第十九話 燻る炎と演出家(レン:六~七日目)
夜のルミナス・スラム街には、灯りらしい灯りがなかった。
崩れかけた木箱が積まれ、饐えた匂いのする水たまりがあちこちに黒く光っている。 継ぎ接ぎだらけの天幕の隙間からは、ぼそぼそとした話し声と、生ごみの匂いが漏れていた。 昼間の商業区画の華やかさが嘘のように、この一角だけは時が止まったまま朽ちていく。
どこかで犬の遠吠えが響き、鼠は慌てて身を隠し、誰かの舌打ちと共に赤ん坊のぐずり声が響く。 ここでは弱者の声も、動物の気配も、夜の底に静かに沈められていく。
その闇に溶け込むようにして、佐伯は路地の角に身を潜ませていた。
隣には、音もなく気配を殺したヴィオラ。 狼の耳がわずかに動き、前方の路地を捉えている。 呼吸の音すら聞こえない静けさは、獣人の戦闘奴隷である彼女には造作もないことだった。
(居た――)
目くばせする佐伯に、ヴィオラはただ小さく顎を引いた。
路地の先を、見覚えのある猫背の人影が歩いてくる。 ナルデニアン男爵家長子、ジュリアン・フォン・ナルデニアンだ。 上等な外套の下に、宝珠を包んだ布袋を大事そうに抱え込み、幾度も背後を振り返っている。 挙動の一つ一つが、高価な者を持ち歩いている事を雄弁に物語っていた。
ヴィオラは距離を保ったまま、音もなくジュリアンの後を追う。 ヴィオラの気配遮断の腕は玄人の域で、その姿は闇そのものに紛れて見えなくなった。
ジュリアンは幾度も路地を折れ、後をつけられていないか確かめるように立ち止まっては、また歩き出す。 その臆病な足取りが、かえって彼の目的地に近づいていることを教えてくれた。
やがてジュリアンは、崩れかけた壁に囲まれた一軒のあばら家の前で足を止め、周囲を窺ってから中へと消えていった。 看板もない、埃を被った古びた戸口だった。
(――そこか)
佐伯は物陰からその建物を見定めた。 目利きのガローの店。 ヴィオラが近くの建物の上から合図する。 佐伯はヴィオラに習って、身を潜めた。
中に入ってから、しばらくして、ジュリアンが店から出てきた。 その手には、もう先ほどの荷物はない。 身軽になった足取りで、逃げるように夜の路地へと駆けていく。
(――取引は済んだ、というわけだ)
佐伯はヴィオラへ静かに囁いた。
「ジュリアンを見張れ。「闇の爪」の誰かが接触してきたら、そいつらをつけて「闇の爪」の隠れ家を見つけ、そこに出入りする人間を見て戻ってきてくれ。 手は出さなくていい」
「......」
静かにうなずくと、ヴィオラは音もなくジュリアンの後を追って闇に溶けた。
佐伯は外套の埃を軽く払うと、店の表口へと回り、扉を叩いた。
・・・・・
「――こんな夜更けに、何の用だ」
扉を開けたガローの片目が、値踏みするように佐伯を見上げる。 灰色の外套に小ぎれいな黒いシャツに黒いズボン。 このスラムでは場違いな佇まいの若者に微かな警戒心がわいていた。
狭い店内には獣の毛皮や牙、干からびた魔物の素材が所狭しと積まれ、埃っぽい獣臭が漂っている。
「少々、探し物をしていまして。 この街で一番の目利きだと伺ったもので」
佐伯は人当たりのいい微笑みを浮かべ、店の奥へと視線を滑らせた。 作業台の上には、それらしき布包みは見当たらない。 すでにどこかへしまい込まれたのだろう。
「探し物、ねえ。 うちは魔物素材専門だ。 もう店じまいの時間でね。 悪いが帰ってくれ」
ガローは素っ気なく答えると、立ち上がって、佐伯を追い出そうした時、佐伯の目の奥が、青くわずかに光った。
『記憶の改竄』
声には出さず、佐伯はまずガローの記憶をそっと読み解く。
つい先ほど、猫背の若造から布包みを受け取ったこと。 それを、カウンター奥の隠し扉の向こう――鍵のかかった小さな戸棚の奥に仕舞い込んだこと。 記憶の中の映像は鮮明で、迷う余地はなかった。
(――なるほど。あそこか)
所在を確かめた佐伯は、続けてその記憶そのものへ手を伸ばす。 ジュリアンから宝珠を受け取ったという記憶――それを、慎重に、糸を紡ぐように別のものへと塗り替えていく。 矛盾のない、あいまいな輪郭を持つ記憶ほど、書き換えは容易い。『「これは母のクレアがオークションに出す品だ」とジュリアンは言い宝珠を渡さなかった。 お前は落胆し、宝珠を持たされることなく彼を見送った』
そのまま佐伯は音もなくカウンターを回り込み、隠し扉を開け、『開錠』スキルで戸棚を開けると、宝珠の入った布袋を取り、外套の内側へ滑り込ませた。
ガローの記憶からその十数秒の記憶を奪い、佐伯は何食わぬ顔で、静かに店を後にした。
扉の向こうから、ジュリアンに対して悪態をつくガローの声が聞こえてくる。 上手くいったようだった。
(さて、仕掛けの一つは完成。 あとは出演者をふやさねば)
口元に浮かぶ笑みは、月明かりの下でも変わらず優雅だった。
・・・・・
モントブラン家の庭園には、穏やかな陽射しが降り注いでいた。
手入れの行き届いた薔薇の生垣に沿った小径を、エレナはメイドのマリア・フォーブスと連れ立って歩いている。 庭木を渡る風が心地よく、噴水のしぶきが陽光に細かく煌めいていた。
「お嬢様、少しは顔色がよろしくなりましたね」
「……そうかしら。 わたし自身は、あまりよくわからないのだけれど」
エレナは力なく微笑む。 両親を亡くしてから、こうして庭に出るのも久しぶりだった。
小径の先、白いガゼボの下に、誰かが座っているのが見えた。 長い足を組み、膝の上の本に静かに視線を落としている。
レン・サイダー(佐伯)だった。
その姿を目にした瞬間、エレナの胸の奥で、何かが小さく軋んだ。
脳裏に、あの雨の夜の光景が一瞬だけよぎる。 剣戟の音、悲鳴、血の匂い。 なぜ佐伯の顔を見ただけでそれが蘇るのか、エレナ自身にもわからない。 ただ、逃げ出したいという衝動だけが、理由もわからぬまま胸を突き上げてくる。
「わたし、部屋に戻るわ。 マリア」
踵を返しかけたエレナの背に、涼やかな声がかかった。
「――エレナ様。よろしければ、少しだけご一緒にいかがですか」
振り返ると、佐伯が本を閉じ、こちらに柔らかな笑みを向けている。
逃げ場を失ったエレナは、観念したようにガゼボへと近づいた。 マリアが心得たように、少し離れた薔薇の陰で控える。
「今日はいい天気ですね。 ちょうど、面白い話を読んでいたところなんです。 よければ聞いてくれませんか」
「……お話、ですか?」
エレナが小さく首を傾げる。佐伯は膝の上の本をとんとんと軽く叩いた。
「ええ。 とある小さな村に、羽を痛めて飛べなくなった一羽の鳥がいましてね。 仲間は皆、冬が来る前に南へ渡ってしまった。 けれど、その鳥は諦めずに、来る日も来る日も羽を動かす練習を続けたそうです」
「……それで、どうなったの?」
エレナの声から、わずかに硬さが抜けていく。
「春が来る頃には、誰よりも力強く空を飛べるようになっていた、というわけです。 仲間たちが驚いて、どうやったのかと尋ねると、その鳥はこう答えたとか。 『諦めなかっただけさ』とね」
「……ふふ、単純なお話なのね」
「単純なくらいが、ちょうどいいんですよ。 難しい話は、僕もあまり得意ではないので」
佐伯が悪戯っぽく肩をすくめてみせると、エレナはとうとう小さく声を立てて笑った。 庭園に響いたその笑い声に、少し離れた場所に控えるマリアも、ほっとしたように目を細める。
それから二人は、庭に咲く花の名前や、噴水を泳ぐ魚の話など、他愛のないやり取りを重ねた。 エレナは気づけば、あの重苦しい影を忘れて、無邪気な笑みを浮かべるようになっていた。
「....... エレナさんが飛び立ちたいと勇気を振るわれるなら、僕はあなたの翼になりましょう」
優雅に話す佐伯の顔を見つめるうちに、向かいに座るエレナの頬には、いつしか別の赤みが差し始めていた。
「……レンさんは、本当にお話が上手だわ」
そう呟いたエレナの瞳には、恩人への感謝だけでは片付けられない、淡い熱が揺れていた。
「レンさんといると、なんだか……」
言いかけて、エレナははっと我に返ったように口をつぐんだ。 自分でもまだ名前のつけられない感情に戸惑うように、頬がみるみる赤く染まっていく。
「――っ! な、なんでもないわ わたし、そろそろ部屋に... マリア、行きましょう。 ご.. ごきげんよう」
早口にそう言うと、エレナはドレスの裾を翻し、逃げるように小径を早足で進む。
「お、お嬢様、お待ちください!」
マリアが慌てて後を追いながら、佐伯へ小さく会釈をした。
二人の後ろ姿が薔薇の生垣の向こうに消えるのを、佐伯はガゼボに座ったまま見送った。
柔らかだった彼の目元から、すっと熱が引いていく。
(――さて。存外、悪くない仕上がりだ)
口元にはまだ微笑みの形が残っていたが、その目はもう、何の温度も持たない硝子玉のように冷え切っていた。 信頼という名の糸が、また一本、彼女の胸の内で太くなっていく――それだけが、佐伯にとっての収穫だった。
佐伯は再び本に視線を落とすと、何事もなかったかのように頁をめくった。
庭園には、また穏やかな静寂が戻ってくる。噴水の音と、風に揺れる薔薇の葉擦れだけが、静かに時を刻んでいた。
だがその静けさの底で、少女の胸にだけ灯った小さな熱は、まだ誰にも気づかれぬまま、静かに燻り続けていた。




