第二十六話 崩れゆく駒(閑話:八日目)
高級娼館「夜想曲」の地下は、墓の底のような冷たさがある。
表の華やかな喧騒も、酔客のさざめきも、幾重にも重ねられた分厚い扉の向こうにはまるで届かない。隠し階段を三度折れて降りたその先、湿った石壁に囲まれた狭い一室に、揺れる燭台の灯りだけが、そこにいる者たちの輪郭をぼんやりと浮かび上がらせていた。
「――で、ヴェロニカが警備隊に捕まったってのは、本当なんだな」
椅子に深く腰を沈め、長い足を組んだ男が低く言った。 腰まで届く漆黒の髪、艶のない革を纏った瘦せた長身に、黒いマントを羽織っている。手足だけが不自然なほど長く、髪の隙間から覗く両の目が、正面に立つ男を射抜くように見上げていた。――「黒蛇」と呼ばれる男、ザハールである。
「ええ。 クレアのオークション会場で捕り物があったみたいよ。 その場には魔術師ギルドのギルド長も居たらしいわ」
部屋の隅の長椅子に腰かけている、艶やかな黒髪を結い上げた、恰幅の良い熟女――高級娼館「夜想曲」」の女主人、マダム・ブレストはその顔に焦燥感を滲ませていた。 仕立ての良いドレスに、指には大粒の宝石をあしらった指輪をいくつも光らせ、化粧は派手だが崩れがない。 彼女は豊かな胸元を揺らしながら小さく肩をすくめた。
「それだけじゃない。 どうもそこには「共鳴宝珠」もあったみたいなのよ」
「どういう事だ? ヴェロニカからは何も報告は上がってないぞ」
ザハールが横に座る能面男を見据えた。
「俺も聞いてない。 ガローはそんなことを言っていたが、ヴェロニカからの報告はなかった」
感情の窺えない声で答えたのは、影狩りのダレンだった。 能面のような顔には汗の一筋すら浮かんでいない。 黒革の手袋をはめた手が、静かに垂れたままだ。 彼の背後、開け放たれた扉の陰には、黒ずくめの装束に身を包んだ男が二人、影のように気配を殺して立っている。
「どいつもこいつも使えねぇな」
ザハールは吐き捨てるように言うと、懐から一組のタロットカードを指先で一枚ずつ丁寧に払うように取り出した。
ザハールは目を閉じ、カードを一枚めくるたびに軽く息を止めた。 指先に走る痛みにも似た感覚――それぞれの札に刻まれた『死の刻印』の持ち主が、今どこにいるのか。 タロットを通して伝わってくる淡い気配を、一本の糸を手繰るように慎重に辿っていく。
(――これは、酒場裏の路地。 次は、商業区画の裏通り。 これは、スラムの外れ……)
一枚、また一枚。 慣れた手つきで札を捲っていたザハールの指が、ふと止まった。
(――コルトと、ヴェロニカが、同じ場所にいる)
目を開ける。眉間に薄く皺が寄っていた。
「……コルトとヴェロニカが両方とも、警備隊本部の中だ」
「捕まった、ということか」
「そう考えるのが妥当だろうな」
吐き捨てるように言って、ザハールはカードの束を膝の上に置いた。 深いため息が漏れる。
(――モントブランの商会長を仕留めるのに、グラトの奴らを使ったのが、そもそもの間違いだったのか?)
迷いの森の山賊、グラト一味。 金で雇い、馬車ごと夫婦を仕留めさせたあの仕事は、飼ってたトロールが暴走して一味もろとも喰い荒らされて全滅したと生き残りから聞いている。 おかげでモントブランの長女は生き延びた。 これがケチのつけ始めだ。
クロウが欲しがっていた「共鳴宝珠」は、ジュリアンに盗まれてから行方不明になっていたが、先に警備隊に発見され、すでに魔術師ギルドの倉庫に戻ったようだ。
宝珠の事を黙っていたヴェロニカの一件といい、今度はコルトまで捕まったとなれば、この一月ほどの間に積み上げてきた駒を、一枚ずつ丁寧に剥ぎ取られているようなものだった。
(――どうにも、上手くいかねぇ)
何か得体の知れないものに、じわりじわりと絡めとられているような気がする。 目に見えない糸が、こちらの手駒を一つずつ、静かに引き抜いていくような。 そんな薄気味悪い感覚が、さっきから背筋にこびりついて離れない。
「で、どうするんだい? うちの店は軌道に乗り始めてて、目をつけられたりすると困るんだけどね」
マダムが汗をきらびやかなハンカチで拭きながら、ザハールに問いただす。
「うちから出てってもらえ....」
「……マダム」
ザハールは膝の上のカードから一枚を抜き出し、ろうそくの灯りにかざして見せた。 マダムの顔がその瞬間、凍りついたように強張る。
「死にたいのか?」
「あ――」
「あんたの首筋の刻印は、まだ新しいほうだったな。 俺の気分ひとつで、いつでも心臓を止められるってことは、忘れちゃいないだろう」
マダムの豪奢な化粧の下から、みるみる血の気が引いていった。 額に脂汗を浮かべ、両手を胸の前で組む。
「ご、ごめんなさい。ザハール様、あたしはただ……ちょっと軽口を叩いただけで。 上客たちの噂話なら、また新しいのをいくらでも集めてまいりますから――どうか、それだけは」
「冗談だよ」
ザハールはカードを懐に戻し、興味を失ったようにマダムから目を逸らした。 もっとも、その声にはまるで温度がなかった。 マダムは長椅子の上で、しばらく肩を震わせたまま動けずにいた。
黙ってそのやり取りを眺めていたダレンが口を開いた。
「――で、どうする」
ザハールは顎をさすりながら指示を出す。
「クロウが欲しがってる以上、共鳴宝珠は何としても手に入れねぇといけねぇ。 元の計画通り、王都への移動中を狙う。 グラトは使えねぇから、別の腕っぷしの強ぇやつら集めろ。 恐らく警備は強化されるはずだ。 魔術師が要るな」
「ヴェロニカとコルトは?」
「ヘレナに言って、うまく逃がしてもらうか……いや」
言いかけて、ザハールはふと眉をひそめた。
(――待てよ。 コルトとヴェロニカが捕まったのは、なぜだ)
二人とも、そう簡単に尻尾を掴まれるような間抜けではない。 特にコルトは、追われることには誰よりも敏感な男だ。 誰かが情報を流したとしか思えなかった。 それに、そもそもコルトはヘレナからジュリアンの報告を貰う為に出て行ったのではなかったか。
(――まさか、ヘレナが裏切ったのか?
――いや、ありえねぇ。 ヘレナの生への執着は本物だ。 自分が死ぬかもしれねぇ博打を自分から打つはずがねぇ......)
考えれば考えるほど、腹の底に嫌な重さが沈んでいく。 ダレンも同じ違和感を覚えたのか、口を挟まず、次の指示を待つように黙している。
「ヘレナの状況を探らせろ。 それと、地下牢の見張りの数と交代の刻限も、今夜のうちに洗い直しておけ」
「わかった」
「今夜のうちに、動いたほうがいいかもな」
ザハールは低く呟くとダレンが顎で合図した。 扉の陰の黒ずくめたちが音もなく身を翻し、闇の中へと溶けるように消えていく。
「クロウには、何と報告する」
ダレンの問いに、ザハールは一瞬だけ言葉に詰まった。 「共鳴宝珠」を献上すると約束したのは、他でもない自分自身だ。 身内から立て続けに刻印持ちが引っ張られたなどと知れれば、クロウがどう出るか――考えるだけで、背筋に冷たいものが走る。
「――まだ何も報告する必要はねぇ。 宝珠奪取は元の計画通りだ」
「了解した」
ダレンは短くそれだけ答えると、一礼もせずに部屋を出ていった。 残されたのはザハールと、まだ膝の震えの収まらないマダムだけだ。
冷えた石の壁に視線を這わせながら、ザハールは懐のタロットカードの上から、そっと手を押し当てた。
(――この違和感はなんだ)
そんな問いが、答えのないまま胸の奥にこびりついて離れなかった。 ザハールの目だけが、まだ何かを探るように暗がりの奥をじっと見据えていた。




