とその事実から導き出される予感に、まりあの肌が粟立った。
「どうしたの? あれ、幸代は?」
「今日は休みなんだ……」
「え、そうなの? 体調悪いのかな」
「うん、それがね……」
問いかけると気まずそうに陽子は言葉を切り、視線をさまよわせる。何かを言いあぐねているような、そんな様子だ。生徒たちは早々に中会議室を後にしていて、残っているのはまりあと陽子のふたりきりである。
「実はさ、幸代が最近不安定なんだよね」
「え、そうなの?」
不安は的中してしまった。
幸代がお祓いを受けたことで、この件は片付いたと思っていたのだ。それがそうではなかった。気持ちが表情に出てしまっていたのか、こちらを見ている陽子の顔がゆがんだ。
「前にさ、幸代がサークルの友達の話をしたよね。青木美帆の話。アレさ、本当なんだよね」
「本当って、本当に亡くなってたってこと?」
「うん」
「そんな……あれからだって、幸代は何も言ってなかったのに」
「私はさ、オカルトとか全然信じてないし。今回のことだってすごい懐疑的だよ。でもさ、幸代は信じてるからおかしくなっているんだと思う。私、最初はそんなつもりなかったけど……逃げちゃったでしょ。幸代のこと、なんとか助けたいんだ」
「陽子……」
今にも泣き出してしまいそうな陽子は、先ほどからずっと小刻みに震えている。なんとか落ち着かせたくて細い腕を撫でてみると、くぐもったすすり泣きが聞こえ始めた。このまま、この件を放置するわけにはいかない。この件は終わっていなかったのだ。もう一度、小松を頼って相談するしかない。
「ねぇ、陽子、聞いてくれる? この前もこの件では小松先生に助けてもらったんだ。今回もそうしてみようと思う。でもね、人がひとり亡くなっているから……陽子がこの件に懐疑的なのはいいんだけど、ひとりで行動したりしないで欲しいんだ。私と小松先生に任せて欲しい」
「まりあ……」
「陽子はね、大変だと思うけど幸代についててあげて欲しい。きっとすごく心細い思いをしていると思うから」
「うん、わかった。そうしてみるね。まりあも、くれぐれも無茶したりしないでね」
陽子と別れてすぐ、まりあは寄り道せずに帰宅した。熱めのシャワーを浴びてさっぱりすると、ベッドに行儀悪く寝転がる。手には端末が握られていて、表示されているのは小松とのトークルームだ。
『先生、こんばんは。今、いいですか?』
時刻は十七時を回った頃だ。特に用事がなければ、研究室で小松は一息ついている頃だろう。可愛らしい音を立てて吹き出しが表示されると、間を置かずに色の違う吹き出しが表示された。
『かまわないよ、どうしたの?』
たったひと言、何気ない言葉を小松からもらっただけでひどく安心できる。知らず、大きなため息を漏らしたまりあは、小さく感謝の言葉を呟いた。
『先生、石田さんのことについて相談があるんです。彼女の様子がおかしいと、友人の渡部さんから教えてもらいました。お祓いしても落ち着かなかったみたいで』
そこまで一気に入力して、自分で思っている以上に焦っているのだと分かる。何に対処していいのかわからない問題を前にして、怖くて仕方ないのだ。古いアパートの壁紙は、あまり他にはない色合いのレトロなストライプ柄なのだが、その壁紙がじわりと滲んで見える。目頭が熱い。
『そう、それは困ったね。やっぱり根本的に解決しないといけないのかもしれないな』
『根本的って、例えばどういうことですか?』
吹き出しの応酬が今は頼もしい。ず、と鼻をすすって涙をやり過ごし、小松の次の言葉を待つ。今度は少し時間がかかってから返答がきた。
『彼女は今、亡くなったサークルの友人のように、自分が死んでしまうんじゃないかと恐れているんだろうね。だとすると、それが杞憂であると証明するより他にないんじゃないかな』
なるほど、小松の言うことはもっともだ。お祓いという、曖昧な方法では安心できない幸代の気持ちも分かる。
『まりあくん、亡くなった人の実家の住所はわかる?』
『はい、友人に聞けば分かると思います』
『では、明日連絡して行ってみようか。それから、石田くんが行ったという団地にも行ってみる必要があるだろうね』
どんどん話を進めていく小松に、あのひと言を伝えなければならない。怖い、でも、友人を助けたいというなけなしの根性を振り絞って文字をフリック入力する。
『私もご一緒していいですか?』
『あれ、君、こういったことは苦手なんだろう?』
間抜けな顔をした犬がクエスチョンマークを浮かべた、可愛らしいスタンプが突然会話の間に挟まる。小松は一体、どんな顔をしてこのスタンプを選んだのだろう。それまで、妙に切羽詰まっていた気持ちが一気に和んだ。
『怖いし、めちゃくちゃ苦手です。でも友人を助けたいんです。お願いします、同行させて下さい』
次の言葉はすんなりと伝えることができた。フリックする指先は震えているけれど、それでもさっきまでのような悲壮感はない。自分までは追い詰められてしまっては、助けられる人も助けられないということは理解しているつもりだ。
『そう、分かった。危険だと思ったら、僕のことは放って逃げるという約束だけは必ず守ってほしい。いいね?』
『はい』
こんな風に頼らせてくれる小松の優しさに、今度は胸が詰まる。エアコンの風でゆらりゆらりと揺れる白熱灯のオレンジ色が、部屋を柔らかく照らしていた。その色はまるで、まりあの今の心を映し出したかのような色合いだ。じわりじわりと冷えていた指先に体温が戻る。少しだけ間を置いてから、『先生、ありがとう』とひと言添えて、つかの間のやり取りを終えたのだった。




