第5話 結婚するはずだった部屋
玄関のドアが閉まったあと。
菜々子は、しばらくその場から動けなかった。
和樹が出ていった。
たったそれだけなのに。
部屋の中が急に広くなったように感じる。
静かだった。
冷蔵庫の低い音。
時計の針。
外を走る車。
それ以外。
何も聞こえない。
「帰ったんだ」
菜々子は小さく呟いた。
当たり前のことなのに。
言葉にすると。
胸が痛んだ。
ゆっくりリビングへ戻る。
ソファ。
ダイニングテーブル。
カーテン。
テレビ台。
どれも。
二人で選んだものだった。
『この色がいいんじゃない?』
『汚れ目立たない?』
『菜々子、そこ気にするんだ』
『毎日使うんだから大事でしょ』
家具店で笑った。
休日を一日使って。
何軒も見て回った。
疲れて。
最後は二人でファミレスに入って。
そこでまたカタログを広げた。
あの日。
楽しかった。
本当に。
「何だったんだろ」
菜々子はソファに座る。
視線の先。
まだ開けていない段ボールがあった。
側面には。
菜々子の字で。
『キッチン』
と書いてある。
中身は。
二人で選んだ食器。
マグカップ。
カトラリー。
新生活用に買ったもの。
菜々子は立ち上がる。
何となく。
箱を開けた。
白い皿。
深めのボウル。
色違いのマグカップ。
「こっち和樹だったな」
ネイビー。
菜々子は薄いグレー。
店で。
和樹が言った。
『夫婦っぽくない?』
そのとき菜々子は笑った。
『まだ夫婦じゃないよ』
『もうすぐじゃん』
もうすぐ。
そのはずだった。
菜々子はマグカップを持ったまま。
動けなくなった。
夫婦。
もうすぐ。
その言葉が。
今になって。
胸の奥へ刺さる。
マグカップをそっと箱へ戻す。
「使わないんだ」
声が震えた。
二人分の食器。
二人分の箸。
二人分の生活。
全部。
必要なくなった。
菜々子は箱を閉じる。
でも。
次に目に入ったのは。
リビングの棚に置いてある紙袋だった。
結婚式場の名前。
嫌な予感がした。
近づいて。
中を見る。
席次表のサンプル。
装花のカタログ。
引き出物。
そして。
ドレス姿の菜々子が写った写真。
試着の日。
母も一緒だった。
菜々子がドレス姿で試着室から出た瞬間。
母は泣いた。
『きれい』
そう言って。
何度も写真を撮った。
和樹にも送った。
返事は。
似合ってる。
だった。
短かった。
でも。
菜々子は嬉しかった。
その頃。
和樹は。
もう莉奈とキスをしていた。
「嘘でしょ」
菜々子は写真を持ったまま座り込んだ。
その事実が。
何度考えても理解できない。
結婚指輪を見に行った日。
和樹は隣にいた。
菜々子の指にリングをはめて。
『これいいんじゃない?』
そう言った。
普通だった。
いつもの和樹だった。
でも。
心の中には。
もう別の女性がいた。
「何で」
ぽつりと声が落ちる。
今まで。
泣かないようにしていた。
和樹の前では。
絶対に崩れたくなかった。
莉奈に負けたみたいで。
嫌だった。
でも。
今は誰もいない。
だから。
もう。
無理だった。
「何でよ」
涙が落ちる。
一度出ると。
止まらなかった。
「何で私じゃ駄目だったの」
写真の上に涙が落ちる。
慌てて拭く。
でも。
また落ちる。
「五年だよ」
誰もいない部屋で。
菜々子は声を上げた。
「五年一緒にいたじゃん」
返事はない。
「結婚するって言ったじゃん」
ない。
「一緒に住むって」
ない。
「この部屋で」
声が途切れる。
「暮らすって言ったじゃん」
そこまで言って。
菜々子は顔を覆った。
子どもみたいに。
声を出して泣いた。
悔しかった。
悲しかった。
恥ずかしかった。
会社の後輩に。
婚約者を奪われた。
そんなことを。
明日から。
どうやって受け止めればいいのか。
誰に話せばいいのか。
母に。
何て言えばいい。
会社に。
結婚式に招待した人たちに。
何て説明すればいい。
考えるだけで。
息が苦しくなる。
「無理」
菜々子はソファの前に座り込んだ。
「こんなの無理だよ」
でも。
逃げられない。
明日は来る。
仕事もある。
莉奈もいる。
何も知らない人たちは。
菜々子を。
もうすぐ結婚する人だと思っている。
スマートフォンが震えた。
菜々子は顔を上げる。
和樹かと思った。
でも。
違った。
母からだった。
式に着ていく服、これどう思う?
その下に。
写真。
淡い色のワンピース。
菜々子は画面を見たまま。
また涙が落ちた。
母は。
楽しみにしている。
ずっと。
菜々子以上に。
「言えない」
今は。
言えない。
菜々子はスマートフォンを伏せた。
返信もできなかった。
どれくらい泣いたのか。
分からない。
気づけば。
時計は午前零時を過ぎていた。
菜々子はゆっくり立ち上がる。
洗面所で顔を見る。
目は赤い。
ひどい顔。
「明日、会社」
行けるだろうか。
一瞬。
休もうと思った。
でも。
すぐに首を横に振る。
「行く」
仕事まで。
失いたくない。
和樹に。
結婚を奪われて。
莉奈に。
未来を壊されて。
それで。
仕事まで手放したくなかった。
「行く」
もう一度言う。
明日。
普通に出社する。
莉奈がいても。
何もなかった顔をする。
できるかどうかではない。
やる。
そう決めた。
リビングへ戻る。
散らかった結婚式の資料を集める。
一枚ずつ。
紙袋へ戻す。
最後に。
ドレス姿の写真。
菜々子は少しだけ見つめた。
幸せそうに笑っている。
二か月後。
このドレスを着ると思っていた自分。
「ごめんね」
なぜか。
写真の中の自分に謝っていた。
そして。
紙袋へしまう。
そのとき。
ふと。
部屋の契約書が目に入った。
和樹の名前。
菜々子は動きを止める。
この部屋。
和樹名義だった。
結婚後。
二人で家賃を払う予定だった。
でも。
結婚しないなら。
ここに自分が住み続けられる保証はない。
「私」
菜々子は部屋を見回した。
結婚式を失った。
婚約者を失った。
そして。
もしかしたら。
この家も。
失う。
その瞬間。
泣き疲れて空っぽになったはずの胸に。
新しい不安が生まれた。
「私、これから」
どこに住めばいいんだろう。
菜々子は。
二人で暮らすはずだった部屋の真ん中で。
一人。
立ち尽くしていた。




