第二十九話 拾われていく駒(レン:第一章最終話)
十日目の夜......。
日が暮れてからの評議会会館前には、人影がほとんどない。 門衛の松明と、広場の隅で焚かれた篝火だけが、静まり返った石畳を赤く照らしていた。
佐伯蓮とロベルト・モントブランを乗せた馬車は、その明かりの届かない暗がりに停められている。 御者台に座るはずのセバスチャンの姿はまだない。 彼もまた、閉ざされた扉の向こうでエレナに付き添っているはずだった。
評議員以外、誰ひとりとして中で何が語られているのかを知らない。 ただ、固く閉ざされたままの重厚な扉を見つめながら、待つだけのこの時間が、ロベルトにはひどく長く感じられた。
やがて音もなく、扉が内側から静かに開かれる。
真っ先に腰を浮かせたのは、ロベルトだった。
セバスチャンとマリアに付き添われ、現れたのは――エレナだった。
しかし、その顔には凛とした気品が見られた。 何かを成し遂げた自信を纏った雰囲気を漂わせている。 いつもであれば、セバスチャンやマリアに両脇から支えられているはずだったが、今はエレナが先頭を歩いている。
(あれは儂のエレナなのか?)
馬車の踏み台に足をかけたエレナに、佐伯が馬車の中から手を差し伸べた。 上目遣いに佐伯を見上げ、差し伸べられた手を軽くつかむと自分の力で馬車に乗り込み、外套を外して、マリアに手渡す。 セバスチャンは馬車の御者席へと移動した。
「良くやったな エレナ。 上出来だ」
静かに腰を下ろしたエレナの手を、ロベルトが両手で包み込むようにして取った。 祖父としての、飾らない労いの言葉だった。 その声には、孫娘の身を案じる者の温かさが滲んでいる。
「大変、立派でございました」
外套を持って続いて乗り込んできたマリアが、いつもの折り目正しい所作で頭を下げる。
佐伯は向かいの座席に静かに腰を下ろし、その様子を眺めていた。 ただ、舞台の袖から演目の出来を見届ける演出家のような、そんな眼差しだった。
馬車がゆっくりと動き出す。石畳を叩く車輪の音とともに、車内には束の間の安堵が満ちた。
「これで、終わりですか」
エレナが顔を上げ、妖しく佐伯をのぞき見た。 これですべてが終わって欲しくはない.... そんな願望が隠れ見える、そんな響きが声に混じっていた。
その双眸をまっすぐに見据えたまま、佐伯は微笑んだ。 作り物ではない、けれど温かくもない笑みだった。
「いえ。 彼らが報いを受けるのは――これからですよ」
鋭さを孕んだ視線が、一瞬だけロベルトの方にも向けられる。 老商人の背筋を、冷たいものが駆け抜けた。
(この男は――恐ろしい)
何十年と裏も表も王族とも渡り合ってきた自分の勘が、はっきりとそう告げていた。 娘夫婦の仇を討つ道具として自ら望んで招き入れた男だというのに、いまだにその底の見えなさに慄いてしまう。 頼もしさと恐ろしさは、いつも紙一重で同居している。 ロベルトは、その事実を今夜また思い知らされた気がした。
窓の外を流れていく夜のルミナスの街並みに目をやりながら、ロベルトは静かに息を吐いた。 この男を招き入れたのは、他ならぬ自分自身だ。 今さら後悔したところで、後には引けない。 ただ、この先この男が何をするつもりなのか、それだけは見届けねばならないと、老いた商人としての矜持がそう告げていた。
だが、その視線を真正面から受けたエレナの反応は、ロベルトのそれとは違っていた。
背筋を這い上がる恐怖――その奥から、ぞくり、と得体の知れない何かが込み上げてくる。
(怖いはずなのに――)
自分の中に巣食っていた恐怖が、いつの間にか形を変えて、奇妙な快感へと変わっていく。 与えられる恐怖の裏側に、これほどまでの甘美な刺激が潜んでいたことに、エレナ自身気づいていなかった。 父と母を奪われたあの夜以来、打ちひしがれるだけの存在だった自分が、いま初めて、与える側の心地を垣間見たような気がした。
自分が味わったものと同じものを、与える側に回れるのだとしたら、私はもう怖くない。
「そうですわね。 そうでしたわ」
濡れた瞳に、場違いなほど静かな光が宿る。
「私の復讐は――まだ、終わっておりませんもの」
馬車の車輪は、そのままモントブラン邸への道を淡々と刻んでいく。 窓の外を過ぎていく夜のルミナスの灯りを眺めながら、佐伯は静かに目を細めた。 今宵、この馬車に乗り込んだ少女は、あの惨劇の夜に助け出した震える子どもとは、もう別人になっていた。
・・・・・
時は戻って、警備隊が「夜想曲」に突入した八日目の夜のこと。
葛城たちの一隊が下水道の入り口へと吸い込まれ、「夜想曲」の地下へと消えていくのを屋根の上から見届けると、佐伯は隣に控えるヴィオラへ短く告げた。
「他の下水道入り口から入って、連中を追え。 危なくなったら助けてやれ――ただし、見つかるなよ」
難しい注文だということは自分でもわかっている。 だが、ヴィオラならそれをこなせるだけの技量を持っていた。 頷きひとつを返して闇に溶けていく背中を見送ると、佐伯はその場を離れ、別の方角へと足を向けた。
向かった先は、ルミナス警備隊本部だ。
夜想曲への強襲に警備隊の主力が割かれているこの一夜こそが、絶好の機会だった。 ザハールという駒が捕らえられるにせよ逃げおおせるにせよ、警備隊本部の守りが手薄になることに変わりはない。 佐伯はここでもう一つ布石を置いておきたかった。
夜も更けた本部の中は、人の気配が驚くほど少ない。 ほとんどの当直隊員があの襲撃に駆り出されているのだから、当然といえば当然だった。 気配遮断のスキルをまとった佐伯にとって、忍び込むことは造作もない。 裏口の錠は、開錠のスキルを使うまでもなく、隙間に爪先を差し込むだけで容易く開いた。
地下牢へ続く石造りの階段は、松明の灯りも心もとなく、影が幾重にも重なっていた。 見張りの隊員が二人、居眠り交じりに壁に寄りかかっている。 振り返る間もなく、当て身で二人まとめて沈めた。
物音に気づいて目を覚ましたのは、独房の一つに繋がれていた小柄な男――"鼠"のコルトだった。
「な、誰だ――」
言い終える前に、佐伯の視線がコルトを捉えていた。
『記憶の改竄』
声もなく発動したスキルに、コルトはぽかんと口を開けたまま、数瞬の間、自分がなぜ目を覚ましたのかも分からなくなる。 佐伯は目的の一つ、布石となる記憶をコルトに刻み込んだ。 目を開けたまま再びまどろみの中へと沈んでいく。
佐伯は歩みを進め、隣の独房――格子の奥に座り込む青い制服の女の姿を覗き込んだ。
「牢の鍵を開けるから、二人を連れて逃げるがいい」
闇の中、格子越しに向けられた視線には、警戒の色が濃く滲んでいた。 物腰の柔らかそうな身なりの若い男が、なぜこんな夜更けに現れて、自分たちを助けようとするのか。 理由のわからない親切ほど、この世界では信用ならないものはない。
しばらくの沈黙のあと、ヘレナは低く、探るような声で呟いた。
「夜の空を舞うものは?」
合言葉――佐伯が「闇の爪」の一員なのかどうかを、確かめるためのもの。
『記憶の改竄』
彼女の記憶を読み取り、正しい答えをその記憶から検索する。
「ただ一つの黒き烏」
格子の向こうで、ヘレナの気配がわずかに緩んだ。
「――ザハールのところには戻る必要はない。 ザハールは、今夜おそらく捕まる。 お前は本部に知らせて、ザハールを助けてやればいい」
「あなたが、やればいいのではないの?」
「僕は、他にやることがある」
それだけ言うと、佐伯の姿は闇の中へ溶けるように消えていた。 物音一つ立てず、まるで最初からそこにいなかったかのように。
残されたヘレナが足元に目をやると、牢の鍵が転がって落ちている。 指先でそれを拾い上げ、鍵穴に差し込んだ。 軋んだ音を立てて鉄格子が開く。
牢を出て周囲を見渡せば、見張りの隊員たちは皆、力なく倒れ伏していた。 誰かが目を覚ますまで、そう長くはないだろう。
時間は少ない。
隣の独房でまだ状況を飲み込めずにいるコルトと、さらに奥のヴェロニカの牢を次々に開けながら、ヘレナは自分の頭の中を凄まじい速さで回転させていた。
この状況から、どうやって三人で切り抜けるか。 そして――今夜、闇の中に消えたあの男は、いったい何者なのか。
ぞくり、と背筋に走ったものを、ヘレナは恐怖ではなく興味として受け止めていた。 危険な男。 だが、危険なものほど、うまく使えば大きな見返りをもたらす――それがこれまで彼女の生き方を支えてきた、数少ない確かな法則だった。
・・・・・
時は進み、十六日目の午後。 アッシュフォード伯爵家、当主の執務室。
磨き上げられた調度品と厚い絨毯に囲まれたその部屋には、昼の陽光がやわらかく差し込んでいた。 壁に並ぶ歴代当主の肖像画が、来訪者を無言で見下ろしている。 窓の外には、手入れの行き届いた庭園が広がり、噴水の水音がかすかに部屋の中まで届いていた。
佐伯は肘掛け椅子に優雅に腰掛け、給仕された茶を静かに口に運んでいた。 背後にはセバスチャンが控え、立派な執務デスクの向こうにはセドリックが腰掛けている。 壁際には、アッシュフォード家の執事長シリル・ハートウェルが、儀礼どおりに微動だにせず立っていた。
「これで、ひと段落ついたのかな?」
セドリックの声には、相手の内側を探るような響きがあった。 柔らかな微笑みの下に、鋭い計算を隠す男の常だ。
「いえいえ。まだですが……。毒の解析は済みましたか?」
佐伯はさらりと話題を変える。 まるで天気の話でもするような気安さだった。
「……ああ。レン殿には感謝している。 おかげで父の容体は、回復しつつあるようだ。 毒を薬に混ぜていた者も、捕らえた」
「それは良かった」
「あの毒は、どこから?」
「闇の爪の隠れ家です。 忍び込ませた者が見つけた資料の中に、毒の生産者の名がありましてね。 お話をさせていただいたら――譲っていただけました」
「………」
それが全てではないことくらい、セドリックにも察しはついていた。 だが、それ以上深く踏み込むことはしなかった。 この男には、得体の知れないものがある。侮ってはいけない。
直感が、そう警告していた。
「評議会は、レン殿の予想どおりに進んだよ。ベルンハルトとヴァンダールの動きまでは読めなかったはずだが……なぜ分かったのだ?」
「知りませんでしたよ」
「どういうことだ」
「ただの、勘です」
「そんなはずはないだろう」
「……知らない方が、面白いこともあるではないですか」
この男にとっては、あの評議会が、どちらに転んでもよかったのかもしれない。 ただ、進む方向にわずかな指向性を持たせただけ。 今回はたまたま、彼の予測どおりに事が運んだ――それだけのことなのかもしれない。 それとも、この男の掌の上で、最初からすべてが定められていたのか。 セドリックには、もはや判断がつかなかった。
「それで、レン殿はこれからどうなさるのです?」
「そうですねぇ。 エレナさんと、結婚を考えています」
「――なに?」
この男が、モントブランという伝統を継ぐというのか。 それは本当に、ルミナスにとって――いや、この国アルファンドにとって、良いことなのか。 デスクの陰で握られた拳に、セドリックは自分でも気づかぬまま力を込めていた。
「エレナさんの気持ちもありますから、まだ分かりませんが。 セドリック様には、祝福していただきたいですね」
セドリックは幾つもの思案を巡らせる。 損得、体面、そして――言葉にしがたい別の感情も。
モントブラン商家という巨大な後ろ盾を、この得体の知れない男が丸ごと手にすることになる。 それは評議会の勢力図そのものを塗り替えかねない話だった。 だが、この場でそれを口にしたところで、何がどう変わるわけでもない。 セドリックは、自分にできることが「祝福」の二文字を差し出すことだけだと、痛いほど理解していた。
「祝福、しよう……」
「良かった。それが聞けただけで、来た甲斐があります」
佐伯はカップを置き、優雅に立ち上がる。 扉に向かって歩み出し、その前で深く一礼すると、セバスチャンを伴って部屋を後にした。 シリルだけが、最後まで一言も発することなく、その背を見送っていた。
「それでは、これからも――良き関係を」
扉が閉じた後もしばらく、セドリックの両の手には汗が滲んでいた。
アッシュフォード家の屋敷の前に停まった馬車には、一人の女が座っていた。 変装で見た目こそ変わっているが、間違いなく警備隊本部から逃がしてやった女だった。 名前は何だったか.....?
「私は、あなたについていくことにするわ。 あなたには借りもあるし――面白いものを見せてくれそうな予感がするのよ」
地下牢の格子越しに見せていた警戒の色は、日差しの下ではもうどこにもない。 むしろ、これから何が始まるのかを楽しみにするような、酷薄な光が瞳の奥に揺れていた。
「………」
佐伯は彼女を静かに鑑定する。
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【名前】:パンドーラ・ディクソン
【属性】:ヒト族 女 27歳 悪 混沌
【犯罪歴】:詐欺 窃盗 殺人
【スキル】:隠匿Lv7 気配遮断Lv7 偽造Lv7 記憶補助Lv3 変装Lv7
【ユニークスキル】:真実の偽装
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悪と混沌の属性。詐欺、窃盗、殺人――刻まれた犯罪歴の文字列は、佐伯自身のそれと驚くほどよく似ていた。似た者同士だからこそ、使い道もよくわかる。
それに彼女はステータスを隠さなかった。 それは『隠匿』と『ユニークスキル:真実の偽装』を隠さなかったから.....。 いや、それすら彼女の偽装なのかも知れない。 信頼? そんなものは佐伯は求めない。
(面白い.....)
「パンドーラ・ディクソン。 あなたを受け入れよう」
セバスチャンが手綱を取り、馬車を静かに動かし始めた。 車輪の音が、昼下がりのルミナスの街並みへと吸い込まれていく。
舞台の上には、また新たな役者が一人、加わろうとしていた。




