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結婚直前に捨てられた私を、嫌いだったはずの上司が迎えに来ました。  作者: 結城つむぎ
第2章 嫌いな上司

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第6話 何もなかった顔で出勤する

翌朝。


鏡に映った自分の顔を見て、菜々子は小さくため息をついた。


目が腫れている。

昨日、あれだけ泣けば当然だった。


「最悪」


冷たいタオルを目元に当てる。


五分。

十分。


それでも、完全には戻らない。


コンシーラーを少し厚めに塗る。

アイシャドウも、いつもより控えめに。


泣いたと気づかれないように。

何もなかったように。


「大丈夫」


鏡の中の自分に言う。


「仕事するだけ」


結婚はなくなった。

住む場所も、この先どうなるか分からない。


でも。

仕事まで失ったわけではない。


それだけは。

今の自分に残っている。


会社のエントランスを抜けると。

いつもの朝だった。


社員証をかざす音。

コーヒーを持って歩く人。

エレベーターの前で交わされる挨拶。


誰も。

菜々子の人生が昨日ひっくり返ったことなど知らない。


「おはようございます」


「おはよう」


菜々子は笑う。


ちゃんと。

いつも通り。


企画部へ入る。


「おはよう」


美穂が顔を上げた。


「おはよう」


一瞬。

美穂の表情が止まった。


「菜々子」


「何?」


「寝不足?」


菜々子の心臓が跳ねる。


「ちょっとね」


「結婚式の準備?」


「そんなところ」


嘘。


でも。

今は言えない。


「無理しないでよ」


「大丈夫」


また。

その言葉。


大丈夫。

今日だけで何回言うのだろう。


菜々子は自分の席へ向かう。


バッグを置く。

パソコンを立ち上げる。

メールを開く。


いつもの仕事。

いつもの画面。


それだけを見ていれば。


何とかなる。

そう思った。


「桜井さん、おはようございます」


その声が聞こえるまでは。


菜々子の指が止まった。

ゆっくり顔を上げる。


小野寺莉奈。


いつもと同じ。

明るい表情。


淡い色のブラウス。

肩までの髪。


「おはよう」


声が出た。


自分でも驚くほど普通だった。

莉奈の表情が、ほんの少しだけ揺れた。


でも。

すぐにいつもの笑顔に戻る。


「昨日お願いしてた資料、まとめてあります」


「そう」


「あとで確認お願いします」


「分かった」


それだけ。

菜々子は画面へ視線を戻した。


手が震えている。

マウスを握る指に力を入れる。


今、目の前にいた。

自分の婚約者と付き合っている人。


昨日まで。

可愛い後輩だと思っていた人。


普通に。

挨拶をして。


普通に。

仕事の話をした。


「菜々子」


美穂の小さな声。


「何?」


「本当に大丈夫?」


「大丈夫だって」


「顔色悪いよ」


「ちょっと寝不足なだけ」


「そう?」


「うん」


美穂はまだ何か言いたそうだった。


でも。

それ以上聞かなかった。


午前十時。


企画会議。

菜々子は資料を手に会議室へ入った。


榊はすでに席に座っている。

無駄のない姿勢。


パソコン。

資料。


いつも通り。


「始めます」


低い声。

会議が進む。


菜々子はメモを取る。

集中しなければ。


仕事。

仕事だけ考える。


「桜井」


「はい」


突然名前を呼ばれる。


「この件、どうする?」


「え?」


榊の眉が少し動いた。


「聞いてなかった?」


「すみません」


菜々子は慌てて資料を見る。


「販促スケジュールの件ですよね?」


「そう」


「えっと」


頭が回らない。


文章を読んでも。

意味が入ってこない。


莉奈が。

和樹が。


昨日の会話が。

何度も頭をよぎる。


「桜井」


榊の声が少し低くなる。


「大丈夫か?」


菜々子は顔を上げた。


一瞬。

会議室が静かになったように感じた。


「大丈夫です」


反射的に答える。

榊はしばらく菜々子を見る。


「じゃあ続けて」


「はい」


菜々子は深く息を吸う。

資料を見直す。


今度は。

何とか説明した。


会議が終わる。

全員が席を立つ。


菜々子も資料をまとめる。


早く出たい。

そう思った。


「桜井」


また。

榊に呼ばれた。


「はい」


「少し残って」


美穂が菜々子を見る。

菜々子は小さく首を振った。


大丈夫。

という意味で。


会議室に二人だけになる。


「何ですか?」


榊はすぐには答えなかった。

菜々子の顔を見る。


「昨日、何時に寝た?」


「何ですか急に」


「質問に答えて」


「十二時過ぎです」


本当は。

ほとんど眠れなかった。


「嘘だな」


菜々子は言葉に詰まる。


「何でそう思うんですか?」


「顔」


「化粧してますけど」


「隠せてない」


胸がざわつく。


「別に」


菜々子は視線を逸らす。


「ちょっと寝不足なだけです」


「泣いた?」


その一言に。

体が固まった。


「何で?」


「目」


「違います」


「そう」


榊はそれ以上追及しなかった。


「じゃあ」


菜々子は資料を持つ。


「失礼します」


「桜井」


「はい」


「今日は無理しないで」


菜々子は思わず榊を見る。


いつもの冷たい声。

いつもの無表情。


でも。


言葉だけが。

少し違った。


「大丈夫です」


「その言葉、今日何回言った?」


菜々子は何も言えない。


「本当に大丈夫な人は」


榊は資料へ視線を落とす。


「そんなに何回も言わない」


胸の奥が痛くなる。


「仕事はできます」


「できるかどうかじゃない」


「じゃあ何ですか?」


「壊れるまでやる必要はないって言ってる」


一瞬。

昨日の自分が浮かんだ。


誰もいない部屋で。

床に座り込んで泣いていた自分。


菜々子は唇を噛む。


「部長には関係ありません」


思ったより冷たい声が出た。

榊の表情が少し止まる。


「そうだな」


短い返事。


「じゃあ仕事の話だけする」


「はい」


「午後の取引先との打ち合わせ」


「行きます」


「美穂に代わってもらう」


「必要ありません」


「ある」


「私が担当です」


「今のお前を連れて行く方がリスクだ」


菜々子の胸に。

かっと熱いものが上がる。


「できます」


「意地張るな」


「張ってません」


「じゃあ何?」


「仕事まで取らないでください」


言ってから。

菜々子は自分でも驚いた。


榊も黙った。


「すみません」


菜々子は目を伏せる。


「でも」


声が少し震える。


「今、私にあるの仕事だけなんです」


榊の表情が変わった。

ほんの少し。


「だから」


菜々子は続ける。


「普通に働かせてください」


しばらく。

沈黙。


「分かった」


榊が言った。


「ただし」


「何ですか?」


「午後の打ち合わせで一回でも判断鈍ったら俺が代わる」


「分かりました」


「それと」


「はい」


「昼飯食え」


菜々子は一瞬。

何を言われたのか分からなかった。


「は?」


「朝から何も食ってないだろ」


「何で知ってるんですか?」


「コーヒーしか持ってなかった」


菜々子は呆れた。


「見てたんですか?」


「部下だから」


「怖いんですけど」


「勝手に怖がってろ」


いつもの榊だった。


そのことが。

なぜか少しだけ。


ありがたかった。


昼休み。


菜々子は一人で社員食堂へ向かった。


美穂には。

少し一人になりたいと言った。


トレーを持つ。

食べられそうなもの。


うどん。

それくらい。


席へ座る。


箸を持ったとき。

スマートフォンが震えた。


画面。

和樹。


昨日はごめん。落ち着いたら、また話したい。


菜々子は画面を閉じた。

返事はしなかった。


その直後。

少し離れたところから笑い声が聞こえる。


莉奈だった。


同僚と。

普通に笑っている。


菜々子は箸を握る。

胸が苦しくなる。


でも。

泣かなかった。


「仕事する」


小さく呟く。


今は。

それでいい。


何もなかった顔をして。

今日一日を終える。


それだけで。

十分だと思った。


菜々子は。

冷めかけたうどんを。


ゆっくり口に運んだ。

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