第7話 榊部長には隠せない
午後の打ち合わせは。
何とか終わった。
本当に。
何とか。
菜々子は会社へ戻るエレベーターの中で、壁に背中を預けた。
「疲れた?」
隣にいた美穂が聞く。
「大丈夫」
「またそれ」
「今日は何回目だろうね」
「笑い事じゃないよ」
美穂は菜々子の顔をじっと見る。
「本当に何かあったんでしょ」
菜々子は視線を逸らす。
「別に」
「その別にって顔じゃない」
「仕事中だから」
「だから何」
「今は話したくない」
少し強く言ってしまった。
美穂の表情が変わる。
「あ、ごめん」
「ううん」
美穂はすぐに首を振った。
「私も聞きすぎた」
エレベーターの扉が開く。
菜々子は先に出た。
本当は。
美穂に話してしまいたかった。
和樹に捨てられたこと。
莉奈が相手だったこと。
結婚式がなくなったこと。
全部。
でも。
一度口にしたら。
本当に現実になってしまう気がした。
まだ。
誰にも言いたくなかった。
席へ戻ると。
莉奈が菜々子のデスクの横に立っていた。
「桜井さん」
菜々子の足が止まる。
「何?」
「午前中の資料なんですけど」
「うん」
莉奈は紙を差し出した。
「修正したので確認お願いします」
「分かった」
菜々子は受け取る。
それだけ。
そのまま終わらせたかった。
でも。
莉奈は離れなかった。
「あの」
「何?」
莉奈が周囲を気にするように視線を動かす。
菜々子の胸がざわつく。
まさか。
ここで。
「昨日のこと」
小さな声。
菜々子は一瞬、息を止めた。
「今はやめて」
低い声で言う。
「でも」
「仕事中だから」
「少しだけ」
「小野寺さん」
菜々子は莉奈を見る。
先輩として。
いつものように。
そうしなければ。
感情が出てしまいそうだった。
「今は仕事の話だけにして」
莉奈の顔が曇る。
「はい」
そのとき。
「小野寺」
低い声がした。
二人とも振り返る。
榊だった。
「はい」
「さっきの企画書、確認した?」
「あ、まだです」
「先にそっちやって」
「分かりました」
莉奈は小さく頭を下げて離れた。
菜々子は資料を見るふりをする。
でも。
榊の視線を感じた。
「桜井」
「はい」
「会議室」
「え?」
「来て」
また。
菜々子は小さく息を吐いた。
会議室に入る。
榊がドアを閉める。
「何ですか?」
「座って」
「ここで大丈夫です」
「座れ」
いつもの命令口調。
菜々子は仕方なく椅子に座った。
「打ち合わせどうだった?」
「問題ありません」
「本当に?」
「はい」
「先方からさっき連絡来た」
菜々子の胸が跳ねる。
「何かミスしました?」
「違う」
「じゃあ」
「桜井さん、いつもより静かでしたねって」
菜々子は黙った。
「別に」
「別に、で済ませる?」
「仕事はちゃんとしました」
「それは分かってる」
「じゃあいいですよね」
「よくない」
菜々子は榊を見る。
「何がですか?」
「今のお前」
まっすぐ言われた。
「顔色悪い」
「寝不足です」
「昼飯ほとんど食ってない」
「見てたんですか?」
「食堂で見えた」
「怖いです」
「何とでも言え」
榊は腕を組む。
「午後の会議も、美穂が話してる間ぼーっとしてた」
「少しだけです」
「少しならいいと思ってる?」
菜々子は苛立つ。
「私、仕事してます」
「してる」
「ミスもしてません」
「今はな」
「じゃあ何なんですか?」
声が少し強くなる。
榊は黙る。
その沈黙が。
余計に腹立たしい。
「部長」
「何?」
「私に何をしてほしいんですか?」
「帰ってほしい」
菜々子は目を見開いた。
「は?」
「今日は帰れ」
「嫌です」
即答した。
「帰らない」
「桜井」
「まだ仕事あります」
「美穂に振る」
「嫌です」
「三浦にも」
「嫌です」
「お前がいなくても仕事は回る」
その言葉。
今の菜々子には。
あまりにも痛かった。
「そうですか」
声が冷たくなる。
「じゃあ私、いらないんですね?」
榊の表情が変わる。
「そういう意味じゃない」
「同じじゃないですか?」
「違う」
「私がいなくても回るなら」
菜々子は笑う。
「帰ればいいんですよね」
「桜井」
「結婚も」
口から出てしまった。
榊が止まる。
菜々子自身も。
言ったことに驚いた。
「何?」
「何でもありません」
立ち上がろうとする。
「待て」
「失礼します」
「桜井」
榊の声が低くなる。
「今、結婚って言った?」
菜々子は黙る。
「何があった?」
「関係ありません」
「昨日泣いてたことと関係ある?」
「ないです」
「嘘だな」
菜々子は唇を噛む。
どうして。
この人は。
何で気づくの。
「部長には」
声が震える。
「本当に関係ないです」
「それは俺が決めることじゃない」
「じゃあ誰が決めるんですか?」
「お前」
「だったら話しません」
「分かった」
榊はあっさり言った。
菜々子は少し驚く。
「いいんですか?」
「話したくないなら話さなくていい」
「じゃあ」
「でも帰れ」
「何でですか?」
「仕事ができる状態じゃないから」
「できます」
「できるかどうかじゃない」
また同じ言葉。
榊は静かに続ける。
「今のお前、何かにしがみついて仕事してる」
菜々子の胸が痛む。
「それが悪いとは言わない」
「でも」
榊は菜々子を見る。
「そのまま続けたら、どこかで壊れる」
菜々子は目を逸らす。
「壊れません」
「もう半分壊れてる顔してる」
その一言で。
何かが切れそうになった。
「やめてください」
「桜井」
「そんなこと言わないで」
声が震える。
涙が出そうになる。
絶対に。
この人の前では。
泣きたくなかった。
「私」
菜々子は拳を握る。
「普通にしたいんです」
榊は黙って聞いている。
「何もなかったみたいに」
「うん」
「仕事して」
「うん」
「いつも通り帰って」
「うん」
「そうしてれば」
声が途切れる。
「何とかなると思ってるんです」
静かな部屋。
菜々子は俯いた。
もう。
隠せていない。
分かっていた。
「桜井」
「はい」
「何もなかったことにはならない」
胸が痛む。
「でも」
榊の声は。
いつもより少しだけ柔らかかった。
「何かあったからって、全部一人で抱える必要もない」
菜々子は顔を上げる。
榊はいつもの無表情。
でも。
目だけが。
少し違って見えた。
「今日は帰れ」
もう一度言う。
「命令ですか?」
「命令」
「横暴ですね」
「知ってる」
菜々子は少しだけ笑った。
本当に。
ほんの少しだけ。
「分かりました」
初めて。
素直に頷いた。
「帰ります」
「そうして」
「でも」
「何?」
「明日は来ます」
「それは明日の朝決めろ」
「来ます」
「頑固だな」
「部長に言われたくありません」
榊がわずかに笑った。
一瞬だった。
菜々子は。
その表情を。
初めて見た気がした。
席へ戻る。
美穂が驚いた顔をする。
「どうしたの?」
「早退する」
「え、本当に?」
「榊部長に帰れって言われた」
美穂は少し安心した顔をした。
「今日はそうした方がいいよ」
「みんなそう言うんだ」
「だって顔ひどいもん」
「ひどいって」
「いい意味で」
「意味分からない」
少し笑う。
バッグを持つ。
莉奈の席は見なかった。
エレベーターへ向かう。
その途中。
榊の席の横を通る。
「桜井」
「はい」
榊はパソコンを見たまま。
「今日は何も考えずに寝ろ」
「無理だと思います」
「じゃあできるだけ」
菜々子は少し黙って。
「ありがとうございます」
榊は顔を上げなかった。
「別に」
その返事が。
少しだけ。
菜々子には優しく聞こえた。




