第二十四話 刻印の涙(ジン:八日目)
瓦屋根の縁に腹這いになったリゼットは、下の路地を見下ろしながら、口の中で小さく舌打ちをした。
隣で息を潜めているノーラが、猫の耳をピクリと動かして囁く。
「リゼコぉ……あれ、地下水道の点検口だよねぇ」
「だな。 見ろよ」
二人が見つめる先、高級娼館「夜想曲」の裏手にひっそりと蓋をされた鉄格子の点検口が、ゴトリと小さな音を立てて持ち上がった。
中から這い出てきたのは、薄汚れた灰色のフードを目深に被った小柄な男だった。 周囲を三度見回し、指先で鼻をこすってから、猫背気味の姿勢でそそくさと路地を歩き出す。
(――”鼠”のコルト)
ノーラから事前に人相書きを渡されていた顔だ。 リゼットの目が細くなり、目線でノーラに合図を送った。
ノーラが屋根の縁からするりと降り、影から影へと音もなく渡っていく。 リゼットもまた小柄な体を活かし、路地裏の商品棚やゴミ置き場の陰を縫うようにして後を追った。 二人の足音は、繁華街の喧騒に紛れて消えていく。
・・・・・
コルトが向かったのは、意外にも小綺麗な商業区画だった。 豪商や商人が昼下がりの茶を楽しむ喫茶店の前で、彼は柄にもなく身なりを整えるように襟元を直し、店の中へと消えていく。
「……誰かと会うつもりか?」
リゼットは物陰から店構えを睨みつけながら呟いた。 裏路地の情報屋が、こんな瀟洒な店に単身乗り込むはずがない。 誰かと会う。それも、表沙汰にできない相手と。
「リゼコ、どうする?」
「決まってんだろ。 あたしが行く。 出入口見張ってろ」
言うが早いか、リゼットはくるりと路地の暗がりに身を滑らせた。 数十秒後、そこから現れたのは、商家の小奇麗な少女だった。丸眼鏡と質素な髪型、少し猫背にした立ち姿。 素の顔立ちの印象の薄さも手伝って、誰の記憶にも残らない「その辺にいる誰か」に変わっている。
「……上等」
小さく呟いて、リゼットは何食わぬ顔で喫茶店の扉を押した。
店内は昼下がりの陽光がレースのカーテン越しに差し込み、茶器の触れ合う音と控えめな話し声で満ちていた。リゼットは奥の空いた席に着き、注文を取りに来た給仕にのんびりと紅茶を頼みながら、視界の端でコルトの姿を追う。
コルトは窓際の二人掛けの席にひとり座っていた。だが――その隣の席、背もたれ一枚を挟んだ向こう側に、見覚えのある女が腰掛けていることに、リゼットは気づいた。
(――ヘレナ・ドノバン?)
警備隊の書類管理官。 眼鏡をかけた真面目そうな顔立ちのあの女が、なぜこんな場所に。
二人は同じテーブルについてはいない。互いに背を向け合ったまま、まるで見知らぬ他人同士のように、ぼそぼそと小さな声で言葉を交わしている。 内容までは聞き取れない。 だが、ヘレナの手が懐から取り出した折り畳んだ一枚の紙が、背もたれの隙間を通してコルトの手のひらへとすっと滑り込むのを、リゼットは確かに見た。
(――もらった)
心臓が跳ねる。リゼットは視線を紙面から引き剥がし、何気なく紅茶を口へ運ぶ仕草に戻そうとした。
が、遅かった。
窓ガラスに映った自分を確かめるように振り返ったコルトと、正面から目が合ってしまった。
コルトの顔から、みるみる血の気が引いていく。
「――っ!」
椅子を蹴倒すようにして立ち上がったコルトが、脱兎のごとく店の出口へ駆け出す。 同時に、ヘレナもまた素早く席を立ち、逆方向の裏口へと身を翻した。
「待ちなっ!」
リゼットも眼鏡を投げ捨てて跳ね起きる。 客たちの悲鳴と椅子の倒れる音が店内に響く中、彼女は素の身のこなしでコルトの襟首に飛びつき、そのまま床に押し倒した。
「ぐっ……はっ、放せぇっ! 俺は何も、何もしてねぇっ……!」
「うるさい! この鼠がっ。 大人しくしろ!」
馬乗りになったリゼットがコルトの腕をねじり上げたその時、視界の端で白刃の閃光が走った。
「――っ!」
咄嗟に身をよじって避けなければ、脇腹を裂かれていたところだ。 仕込みの細身の短剣を逆手に構えたヘレナが、能面のような無表情でリゼットに斬りかかってくる。
「クソがっ……!」
ヘレナが短く息を吐きながらリゼットの首筋めがけて短剣を一閃させる。 後ろに捻ってなんとか避けるが、右頬を斬られた。 続いて二撃目が振り下ろされる寸前、横合いから飛び込んできた影がヘレナの腕を掴み、そのまま地面へと組み伏せた。
「あっぶなっ――!」
ノーラだった。獣人特有の膂力でヘレナの両腕をひねり上げ、暴れる身体をしっかりと押さえ込む。
「くっ……離せ、離しなさいっ!」
「ヘレナ、あんたそっち側だったんだねぇ……ちょっと、意外だったよぉ」
ノーラの声に、珍しく笑いは含まれていなかった。
その日の午後、リゼットとノーラの手によって、"鼠"のコルトと書類管理官ヘレナ・ドノバンの身柄が、ルミナス警備隊本部へと連行された。
・・・・・
石造りの取調室に、重い沈黙が落ちていた。
机を挟んで座るヘレナは、両手を縄で縛られたまま、じっと俯いている。 対面には腕組みをしたランドルトが、その傍らにイレインが、そして壁際にノーラが控えていた。
机の上には、コルトに渡されたあの一枚の紙が広げられている。 そこに記された内容を、ランドルトはもう三度は読み返していた。
「――ジュリアンが捕まったこと。 隠れ家がバレるかもしれねぇってこと。 コルトとダレンのことがバレたこと」
ランドルトの太い指が、紙面を叩く。
「すべて書かれてるな。 さすがは書記官といったところか。 これを誰に届けるんだ? ザハールか?」
ヘレナは答えない。眼鏡の奥の瞳は、じっと机の木目だけを見つめている。
「……」
「黙秘、ね」
イレインが静かに口を開いた。 感情の窺えない、凪いだ声だった。
「あなたの手の震え、さっきから止まっていない。 腹は括れていない証拠」
ヘレナの指先が、わずかに強張る。 イレインはそれを見逃さず、じっと相手の目を見据え続けた。 沈黙こそが、彼女の得意な尋問だった。
――観察室の暗いガラスの向こうで、葛城陣はその一部始終を見つめていた。 隣にはルカ、そしてフィリップとリゼットが並んでいる。
葛城は静かに『事象検証』を発動させ、ヘレナの体表にわずかに残る反応を確かめた。青い光の膜がヘレナの輪郭をなぞり、心拍と発汗の異常な高まりを示す数値が浮かぶ。
(相当追い詰められてるように見える。 だが――)
取調室では、ランドルトが身を乗り出していた。
「なあヘレナ。 お前、まさか自分は口封じされねぇとでも思ってんのか? 地下牢のブロンゾがどうなったか、お前が一番よく知ってるだろうがよ。 その方法を教えろ! 分からなければ守りようもねぇ」
その一言に、ヘレナの肩がびくりと跳ねた。
しばらくの沈黙のあと、彼女は震える指で自らの制服の襟元に手をかけ、ボタンを一つ、また一つと外していく。 イレインもランドルトも、止めなかった。
露わになった鎖骨の下、白い肌に黒々と刻まれた禍々しい紋様――蛇が絡みつくような、いびつな刺青がそこにあった。
「これがあるかぎり……」
声が、崩れた。
「これがあるかぎり、ザハールはいつでも私を殺せる……!」
堰を切ったように、ヘレナは机に突っ伏して泣き崩れた。 肩が大きく震え、嗚咽が取調室に響く。
「”黒蛇”のザハールのユニークスキル『影印』よ.....。 ザハールに触れられると、苦痛と共に.....黒蛇の刺青「死の刻印」が刻まれる.......。 「死の刻印」は......、タロットカードを作るの......。 それが死のスイッチ......。 使われたら最後......、気が狂う苦しみと共に心臓が止まって......終わり……絶対に、逆らえない……刻まれた相手がどこにいたって......、「死の刻印」とタロットを通じて......位置が分かる。 そして――死んだ時には......、誰かが死ぬとタロットは消える……」
嗚咽の合間に、途切れ途切れの説明が漏れ出る。
「……タロットは誰でも使えるのか? 獣人のブロンゾを殺したのはお前だな?」
「......そうよ。 命令されたのよ。 やらなかったら私が死んでた」
ノーラがわずかに息を呑み、イレインは眉一つ動かさず、しかし瞳の奥だけが鋭さを増していた。
「お願い……助けて……」
両手を縛られたまま、ヘレナは縋るようにランドルトを見上げた。 眼鏡の奥の目は真っ赤に泣き腫らされ、化粧が崩れ落ちている。 それが本物の恐怖なのか、あるいはまだ何かを隠すための涙なのか――少なくとも観察室から見ている葛城には、まだ判断がつかなかった。
「「死の刻印」をつけられた奴らは何人いる? ルミナスに居る「闇の爪」の構成員の数は?」
「......分からないわ。 私はただの下っ端でしかないから」
「ノーラ、イレイン。留置所に連れてけ。今夜はここまでだ」
ランドルトの声は低く、感情を押し殺していた。 ノーラとイレインに両脇を支えられ、ヘレナはよろめきながら取調室を出ていく。 少し遅れて、ランドルトも重い足取りで部屋を後にした。
・・・・・
隣の取調室の扉が開き、縄を打たれたコルトがガーウィンとトムに挟まれて姿を現した。 顔面は蒼白で、歯の根が合わないほど震えている。
「はぁ……はぁ……お、俺は、終わりだ……」
「歩け......」
ガーウィンに促され、コルトはとぼとぼと留置所へ引かれていく。 それを見送るように、観察室からオーウェンが姿を現した。
「オーウェン。 そっちはどうだった」
取調室からでてきたランドルトがオーウェンに尋ねた。
「まったくの黙秘だ」
オーウェンは短く答え、それから一拍置いて付け加えた。
「だが――コルトにも、「闇の爪」の印はあった」
葛城とルカは思わず息を止めた。
(ヴェロニカ、ヘレナ、そしてコルト――これで三人)
三人の、「闇の爪」の「死の刻印」を持った構成員を確保したことになる。 だが同時に、それは何を意味するのか。 ”黒蛇”のザハールはいつでも彼らを殺せるのだ。
(手をこまねいていては……この間の獣人と同じことになる)
ランドルトの顔には、これまで見たことのない硬さが浮かんでいた。
「――やるなら今夜しかねぇ」
低く、しかし迷いのない声だった。
「第一小隊を、全員集めろ」
その一言が、静まり返った警備隊本部の廊下に重く落ちた。




