第十三話 策士の暗躍Ⅰ(レン:三日目)
朝の陽光が、モントブラン家のダイニングルームに敷かれた白いテーブルクロスの上へ、柔らかな光の筋を落としていた。
磨き抜かれた銀食器が触れ合う音だけが、やけに大きく響く。 佐伯蓮はロベルト・モントブランの向かいに座り、焼きたてのパンを静かに口へ運んでいた。
窓の外では、庭師が丹精に手入れした薔薇の垣根が朝露に濡れて輝いている。 屋敷の朝の時間は静かに流れているようだった。 だが、その静けさこそが、失われたものの大きさを際立たせているようにも思えた。
二人の間に、会話はほとんどない。 昨夜のうちに、モントブラン邸の護衛体制を強化する話は済ませてある。 今朝はただ、老爺の憔悴を見守るための朝食だった。
悲しみに沈んだ人間は、口数が減る。 あるいは逆に、饒舌になって現実から目を逸らそうとする。 ロベルトは、前者のようであった。
佐伯は皿の上の焼きたてのパンを咀嚼しながら、目の前の老爺を静かに観察していた時、扉の向こうから、控えめなノックの音が響いた。
「ロベルト様。 失礼いたします。 エレナお嬢様をお連れいたしました」
セバスチャンの声だった。 扉が開かれ、片眼鏡の大執事に寄り添われるようにして、エレナが入ってくる。
寝間着から着替えたばかりの、やや青白い顔。 昨日よりも遅い時間の朝食だった。 悲しみを押し殺すように唇を引き結び、それでも背筋だけは伸ばして歩こうとしている姿が、痛々しかった。
「おじいさま…… おはようございます」
「エレナ…… よく眠れたか」
ロベルトが立ち上がり、孫娘の細い肩にそっと手を置く。 エレナは小さく頷き、セバスチャンに椅子を引かれて席についた。
匙を持つ手が、かすかに震えている。 それでも、エレナはスープを一口、また一口と、義務のように口へ運んでいった。
「……レン・サイダー様」
不意に、エレナが顔を上げて佐伯を見た。
「あの夜、助けていただいて…… ちゃんとお礼を言えていませんでした。 本当にありがとうございます」
深く頭を下げようとするエレナに、佐伯は柔らかく目を細めてみせた。
「とんでもございません、エレナ様。 あなたがご無事で、本当に良かった」
慈愛に満ちた声。 わずかな揺らぎもない、完璧な演技だった。
だがその瞬間、エレナの瞳から、堪えていたものが決壊した。
「で...... でも..... お父様と…… お母様は…… 目の前で……っ」
匙が皿の上に転がり落ちる。 甲高い音が、静かな部屋に響いた。
「あたし…… 何も、できなくて……っ ただ、見てるだけで……っ う..... い.....いやぁあぁっ……!」
両手で顔を覆い、肩を激しく震わせて泣き崩れるエレナ。 ロベルトが慌てて席を立ち、孫娘の背をさすった。
「エレナ…… もう大丈夫だ。 もう、大丈夫だから……」
声をかけながらも、ロベルト自身の声もまた、震えていた。 孫娘を励ます言葉の裏で、老いた身体が支えを失ったように小さく揺れている。
佐伯は静かにその光景を見つめた。 悲嘆はいずれ、憎悪という燃料に変わる。 その燃料の火を絶やさぬよう、ただ隣で見守っていればいい。
セバスチャンがすっと歩み寄り、エレナの傍らに片膝をつく。
「お嬢様。 少し、お部屋でお休みになりましょう。 ……あちらへ」
泣きじゃくるエレナを支え、セバスチャンは静かにダイニングルームを後にした。 扉が閉まる音が重く響いた。
しばらくの沈黙のあと、ロベルトが深く息を吐き、崩れるように椅子へ腰を下ろした。
「…… すまんな、レン殿。 見苦しいところを見せた」
「いえ」
佐伯は静かに答えながら、老爺の様子を注意深く観察していた。 悲嘆の底に、もう一つ別の熱が灯り始めているのが分かる。 怒りだ。
ロベルトは震える手をゆっくりと握りしめ、佐伯を見据えた。
「レン殿よ…… 頼む。 仇を討ってくれ。 儂には、もう頼れる者がレン殿しかおらん」
深く皺の刻まれた顔が、老いた矜持を捨てて、頭を下げようとする。
「お任せください」
佐伯は間髪入れずに答えた。 その声には、寸分の迷いもない。
「つきましては——ナルデニアン男爵家の関係者や闇の爪について、モントブラン家で把握されている事実を教えていただきたい」
ロベルトの目に、鈍い光が戻る。
「…… いいだろう。 知っていることは、すべて話そう」
佐伯は静かに頷きながら、テーブルの下でひっそりと口角を上げた。
・・・・・
商業区画の繁華街は、夜になると昼間とはまるで違う顔を見せる。
日中の商いの気配が引いた後、代わりに軒を連ねる娼館の赤い灯りと、酒場から漏れる下卑た笑い声が通りを満たしていく。 安酒と安香水の匂いが混じり合った、猥雑で生々しい熱気が石畳の路地に淀んでいた。
佐伯はヴィオラを伴い、その雑踏をゆっくりと歩いていた。 雌狼の獣人である彼女の見た目は、この手の場所では奇異の目を引くはずだったが、周囲の酔客は誰も気に留めない。 いや——ヴィオラの纏う静かな殺気じみた気配に、無意識のうちに視線を逸らしているだけなのかもしれない。
昼間、ロベルトから聞き出した話では、ナルデニアン男爵家の長子——ジュリアン・フォン・ナルデニアンは、このあたりの娼館や酒場を取り巻きの貴族嫡子等とよく飲み歩いているという。 いわゆる有力貴族の放蕩息子であり、この繁華街でも何度か問題を起こしている。 以前、孫娘のエレナも社交パーティなどで何度か言い寄られ、エレナを怖がらせた事もあった。
娼館入口が見える小道の影で、しばらく様子を見ていると、娼館の両開きの扉が開き、笑い声とともに数人の若い男たちが出てきた。
その中心にいたのは、酒とけだるさの入り混じった目の下にクマを浮かべた青年だった。 仲間たちに肩を組まれ、上機嫌に笑っている。
(あれが、ジュリアン・フォン・ナルデニアン……)
佐伯は横目でヴィオラを見た。 ヴィオラが頷く。
ヴィオラは大変優秀だった。 ジュリアンとその取り巻きは目立つので、指定された繁華街で見つけるのはそれほど難しくはなかった。 ヴィオラはジュリアン等がこの娼館に入るのを確認した後、佐伯を連れて戻ってきたのだった。
「少し離れて、隠れてついてきてくれ」
「…… ああ」
ヴィオラは短く応じ、音もなく夜の路地の暗がりへと溶け込んだ。
佐伯は雑踏の流れに紛れながら距離を詰め、すれ違いざま、わざとジュリアンの肩へ強くぶつかった。
「うおっ……! なんだ、てめえ——」
舌打ち混じりに振り返るジュリアンへ、佐伯はすかさず深々と頭を下げてみせた。
「これは大変失礼をいたしました。 よろしければ、ぜひお詫びをさせてください」
人懐っこい、それでいて品のある微笑み。 仲間たちがざわつく間もない、ほんの一瞬。
佐伯の瞳の奥で、一瞬だけ青白い魔力が静かに揺らめいた。
『記憶の改竄』
ジュリアンの意識の表面に、佐伯はごく淡い印象を滑り込ませる。 「なんとなく気の合いそうな、面白い男」「仲良くなっておいて損はない奴」——根拠のあいまいな、それでいて心地よい第一印象だ。
「…… あ? いや、まあ…… いいけどよ」
舌打ちしかけていたジュリアンの表情が、不思議そうに緩む。 苛立ちの色が、するりと抜け落ちていった。
「ジュリアンさん、こいつ知り合いっすか?」
仲間の一人が怪訝そうに尋ねると、ジュリアンは自分でも要領を得ない様子で首を傾げた。
「いや…… 知らねえけど…… なんか、悪い奴には見えねえな」
佐伯はここぞとばかりに人懐っこく笑いかけた。
「せめてもの詫びに、一杯奢らせてください。 その顔、なかなかの飲み手とお見受けしましたので」
「はっ…… 面白えこと言うじゃねえか、あんた」
ジュリアンはニヤリと笑い、仲間たちを振り返った。
「悪い、お前らは今日はもう帰っていいぞ。 今日はこいつと飲み直す」
「え、マジっすか…… こいつ男っすよ」
「また連絡するっからよ」
困惑する仲間たちを置き去りに、ジュリアンは佐伯の肩に馴れ馴れしく腕を回した。
「行くぞ、兄さん。 いい酒場知ってんだ」
夜の雑踏へ足を向けるジュリアンを軽く支えながら、佐伯は静かに口角を上げた。
・・・・・
酒場の中は、冒険者らしき男たちの野太い笑い声と、安いエールの匂いで満ちていた。 佐伯とジュリアンは奥まった卓へ案内され、店の女給が愛想笑いを浮かべながら次々とジョッキを運んでくる。
「ここのエールはよぉ、この街でいちばんなんだ」
ジュリアンはそう言って、運ばれてきたエールを一気に呷った。 佐伯はやんわりと相槌を打ちながら、女給に追加の酒を頼むついでに、ジュリアンのジョッキをそれとなく満たし続ける。
一杯、また一杯と杯が重なるたび、ジュリアンの舌はますます滑らかになっていった。
酒場の喧噪の中、ジュリアンはすでに顔を赤くして、木製のジョッキを乱暴にテーブルへ叩きつけていた。
「…… なあ、聞いてくれよ兄さん。 俺はな、何もさせてもらえねえんだよ。 跡取りだ跡取りだって言われながら、実際は書類仕事の端っこすら回してもらえねえ」
「それは、もったいない話ですね」
佐伯は自分のジョッキにはほとんど口をつけず、聞き上手な相槌だけを重ねていく。
「俺だってな、冒険者にでもなりゃあ、すぐBランクくらい行く自信あるんだぜ。 剣の腕だって、そこらの騎士に負けねえ」
「なるほど、それは頼もしい」
「あとさぁ……」
ジュリアンはニヤつきながら声を潜めた。
「モントブランのエレナ、あの子可愛いよなぁ。 嫁に貰ってやってもいいと思ってんだよ、俺。 あの可愛い顔を...... こうしてっ こうしてっ こうしてやりてぇっ!!」
ジュリアンが卑猥なジェスチャーで想像上のエレナを凌辱する。
佐伯の内心が、一瞬だけ冷ややかに凪いだ。 だが表情には微塵も出さず、ただ笑って酒を注いでやる。
(ジュリアンはエレナが襲われた事を知らない?)
「それより、家のお仕事の方はいかがです? ご当主様は、お忙しいのでは」
「親父かよ…… あの人はグラナダの魔鉱石やダンジョン出土品の利権を独り占めしたくて必死なんだ。 国防に絡む大事な資源だとかで、評議会でモントブランに反対されて、全然うまくいってねえみてぇだがな。 俺に任してくれりゃぁ、あっという間だってのによ」
佐伯は静かに耳を傾ける。
「お袋なんかもっと酷いぜ。 浪費家でよ、他の田舎貴族連中と裏サロンなんか開いて、表には出せねえ絵とかポーションのオークションなんかで遊んでやがる。 くだらねぇ」
「それは…… ご苦労が絶えませんね」
「でも俺だっていろいろ考えてんだ。 実はここだけの話、面白い情報があってな」
ジュリアンが身を乗り出し、声を低くした。
「魔術師ギルドで珍しい魔鉱石が手に入ったらしくてよ、ギルド長が魔道通信の宝珠を二つ作るって話がある。 なんつったっけなぁ...... まぁいいや。 これがまた大変珍しい魔道具らしくてよ、大金貨十枚以上の価値があるんだと 大金貨だぜ!大金貨」 秘密の話だというのに声が大きくなっている。
「それはまた、豪気な話ですね」
「そこでちょっと俺の伝手に教えてやったら、大変乗り気でな…… って——」
ジュリアンの口が、そこでぴたりと止まった。 酔いに緩んでいた表情に、わずかな怯えが差す。
「……いや、こっから先は言えねえな」
佐伯は柔らかく微笑んだまま、静かに瞳の奥へ魔力を練った。
『記憶の改竄』
今度は書き換えではない。 そっと意識の隙間へ滑り込み、記憶の表層だけを読み取る。
脳裏に、断片的な光景が流れ込んでくる。 薄暗い路地裏。 フードを被った男との密談。 「魔道具を買おう」と囁く低い声。 珍しい魔鉱石の話を小声で伝えるハーフリングの小男。 はだけた襟の間から見せる黒い爪の紋様。 「俺に相談しろよ」と呟く能面男の顔。
(——「闇の爪」か)
佐伯の唇の端が、わずかに持ち上がった。
これらの記憶をさらに掘り下げると、「闇の爪」の連絡係のハーフリング「"鼠"のコルト」と、魔道具の裏流通ルートの「"目利き"のガロー」、強面の実行部隊のリーダー「”影狩り”のダレン」の三つの通り名が浮かび上がる。
(連絡係と、実行部隊リーダー、買い手…… これは、思わぬ拾い物だ)
佐伯は何食わぬ顔で、ジュリアンのジョッキに酒を注ぎ足した。
「ご心配なく。 僕は誰にも言いません」
「お、おう…… 兄さん、あんた、いい奴だな……」
すっかり酔いの回ったジュリアンが、へらへらと笑う。
「なあ兄さん、その魔道具…… 手に入れられたら、俺の伝手で、ちょっと横流ししてもらう話になっててよ。 もし手伝ってくれるなら、分け前弾んでやってもいいぜ」
佐伯は静かに目を細めた。
(ここまで転がり込んでくるとは—— 面白くなってきた)
「——喜んで」
佐伯は微笑みを崩さぬまま、そっと杯を掲げた。
こうして佐伯は、道楽貴族の窃盗計画へと、静かに足を踏み入れることになったのだった。
レンが動き出しました。
最初のモントブラン家の部分は蛇足な気もしましたが、エレナの状況をアップデートしておきたかったのと、モントブラン家から情報をもらって、ナルデニアン長子接触に続けるために入れました。 7話か9話で説明しても良いのですが、話が離れるので、連続性で、こっちの方法を選んだ感じです。




