第二十五話 新たな舞台役者(レン:八日目)
モントブラン家の客室は、蝋燭の淡い灯りに沈んでいた。
窓の外では、夜警の魔導ランプが等間隔に灯る大通りの先に、貴族区画の白い邸宅群が、月の光を吸って青白く浮かび上がっている。
佐伯蓮は寝台の縁に腰掛け、指先で杯の縁をなぞりながら、ここ数日の収穫を頭の中で並べ替えていた。
ロベルトからは「仇討ち」への全面協力の言質を取り、エレナは評議会への出席すら自ら志願した。 庭園でのささやかな会話ひとつで、あの少女の胸には、彼女自身も気づいていない小さな依存の芽が根を張り始めている。 「共鳴宝珠」はすでにクレアのオークションに出してあり、自身につながる糸は残っていない。
――駒は、すべて望んだ位置に収まっている。
あとは、ナルデニアン男爵家という舞台装置が、どのように崩れ落ちるかを見届けるだけだ。 佐伯はそう結論づけて、杯に満たされた葡萄酒を一口だけ含んだ。 芳醇な香りが鼻を抜けていくが、味わうことよりも、思考を巡らせるための儀式に近い所作だった。
口に含んだ葡萄酒を飲み込んだところで、扉が音もなく開いた。
振り返らずとも分かる。 気配を殺すその歩き方は、ヴィオラのものだ。 彼女は足音ひとつ立てず、まるで影そのものが移動するように部屋へ滑り込んでくる。
「戻ったか」
「ああ」
短く答えて、ヴィオラは扉のそばの暗がりに控えた。 銀色の狼耳がわずかに伏せられている。 何か報告があるのかも知れない。
「……」
ヴィオラは口を開きかけ、しかしそれきり言葉に詰まった。 伝えるべきことがあるのは、その硬い横顔を見れば分かる。 だが、この寡黙な戦闘奴隷に、状況を順序立てて説明する能力を期待するのは端から無理な話だった。
佐伯は小さく息をつくと、杯を置いて立ち上がり、ヴィオラの前に立った。
「そこに立て...」
そう言って、静かに手を伸ばし、ヴィオラを立たせると彼女の赤い瞳を見つめる。
『記憶の改竄』
流れ込んでくるのは、彼女がついさっき見てきたばかりの光景そのものだった――商業区画の喫茶店の裏手。 密書を交わす"鼠"のコルトと、青い制服を着た真面目そうな眼鏡女性の姿。 異変を察して逃げようとするコルトを捕まえる商家の少女に向けて、眼鏡女は仕込み短剣で斬りかかり、別の青い制服を着た見覚えのある獣人の女が、横から飛び出してきて眼鏡女を組み伏せる。 そして、コルトと眼鏡女が縄を打たれ、連行されていく後ろ姿。
映像は数秒で途切れた。 佐伯は目線をヴィオラの瞳から外し、スキルを解除した。
佐伯の脳裏で、これまで積み上げてきた情報の断片を一本の線に繋げてゆく。
あの青い制服はセバスチャンから聞いていたルミナス警備隊のものだ。 つまり、眼鏡女は「闇の爪」の内通者といったところで、商家の少女に化けていたのは内偵か何かだろう。
ジュリアンを連れて行った獣人の警備隊員も出てきたということは、コルトの素性もバレている。
(――警備隊の動きが、随分と早いな)
青い制服の眼鏡女が土壇場で得物を抜いたということは、それだけ追い詰められていたということだ。佐伯はその光景を、まるで自分自身がその場に立ち会っていたかのように、鮮明に思い描くことができた。
佐伯は目を細め、静かに笑みを浮かべた。優雅で親しみやすい、しかしその芯の部分がひどく冷たい微笑みだった。
ナルデニアン家長子ジュリアン、情報屋の"鼠"のコルト、そして警備隊内部に潜んでいた内通者。 これで、モントブラン家商会長殺害と「闇の爪」を繋いでいた糸は、ものの数日ですべて手繰り寄せられたことになる。
(正直、これは予想以上だ)
佐伯は内心、素直に感嘆していた。 この世界の警察組織――ルミナス警備隊は、日本の所轄署などよりよほど優秀に動いているのではないか。 ジュリアンの目撃情報が万が一伝わらなければ、記憶の改竄でそれとなく手がかりを流し込み、捜査線を誘導する算段すらしていたのだ。 だが、そんな小細工は必要なかった。 彼らは自力で、着実に真相へと迫っている。 目撃証言から似顔絵、似顔絵から容疑者へ――地道な手続きを積み重ねる姿勢は、案外馬鹿にできないものらしい。
(――面白い)
誰かに出し抜かれることを、佐伯は嫌わない。 むしろ、舞台の緊張感を高める上等な演出だと捉える性質だった。 優秀な敵役ほど、幕は締まる。
だが、感心してばかりもいられない。 内通者とコルトが捕まったということは、遠からず娼館「夜想曲」の在り処も割れるだろう。 容易く口を割るとは思わないが――この捕り物の手際、そして警備隊の対応の速さを考えれば、今夜中にも動き出す可能性がある。
もし「夜想曲」が押さえられれば、「闇の爪」という組織の輪郭が、警備隊側にも一気に露わになる。
(悪くない展開だ)
佐伯にとっては、火の粉が自分に降りかからない限り、他人の家が燃え落ちるのを眺めるのは、むしろ愉快な見世物ですらあった。
佐伯は杯を置き、静かに立ち上がった。
「ヴィオラ」
ヴィオラは佐伯の脇に静かに控えた。
「出るぞ。 夜想曲の調べを堪能しにいこう」
「......」ヴィオラは何も問わず、ただ小さく頷いた。
・・・・・
夜も更け、月明かりだけが石畳を青白く照らす頃、佐伯とヴィオラは商業区画の裏路地を音もなく抜けていた。 表通りの喧騒が遠のくにつれ、代わりに漂ってくるのは、酒と香油の入り混じった、繁華街特有の甘ったるい匂いだった。
高級商館「夜想曲」――表向きは洒落た娼館だが、その実態は「闇の爪」の隠れ家のひとつだ。 少し離れた隣接建物の屋根の上から見下ろせば、店の周囲にいくつもの人影が、息を潜めるようにして張り付いているのが分かった。
(やはり、警備隊の動きが早い)
佐伯は瓦の上に身を伏せ、気配を殺してその様子を窺った。 人影はいずれも、丈の長い黒っぽい外套を目深に被り、その下に隠れているはずの制服の色も、腰の得物の形すらも巧妙に覆い隠しているようだ。 素人目には、ただの浮浪者か、酔って軒先に座り込んだ夜更かしの客にしか見えないだろう。
だが、佐伯の目はごまかせない。物陰に立つ姿勢の硬さ、等間隔に保たれた距離、路地の出口という出口を漏れなく塞いだ配置――そのどれもが、統率の取れた組織的な動きを物語っていた。 表口だけでなく、裏口、隣家との塀際に至るまで、既に包囲は完成している。
(突入は近いな)
網を張り終え、獲物が身動きを取れなくなるのを、じっと待っている段階らしい。 佐伯は視線を巡らせ、その包囲の中心――指揮を執っているらしい人影を探した。
――と、路地の暗がりに紛れるようにして立つ、見覚えのある姿を見つけて、佐伯の視線がぴたりと止まった。
他の者たちと違い、外套を纏ってはいない。 くたびれたベージュのトレンチコート。 しわの寄ったグレーのスーツ。 日に焼けた四角い顔と、太い眉。物陰から周囲の外套の一団に、時折小さく手だけで合図を送るその立ち姿は、遠目にも、記憶にある輪郭そのものだった。
(――葛城、陣)
この異世界の二つの月明かりの下に立つはずのない男。 日本の警視庁捜査一課の刑事。 何度となく佐伯の計画の邪魔をしてきたあの粘着質な男が、まさかこの世界にまで追ってきていたとは。
「……なんてしつこい刑事だ」
佐伯は口の中だけで、小さく呟いた。 声にはならないほどの吐息交じりの呟きだったが、そこに滲む響きは、驚愕よりもむしろ愉悦に近かった。
「こんなところまで追ってくるとは、素直に驚嘆に値するよ」
隣でヴィオラが小さく首を傾げる。 誰のことを言っているのか、彼女には分からない。 佐伯はそれ以上説明する気もなく、視線を屋根の下の光景に戻した。
佐伯にとって、葛城陣という男は、もはや過去に置いてきた脅威ではなかった。この舞台に、思いがけない形で新しい役者が登場した――ただ、それだけのことだ。 しかも、よりによってこの異世界で、警備隊という組織の側に立って、「闇の爪」という同じ敵を追っている。
(なるほど この素早さはそういうことか)
冷徹な計算の上では、葛城の存在は無視できない不確定要素だ。 あの男の執念深さと嗅覚は、佐伯自身が誰よりもよく知っている。 だが今、佐伯の口元に浮かんだ笑みは、警戒よりも、明らかに歓迎の色を帯びていた。
この物語に、また一人、意外な配役が加わった。 とんだ形で、思いがけない場所に舞い込んできたものだ。
思えば、日本にいた頃の佐伯は、自分を追う人間の顔など、いちいち覚えている方ではなかった。 佐伯は証拠を残さない。 他人を操り、事を成してきた。 大抵の追跡者はその迷路の中で立ち尽くすだけの存在に過ぎない。 だが葛城陣という男だけは、いつも勘だけを頼りに、理屈の通らない場所まで這い寄ってきた。 そういう意味では、稀有な男だった。
(さて――君は、この世界で何を見つけるつもりだ)
佐伯は口の端をわずかに持ち上げたまま、屋根の暗がりに身を沈めた。 ヴィオラが音もなくその横に並び、無言のまま同じ方向へ視線を向ける。
眼下では、依然として動きはない。 外套の一団は路地の闇に溶け込んだまま、店の明かりが漏れる窓を、息を殺してじっと見張り続けている。 合図はまだ出ていない。まだ、幕は上がっていないのだ。
葛城もまた、その静止した舞台の中心で、腕を組んだまま微動だにしなかった。 表情までは窺えないが、その立ち姿には、獲物が完全に逃げ場を失うその瞬間を、辛抱強く待ち構える猟犬のような静かな圧があった。
佐伯はそのまま瓦の陰に留まり、いつ幕が上がるとも知れないこの舞台を、しばらく見届けることにした。




