祭り前日は、だいたい予定通りにいかない
祭り前日。
恵は朝から、いつもより少し早く目が覚めた。
薄いカーテンの向こうから、朝の光が差し込んでいる。窓の外では荷車の車輪が石畳を転がる音が聞こえ、普段より早く町が動き始めているようだった。
理由は分かっている。気になっているのだ。
四十人の予約。
通常営業。
少量とはいえ、外で売る予定の肉串。
仕込み、段取り。
どれも一つずつなら大したことはない。
ただ重なると駄目だ。
自分は、一度にいろいろ考えるのが苦手だ。
それを四人の中では誰より分かっている。
だからこそ今日は、できる限り前日に終わらせる。
恵は二階から降りながら、自分にそう言い聞かせた。
木製の階段は足を乗せるたびに小さく軋み、階下からはかすかに物音が聞こえていた。
厨房に入ると、真紀がすでに肉を見ていた。
作業台には大きな肉の塊が置かれ、真紀はその表面を確かめながら、切り分ける位置を考えているようだった。
「早いね」
恵が言うと真紀が答える。
「そっちも」
「寝れなかった」
「祭り楽しみ?」
「不安」
「そっち?」
「そっちだよ」
真紀は笑いながら答える。
「まあ大丈夫でしょ」
「その言葉、昨日も聞いた」
「だって準備するし」
「準備しても予定通りいかないのが祭りでしょ?」
真紀が少し止まる。
「それはそう」
「そこで納得しないでよ」
恵が言うと、二人で笑った。
朝の静かな厨房に笑い声が響き、少しだけ肩の力が抜けた。
*
しばらくすると、真理子が帳面を抱えて降りてきた。
髪をきちんとまとめ、片腕には数枚の紙も挟んでいる。まだ朝だというのに、すっかり仕事を始める準備が整っていた。
「今日やること、確認するよ」
真紀が嫌そうな顔をする。
「朝から?」
「前日だから」
「まだお茶飲んでない」
「飲みながら聞けばいい」
「もう始まってるね」
「何が?」
「いつもの」
恵の言葉を真理子は気にせず、紙を広げる。
作業台の端に置かれた紙には、食材や人数、時間帯が項目ごとに書き込まれていた。
「予約四十人。二十人ずつ、時間をずらす、通常営業は昼前まで。それ以降は予約優先」
「うん」
「肉串は夕方から。数は限定」
香織がまだ降りてきていないので、三人とも少し静かだった。
真理子が続ける。
「仕込みは今日できるところまで。ただし生ものは無理しない」
「それ大事」
恵が答える。
「串打ちは?」
真紀が聞く。
「今日全部はやらない」
「半分?」
「状態見て」
「面倒」
「安全優先」
「はいはい」
真理子が目を細める。
「返事が軽い」
恵が笑うと、そこへ勢いよく階段を降りてくる音がした、香織だった。
「おはよう!」
三人が香織を見る。
元気だ。嫌な予感がする。
「何も増やしてないよね?」
真理子が言うと香織が止まる。
「朝イチでそれ?」
「確認」
「大丈夫大丈夫」
「本当に?」
「昨日からは増えてない」
恵が聞くと真理子が言う。
「昨日からは?」
香織は笑った。
「言い方!」
三人は何も言わなかった。
香織だけが、なぜ疑われているのか分からないとでも言いたげな顔をしていた。
*
午前中、仕込みは意外なほど順調だった。
厨房には包丁がまな板を叩く音が続き、鍋から立ち上る湯気が朝の冷えた空気を少しずつ温めていく。
恵は煮込み用の野菜を整える。
水気を拭き取った野菜を並べ、大きさを揃えながら切り分けていく。切ったそばから木の器へ移すと、みずみずしい香りが広がった。
真紀は肉の切り分け。
脂のつき方や筋の位置を見ながら、手際よく包丁を動かしている。
真理子は食材量と必要数の確認。
帳面と作業台を交互に見て、使う分と残す分を確かめていた。
香織は。
「これ終わった!」
「じゃあ次パン数えて」
「はーい」
しばらくすると、また明るい声が響いた。
「終わった!」
「じゃあ水汲んで」
「はーい」
本当に何でもやる、しかも速い。
恵は少し感心していた。
普段は人と話してばかりに見えるが、こういう時、香織は妙に手際がいい。
六人の子どもを育ててきた人だ。
一つ終わったら次、また次。
それを何十年もやってきたのだろう。
「香織」
「なに?」
「これ、運んでくれる?」
「いいよ」
恵が渡すと、香織はそのまま運び、途中で老人と何か話して戻る時には別の荷物まで持って帰ってきた。
「それ何?」
「倉庫にあった」
「なんで?」
「ついで」
恵は笑った。
本人は本当にこれくらい普通だと思っている。
*
昼前、カイルが店に来た。
いつものように扉を開ける。
「こんにちは」
四人が一斉に見る。
カイルが止まる。
扉に手をかけたまま、店内の四人を順番に見回した。
「……なんですか」
「来た」
「来ましたけど」
香織が言うと真紀が聞く。
「明日大丈夫?」
「たぶん」
「たぶん?」
真理子が見る。
カイルが慌てる。
「いや、今のところ依頼入ってないです」
「じゃあ来れる?」
恵が聞くとカイルは少しだけ考えて。
「来ます」
香織が笑った。
「やった」
「でも朝からは無理ですよ」
「何時?」
「祭りの警備手伝うかもしれないので」
「冒険者ってそういうのもするの?」
恵が聞く。
「人足りない時は」
「へえ」
「じゃあ午後からでいい」
真紀が言うとカイルが頷く。
「分かりました」
「賃金決めよう」
真理子が言うとカイルが固まる。
「え?」
「手伝いじゃなくて、ちゃんと働いてもらうなら」
「いや、別に」
「駄目」
真理子はきっぱり言う。
帳面を閉じ、カイルへまっすぐ視線を向けた。
「頼む側が曖昧にしたら駄目」
恵は真理子を見る。
こういうところ、本当に変わらない。
真理子は昔から誰かに何かをお願いする時ほど、ちゃんと線を引く。
友人だから、知り合いだから、若いから。
そういう理由で、相手の労力を軽く扱わない。
「でも」
カイルは少し困った顔をする。
「飯だけでも」
「それなら食事込みでいくらって決める」
「そこまでします?」
「する」
「諦めた方がいいよ」
真紀が笑いながら答えると香織も頷く。
「この人こういうの絶対曲げないから」
カイルは恵を見る。
「諦めた方がいい」
「全員一致なんですね……」
カイルはため息をついた。
*
結局カイルは祭り当日、午後から手伝うことになった。
役割は主に皿運び、荷物運び、片付け。
不足したものの買い出し。
「何でも屋じゃないですか」
カイルが言うと真紀が答える。
「若いし」
「理由になってないです」
香織が笑う。
「体力あるでしょ?」
「それはありますけど」
「じゃあ適任」
「雑だなあ」
真理子が一応補足する。
「無理なことは断っていいから」
カイルが少し安心する。
「ありがとうございます」
「ちゃんとお昼食べてから来てね」
カイルが恵を見る。
「ここで食べちゃ駄目ですか?」
香織がすぐ言う。
「息子みたいなこと言う」
「いや飯屋だから聞いただけですよ!」
店内に笑い声が広がり、カイルは困ったように頭をかいた。
*
午後になって予定外のことは、ちゃんと起きた。
最初はパン屋だった。
香織と話していた店から届くはずのパンが、予定より少なかった。
作業台に並べられたパンは、焼きたてらしい香ばしい匂いを漂わせていたが、注文した数には明らかに足りていない。
「え?」
香織が数える。
「足りない」
真理子がすぐ確認する。
「何個?」
「十五くらい」
「理由は?」
「祭りで注文増えてるって」
「まあそうなるよね」
真紀が言うと恵が不安になる。
「どうする?」
真理子が考えるより先に香織が言った。
「別のパン屋さん行ってくる」
真理子が止める。
「待って。値段見て」
「分かってる」
「高すぎたら買わない」
「分かってるって」
「本当に?」
「今日は分かってる!」
香織は店を飛び出した。
扉が閉まる音を聞きながら、恵はその背中を見送った。
「まあ何とかしてくるでしょ」
真紀が言うと真理子が答える。
「そこは信用してる」
恵が二人を見る。
「信用してないみたいなこと言う割に?」
「人間関係に関してはね」
真理子が言うと真紀も頷く。
「それは最強」
*
香織は一時間もしないうちに帰ってきた。
しかもパンを持って。
両腕に抱えた袋からは、焼いた小麦の香りが漂っていた。香織は少し息を弾ませながら、得意げに袋を持ち上げる。
「確保した!」
真理子がすぐ聞く。
「いくら?」
香織が答えると真理子が少し考える。
「……妥当」
「でしょ?」
「どこ?」
「この前話した八百屋さんの弟さんの奥さんの実家」
真理子と恵が止まる。
真紀だけが笑った。
「また繋がった」
「パン屋さんだったの?」
「そう」
恵が聞くと真理子が言う。
「なんでそこまで知ってるの」
「話してたら」
「もういい」
「安くしてくれたよ」
香織が答えると真理子が即座に聞く。
「なんで?」
「今度食べに来るって」
「……それならまあ」
恵は笑いをこらえられなかった。
客まで増えた。
*
次に問題が起きたのは、肉だった。
真紀が仕込み用の肉を見ながら首を傾げた。
「これ、予定より脂多い」
恵が横から見る。
確かに昨日までのものより、少し脂身が多い。赤身の間に白い脂が細かく入り、切り口にはつやがあった。
「肉串にしたら重いかな」
「たぶん」
「使えない?」
真理子が聞くと真紀が少し考える。
「使えなくはない」
「じゃあ何が問題?」
「焼くと脂落ちるから、量減って見える」
「じゃあ少し大きめに切る?」
「それだと原価上がる」
恵が言うと真理子が反応する。
「どれくらい?」
「まだ分かんない」
「測ろう」
「今?」
「今」
「祭り前日にやる?」
真紀がため息をつきながら聞くと真理子が答える。
「祭り前日だからやる」
恵は二人を見ながら、ああ、これは長くなるなと思った。
*
実際長くなった。
肉を焼いて、重さを比べて。
食べてみて、量を変えて、また焼く。
鉄板に肉を置くたびに脂が弾け、香ばしい煙が立ち上る。焼き上がった肉は表面にこんがりと色がつき、切ると中から透明な肉汁が滲んだ。
老人まで途中から参加した。
「こっちの方が昔は売れたぞ」
「なんで?」
「脂ある方が香り出るから」
恵も食べてみる。
噛むと脂の甘みが広がり、香ばしい焼き目の風味が後から追いかけてきた。
「あ、本当だ」
香織が一本食べる。
「こっち好き」
真理子が言う。
「あなたの好みは聞いてない」
「ひど」
真紀は少し考えて。
「じゃあ肉串はこれでいく」
恵が驚く。
「脂多い方?」
「うん」
「量は?」
「少し小さくして二個つける」
真理子が計算する。
「それならいける」
「じゃあ決まり」
老人が笑う。
「案外まともだな」
真紀が見る。
「どういう意味?」
「もっと好き勝手やるかと思った」
真理子が即答した。
「やりますよ」
「え?」
「だから私がいるんです」
真紀が笑った。
「言うねえ」
確かに一人だったらこの人はもっと好きにやる。
でも真理子がいる、香織がいる、自分がいる。
だからこの人の勘はただの思いつきで終わらない。ちゃんと形になる。
恵はそれがなんだか面白かった。
*
夜になるとようやく仕込みが一区切りついた。
四人は客席に座っていた。
老人もいる。
店内には昼間の賑わいが嘘のような静けさが戻り、壁際の灯りが木製のテーブルを柔らかく照らしていた。厨房には洗い終えた調理器具が並び、かすかに煮込み料理の香りが残っている。
机の上には明日のためのメモ。
食材数、予約人数、時間、役割。
恵はそれを見るだけで少し疲れた。
「明日、これ全部やるんだよね」
香織が笑う。
「楽しそうじゃん」
「私は今もう帰りたい」
「帰る場所二階だよ」
「そういう意味じゃない」
真理子が最後の確認をする。
「予約、一組目二十人。二組目二十人。通常営業は早めに切る」
「うん」
「肉串は夕方。なくなったら終了」
「追加は?」
真紀が言うと真理子が睨む。
「しない」
「でも売れたら」
「しない」
「材料余ってたら?」
「しない」
「ちょっとくらい」
「しない」
「絶対やりそう」
香織が笑うと恵が言う。
「やらないでよ」
真紀は少し不満そうだった。
「分かったよ」
「本当に?」
「本当に」
真理子が聞くと老人が笑う。
「信用ないな」
三人が同時に言った。
「ない」
真紀が抗議する。
「ひどくない?」
*
寝る前に恵は二階の窓から町を見た。
夜の空気は少し冷たく、窓枠に手を置くと木のひんやりした感触が伝わってきた。
普段より明るい。
通りにはまだ人がいる。
軒先には祭りのための飾りが吊るされ、風が吹くたびに小さく揺れていた。遠くからは誰かの笑い声と、荷車が通り過ぎる音が聞こえてくる。
飾りも増えている。
もうすぐ祭り。
たぶん今までで一番忙しい日になる。
できるかな。少しだけ不安になる。
その時、隣の部屋から香織の声がした。
「ねえ!」
「なに?」
「明日楽しみだね!」
恵は思わず笑った。
「私は不安!」
廊下の向こうから真理子の声がする。
「早く寝なさい!」
さらに向こうから真紀。
「明日朝早いよー」
真理子が怒鳴る。
「一番早く寝ろって言ってるのはあなた!」
恵は窓を閉めた。
大丈夫。たぶん一人なら無理でも。
四人ならなんとかなる。
そう思いながら恵は布団に入った。
そしてその考えが少しだけ甘かったことを知ることになる。




