第100話・ラストバレエエッセイ
バレエに出会えてよかったこと。
1、私自身は才能なかったせいで美しいポーズ、美しい動作は身に付かなかったが、バレエの美しさは心底理解できる。人間の取れるポーズってあそこまで美しくできるんです。ほかの霊長類とかはまったくできないことを日々の努力によって軽々とできるようになる。
2、逆にバレエの厳しさも理解できる。どういう天才でも最初っから上手に踊れたわけではないのだ。舞台上でワー美しい! と拍手をしまくっても私には彼女たちの「見えない努力の影」がちらつく。血と涙のにじむレッスンの積み重ねで、喝采を浴びれるのだ。それでも掛け値なしで観客に本当の感動を与えられるダンサーってほんと一握りである。喝采、いいなあ、いい言葉だなあ…。
3、どの人でもそういえるけど、バレエをしていると身体が柔らかくなる。柔らかくしないと踊れない。柔軟は必須。
いざというときに怪我が軽くなるときがある。一度大けがをしたことがあるが、幸い後遺症が残らなかった。治療にあたった医師の努力もあったが、バレエの先生から、その程度ですんだのは身体が柔らかいから、ちゃんと毎日柔軟していた身体だからよ! と言われたことがある。
バレエレッスンしすぎの外輪の足で笑われたりもしましたけどね、バレエを見ない人は全く見ないのでバレエの手つき、(特にジゼルの手がだらっとして奇妙に見えるらしい)バレエの足さばきに笑ったり。(トウシューズをみなれない人は、特にバレエ漫画を読んでなくて幼児期にバレエっていいな、の刷り込みがない人はトウシューズってきれいというよりも、窮屈であそこまでしてどうしてつま先で立ちたいの?って思うみたいです)でもこの怪我の件ではバレエをやっていてよかったかも、とは思いました。
4、決まりきった日常生活を週1,2回の割合で打破できる。プロダンサーでレッスンが日常であるとまた話は変わってくるでしょうが私のようなアマチュアバレエレッスン愛好家はそうではないかな?
自分に自信ある人はバレエレッスン着にもお金をかける。気合っていうもんが違う。
また日常的な今日の晩ごはんや明日のお弁当、洗濯やお風呂、学級費やPTA。ここまでは家庭を預かるシュフとしては当然。そして義理な公民館の掃除当番、葬式の手伝い、近所付き合い…こういうのが幸せとは思いますけど時にはうんざり。(結婚式の招待をしあうとか、出産祝い何にしようかなどの華やか~な時期はもう通り過ぎてしまったのよ…)
故にバレエの世界に逃避する時間は至福の時間だ。
5、舞台は記憶に残る。
自分が出ても
好きなダンサーが出ても、
舞台は写真よりも何よりも「記憶」というものに残る。
それは自分が死ぬとあとかたもなくなるが(写真とかは残るけど)生きている間は普段忘れてはいても何かの拍子にぽっと記憶の海の表面に浮かび出て来てそれが鮮明に視界に広がる時がある。あの時にみた感動を拍手を、舞台に出たライトのまぶしさ、その後の達成感、自分の動悸、汗ばんだ顔、ドーランの厚み、つけまつげの感触まで思い出す。そしてお衣装の手触りや少し黒ずんだトウシューズ、皮がずる剥けたかわいそうな私のつま先まで。その痛みまで懐かしいと思うのだ。
私もつくづく老けたなあって思いますが、終始目だたなかった私のバレエ人生、時には発表会や鑑賞した舞台が記憶を彩ってくれる。
バレエに出会えて本当に幸せだったって思います。
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今度は娘に第一線のバレエレッスン界? を譲り??
私は控えめにチビちゃんのお母さんとしてひっそりとレッスン場を見守ります。時々は身体の老化防止を兼ねてレッスンにも出るし。
チビもまたバレエの世界を垣間見てバレエの楽しさを知りそしてバレエレッスン界でも生き残れますように。
今後はバレエ小説にも精出します。
バレエエッセイの続編もありますのでまたご覧ください。




