第三十話 弔いの歌声(閑話:十四日目)
商業都市ルミナスの西、港交易都市ガレリアへと続く街道を、一台の馬車が進んでいた。 頭上を覆う木々の梢は分厚く重なり合い、二つの月の光すら地面まで届かない。 備え付けられたランプの頼りない灯りだけが、轍の続く土の道と、そこに落ちる馬車自身の長い影を、ぼんやりと照らし出していた。
あの評議会での断罪から、数日。 円卓を囲む四家に議席の再審議を突きつけられ、追い詰められたまま辛くも屋敷へ逃げ帰ったグレゴーリは、この四日というもの、ろくに眠っていない。 すべてが決着する前に、ガレリアで一度体勢を立て直す。 それだけを念じて、夜を徹して馬車を走らせ続けてきた。
本来ならば、とうにこの刻限には野営の支度を終えているはずの時刻だが、馬車は止まる気配もなく、闇の奥へとひたすら進み続けている。
車内に満ちる息苦しい沈黙を破ったのは、グレゴーリの舌打ちだった。
「クソっ! ガレリアに戻って全部やり直しだ! まったく貴様らが足を引っ張ってくれたおかげで、あともう少しだったものを!」
肥えた体を座席に沈めたまま、グレゴーリ・フォン・ナルデニアンは吐き捨てるように声を荒げた。 指という指にはめた指輪が、苛立ちに震える手の動きに合わせてジャラリと安っぽい音を立てる。 落ちくぼんだ細い目の奥には、焦りと憎悪の入り混じった昏い光が揺れていた。
「ご…… ごめんよぉおやじぃ」
向かいの座席で、ジュリアンが体を縮こまらせて謝る。 歓楽街で見せていたあの粋がった軽薄さはどこにもなく、目の下の隈をいっそう濃くした蒼白の頬が、小刻みに震えていた。
「ごめんなさい……」
隣に座るクレアの声にも、いつもの高慢さはない。 厚化粧の下の顔がわずかに歪み、握った扇子を持つ指先が、白くなるほど強張っていた。
(この愚か者どもが……)
グレゴーリは、腹の底から込み上げる怒りを噛み殺すように奥歯を鳴らした。 息子が招いた窃盗の疑い。 妻が主催していた闇の競売の露見。 この重要な時によくもやってくれたものだ。 息子も妻も大枚はたいて出獄させた。 行き先はガレリアのパルテナ神殿での裁判だが、ガレリアの神殿であれば、コネもあるので、ある程度の無理が効く。 まだまだ逆転するチャンスは残っているのだ。
「今度やる時は確実に仕留めてやる。 モントブランの奴らめ。 アッシュフォードも道連れだ。 あの澄ました顔を踏みつぶしてやるわ!」
握った拳を座席の縁に叩きつけ、グレゴーリが低く唸る。
(あの小娘さえ、余計な真似をしなければ……!)
失った議席。 失った面子。 手の届きかけていたすべて――腹の底で渦巻く怒りが、行き場を求めて牙を剥いていた。
思えば、成り上がりに過ぎなかった自分が男爵位という肩書きを手にできたのも、ガレリアの伝手あってのことだった。 ガレリアに戻りさえすれば、まだ取り返しがつく。 そう自分に言い聞かせ、グレゴーリは震える両手を握りしめていた。
その時、ガタン、と馬車が大きく揺れて止まった。
突然の衝撃に、グレゴーリの体が座席から浮きかける。
「おい! 何をしている! ガレリアへ急げ!」
苛立ちのままカーテンを乱暴に開け、御者台を睨みつける。 だが、そこにいるはずの執事アルベールの姿がなかった。
「アルベール……?」
怪訝に思いながら反対側の窓を開ける。 護衛としてついていたはずの兵たちの姿もまた、忽然と消え失せていた。 松明も、足音も、人の気配すらない。 夜の街道には、自分たちを乗せた馬車だけが、ぽつんと取り残されている。
馬が甲高い嘶きを上げた。 びくりと肩を跳ね上げたのは、グレゴーリだけではない。 ジュリアンとクレアも、押し殺した悲鳴を喉の奥に飲み込んでいた。
闇に沈む森の中から、音もなく人影がいくつも湧き出す。 木々の隙間を縫うように歩み出て、街道の上に静かに並び立った。
その先頭に立つ女を見て、グレゴーリの喉から、思わず安堵の声が漏れる。
波打つ濃紺の髪を夜風に揺らし、褐色の肌に鋭い碧眼を光らせた女だった。 潮風に晒された革のロングコートの裾がざわりと翻り、指にはめた航海用の羅針盤を模した指輪が、ランプの光を鈍く弾く――「闇の爪」の四天王の一人、"航路の魔女"のイゾルデだった。
「イゾルデ! 良かった。 迎えに来てくれたのか?」
「グレゴーリぃ? あんた馬鹿なの?」
場違いなほど甘く、それでいて刃のように冷たい声が返ってくる。
「なに?」
「よくもいろいろ邪魔してくれたわね。 あんたのお陰で計画は台無しよ」
「わっ…… 分かっている。 だからこうやって一度戻ってだな」
脂汗が、グレゴーリのたるんだ顎を伝い落ちた。 何か言い訳を、少しでも自分を有利に見せる言葉を探すが、干上がった喉からは掠れた息しか出てこない。
「あんたに次のチャンスなんてあるわけないじゃん」
イゾルデの隣に、小柄な人影が音もなく並ぶ。 猫背気味の姿勢、落ち着きなく動く小さな目――"鼠"のコルトだった。
コルトはすでに、イゾルデへ報告を終えている。 ルミナス支局が壊滅し、"黒蛇"のザハールが警備隊に囚われたのは、他でもないナルデニアン一家が己の立場を守ろうと、洗いざらいすべてを警備隊に喋ってしまったからだと。 証拠の書面、密書のやり取り、隠れ家の場所――守るべきだったものを、グレゴーリたちは保身のためにひとつ残らず差し出してしまったと。
「いや だから」
「まぁ あなたとは長い付き合いだしね」
その一言に、グレゴーリはわずかな希望を見出しかけた。 長年の腐れ縁だ、まだ交渉の余地はある。そう思いたかった。
だが、イゾルデの碧眼はまるで笑っていなかった。 値踏みするような、それでいてもう関心を失ったような、酷く乾いた目だった。 傍らに控える黒ずくめの手下たちも、一様に沈黙したまま動かない。 逃げ場はどこにもないのだと、その静けさが雄弁に語っていた。
しかし次の瞬間、それが浅ましい誤解に過ぎなかったことを、いやというほど思い知らされる。
「最後くらいはあたしの歌で送ってあげる」
その一言で、グレゴーリはようやく理解した。 目の前の女は、かつての恩人でも、都合のいい後ろ盾でもない。 とうに用済みになった道具を、片付けにきただけの相手なのだと。
隣でジュリアンが、声にならない声で父を呼んだ。 クレアの扇子が、からりと乾いた音を立てて手からこぼれ落ちる。
「やめ――」
『人魚の歌声』
イゾルデの唇が、静かに旋律を紡いだ。
言葉にならない、美しく、それでいて底知れぬ響きを孕んだ声が、夜の森にゆっくりと染み渡っていく。 虫の音も、木々のざわめきさえも、その旋律の前では意味を失っていくようだった。
グレゴーリの、ジュリアンの、クレアの――三人の体から、同時に力が抜けた。 糸の切れた操り人形のように、虚ろな瞳のまま、三人はゆっくりと歩き出す。
もう誰も声を上げなかった。 悲鳴すら、喉の奥へと吸い込まれていく。
夢遊病者のような、覚束ない足取りだった。 導かれるように向かう先には、月明かりも届かぬ真っ黒な沼が、街道のすぐ脇で静かに口を開けて待っている。
躊躇する者は、誰ひとりいなかった。 一歩、また一歩と、迷いのない足取りで沼の中へと踏み込んでいく。
冷たい泥水が足首を、膝を、腰を、胸を、次々と飲み込んでいった。 それでも三人の足は止まらない。 虚ろな瞳のまま、ただ歌の導くほうへ、確実に沈んでいく。 もがくことも、あがくことも許されぬまま、ただ静かに死へと歩を進めていく三人の姿は、まるで最初からそう定められていた儀式のようだった。
そのまま、頭のてっぺんまで水面の下へと消えていった。
ごぼり、ごぼりと、いくつもの泡が水面ではじけ――やがて、辺り一帯は元の静寂に包まれた。
風だけが、何事もなかったかのように梢を揺らしている。
「面倒くさいけど、ザハール助けてあげようか。 ねっ コルト」
イゾルデが歌をやめ、まるで買い物でも手伝ってやるかのような気安さで呟いた。 沼に視線すら向けない、あまりに平淡な声だった。
「へいっ あねさん。 お願いします」
コルトが恭しく頭を下げると、他の黒ずくめの手下たちも音もなく踵を返し、森の闇へと溶けていく。ここに三人の男爵一家がいたことなど、初めから存在しなかったかのように。
闇に沈んだ沼の水面には、もう何の波紋も残っていなかった。 取り残されたランプの灯りだけが、誰もいなくなった馬車を、いつまでも虚しく照らし続けていた。 街道の先、ガレリアへと続く道の向こうには、今夜もまた変わらぬ静けさが横たわっているだけだった。




