祭り前になると、なぜか人は増える
祭りまで、あと二週間。
店の空気は、少しずつ落ち着かなくなっていた。
厨房では肉を切る包丁の音が規則正しく響き、大きな鍋からは白い湯気が立ち上っている。開け放した窓の向こうでは、祭りの準備を進める人々の声が聞こえていた。通りを行き交う荷車も、普段より少し増えている。
原因は、ほぼ一人だった。
「ねえ聞いて!」
香織が勢いよく店へ入ってくる。
扉が勢いよく開き、外の賑やかな声が一瞬だけ店内へ流れ込んだ。香織は頬を上気させ、何かを報告したくて仕方がないという顔をしている。
真理子が帳面から顔を上げた。
「嫌な予感しかしない」
「なんでよ」
「その顔で戻ってくる時、だいたい何か増えるから」
「今日はいい話!」
真紀が厨房から顔を出す。
「何?」
香織は嬉しそうに言った。
「祭りの日、商人さんたちがまとめて昼ご飯欲しいって」
恵の手が止まった。
真理子の手も止まった。
厨房に響いていた包丁の音が途切れる。恵は切りかけの野菜を見つめたまま、嫌な予感に眉を寄せた。
「何人?」
真紀が聞いた。
恵はゆっくり顔を向ける。
香織は少し考えた。
「最初は十人って言ってたんだけど」
真理子が目を細める。
「最初は?」
「話してたら増えて」
「何人?」
「三十人くらい」
沈黙。
恵は包丁を置いた。
まな板の上に残された野菜を見下ろし、ゆっくり息を吸う。何か言わなければと思うのに、頭の中では三十人分の皿と料理が次々に並び始めていた。
「なんで増えたの?」
「知り合いも一緒にいい?って」
「それを断らなかったの?」
「断る理由ある?」
恵は両手で顔を覆った。
「あるよ!」
香織が不思議そうにしている。
本当に分からないらしく、目を丸くして恵を見ていた。
真理子は静かに聞いた。
「予約として確定?」
「うん」
「時間は?」
「お昼」
「もっと具体的に」
「祭りの行列が通る前くらい」
真理子が目を閉じた。
眉間に深い皺が刻まれ、手にしていた筆記具が帳面の上で止まる。
「情報がざっくりしすぎ」
「でも来る時間はだいたい分かるって」
真紀はもう考え始めている。
厨房から客席へ視線を移し、空いたテーブルの数を確かめるように店内を見渡した。
「三十なら店内でいける」
恵がすぐ言う。
「いけるじゃないのよ」
「席あるし」
「料理するの誰?」
「うちら」
「そこが問題なの!」
香織が笑う。
「大丈夫大丈夫」
恵が振り返る。
「あなたが一番その言葉言っちゃ駄目!」
真理子が淡々と付け足す。
「この人、客増やすだけ増やして自分は接客だから」
「ちゃんと働いてるよ!」
「分かってる。でも増やし方に限度がある」
真紀が言った。
「じゃあ祭りの日、通常営業やめる?」
三人が見る。
「三十人の予約優先で」
真理子が少し考える。
「それはあり」
恵も考える。
通常の注文も受けて、予約もまとめて。
さらに外で何か売る。
それは確実に無理だ。
「祭りの日はメニュー絞ろう」
恵が言うと真紀が頷いた。
「焼いた肉と煮込みだけ」
「パンとスープも固定で」
真理子が言うと香織が手を挙げる。
「肉串は?」
三人が一斉に香織を見る。
「まだやる気なの?」
恵が聞いた。
「せっかく祭りだし」
「三十人予約あるんだよ?」
「でも外のお客さんもいるじゃん」
真理子が即答した。
「却下」
香織が肩を落とした。
「早い」
「人手足りない」
真紀が少し残念そうに言う。
「串やりたかった」
真理子が横目で見る。
「あなたまで」
恵は笑ってしまった。
結局この二人は祭りを楽しんでいる。
真理子は現実を見て止めている。
自分はもう、忙しくなる未来しか見えていない。
いつもの四人だった。
*
その日の昼。
カイルが店に入ってくるなり、香織に捕まった。
「祭りの日、空いてる?」
「こんにちはより先にそれですか」
「で、空いてる?」
「たぶん」
「じゃあ決まりね」
「何が!?」
真理子が少し離れたところから言う。
「手伝い」
カイルが振り返る。
「もう決定なんですか?」
「三十人予約入ったから」
真紀が答えるとカイルの顔が固まる。
「三十?」
恵が力なく笑う。
「増えたの」
「何がどうしてそうなるんです?」
香織が答える。
「話してたら」
カイルは額を押さえた。
「その説明、何回聞いても意味分かんないです」
「でも来てくれるって」
「それはいいですけど!」
恵はカイルの前に煮込みを置いた。
「お願いできる?」
カイルが恵を見る。
「……その聞き方ずるいって前も言いましたよね」
「そうだっけ?」
「絶対覚えてますよね?」
「空いてたらでいいから」
カイルはため息をついた。
「分かりました」
香織がすぐ笑う。
「やった」
「ただし!」
四人が見る。
「冒険者の仕事入ったらそっち優先です」
「それは当然」
真理子が頷くとカイルが少し意外そうな顔をする。
「そこは止めないんですね」
「本職でしょ?」
「はい」
「じゃあ本職優先」
真紀も頷いた。
「来れたら力仕事お願い」
「無理しなくていいからね」
恵が言うとカイルは少し笑った。
「……なんか四人に言われると断りにくいんですよね」
「家族みたいになってきたね」
香織が言うとカイルがすぐ返す。
「まだそこまでは」
「もう遅いんじゃない?」
「何がです?」
「毎日来てるし」
真理子の返答にカイルは黙った。
本人だけがまだ気づいていない。
完全に、息子枠だった。
*
祭りまで十日、町の空気も変わってきた。
通りには飾りが増えた。
市場には普段より多くの商人が集まり始めた。
遠くから来たらしい人も見かける。
店の客も、少しずつ増えていた。
「最近、初めての人多いね」
恵が言うと香織が嬉しそうに頷く。
「祭り目当ての人だって」
真理子が帳面を見る。
「客数、先週より増えてる」
「じゃあ祭り終わった後どれくらい残るかだね」
真紀が答えると恵が見る。
「残る?」
「常連になる人」
「ああ」
「祭りで一回来ただけの人が、次も来るか」
「そこは大事」
真理子が頷くと香織が笑う。
「じゃあいっぱい話さないと」
真理子がすぐ止める。
「あなたはいつも通りでいい」
「なんで?」
「これ以上増やさなくていいから」
「増えるのいいことじゃん」
「急に増えるのは困るの」
「難しいなあ」
恵は二人を見ながら笑った。
店を始めた頃は。
客が来てくれるだけで嬉しかった。
今は増えすぎても困る。
少し贅沢な悩みになった。
*
その日の夕方。
老人が倉庫の奥から、古い箱を持ってきた。
「これ使うか?」
真紀が中を見ると木製の串が大量に入っている。
「あ」
香織の目が輝く。
「これ、祭りの?」
「そうじゃ。昔、祭りで使っとった」
真理子が老人を見る。
「なんで今出すんですか」
「串焼きやるんじゃろ?」
「さっきその話しましたよね?」
「そうじゃったな」
「その時に言ってください」
老人が不思議そうに言う。
「聞かれなかったから」
真理子が天井を見る。
「この人、本当に聞かれたことしか答えない」
真紀は串を一本手に取った。
「これ、まだ使える?」
真理子も一本取る。
「古いんでしょ?」
「ずっとしまっとっただけじゃ」
恵も箱の中を見る。
「使うなら、一回ちゃんと確認した方がいいね」
「そうだね」
真紀が何本か取り出す。
香織が箱を覗き込んだ。
「でも、これだけあったらいっぱい作れるね」
真理子が即答する。
「作らないよ」
「なんで?」
「三十人の予約あるでしょ」
「あ」
「店も営業する。予約もある。外でも売る。それで串があるだけ全部作ったら絶対回らない」
真紀が頷く。
「じゃあ少量だね」
「最初からそのつもり」
恵が串を見ながら言う。
「やるなら、当日に無理なく仕込める量にしようよ」
真紀が恵を見る。
「前日にやらない?」
「肉でしょ?」
「うん」
「だったら私は当日の方が安心かな」
「私もその方がいいと思う」
真理子が頷くと香織が聞く。
「じゃあ何本?」
「それをこれから決めるの」
「また計算?」
「当たり前でしょ」
真紀が笑う。
「肉の量決めて、一本分作ってみれば出せるんじゃない?」
「そう。値段もそれから」
恵が言う。
「じゃあ試食できる?」
「そこ?」
「大事じゃん。売るんだから」
香織がすぐに乗る。
「私も食べる」
「それは知ってる」
「なんで?」
「絶対食べると思ったから」
老人が横から言った。
「ワシも食うぞ」
真紀が笑う。
「はいはい」
「ワシの串なんじゃが」
「もううちらの店の串でしょ?」
「店まで取られて串まで取られた」
香織が吹き出した。
恵も笑う。
祭りの日、きっと大変になる。
店の営業もある、予約もある。
その上、外で串焼きまで売る。
それでも少しずつ準備が進んでいくたびに、恵は楽しみになっていた。
この四人なら大変なことまで、あとで笑い話にしてしまう気がした。
*
祭りまで一週間。
予約は三十人から、四十人に増えていた。
「なんで?」
恵が尋ねると香織が少しだけ申し訳なさそうに笑う。
「……増えた」
「それは見れば分かる」
真理子が額を押さえる。
「誰が増やしたの?」
「商人さんたちの知り合い」
「あなた断らなかったの?」
「十人だけだったから」
「十人は『だけ』じゃないよ」
恵が言うと隣で真紀は少し考えている。
「四十なら、時間ずらせばいける」
真理子が見る。
「どうする?」
「二十人ずつ」
「予約の人たちに聞ける?」
香織が即答する。
「聞いてくる」
「それ以上増やすなって伝えて」
「分かった」
「絶対」
「分かったって」
真理子が釘を刺す。
香織は笑って、店を出ていった。
恵はその背中を見送った。
真理子が言う。
「信用できる?」
「半分」
真紀が答えると恵も続ける。
「半分」
老人が笑う。
「仲間だろうに」
真理子が言う。
「仲間だから分かるんです」
*
香織は一時間後に戻ってきた。
真理子がすぐ聞く。
「どうだった?」
「二十人ずつでいいって」
四人がほっとする。
「それと」
真理子の顔が固まる。
「それと?」
香織は笑った。
「もう増えないって」
恵が胸を撫で下ろした。
「よかった」
香織が続ける。
「たぶん」
「たぶんを付けるな!」
恵の声が店中に響いた。
カイルがちょうど入ってきたところだった。
「……今来るタイミング間違えました?」
香織が笑う。
「ちょうどいいよ」
「何がです?」
「祭りの日、四十人」
真紀が言うとカイルの顔が引きつる。
「増えてるじゃないですか!」
真理子が静かに答える。
「私も今それを言いたい」
恵は厨房の台に手をついた。
祭りまであと七日。
まだ何も起きていない、なのにもう疲れている。
「……本番、大丈夫かな」
恵が呟くと真紀が笑った。
「大丈夫でしょ」
「準備すればね」
真理子が言うと香織も笑った。
「なんとかなるって」
カイルが四人を見る。
そして、ぽつりと言った。
「その三人がそう言うと、逆に不安になるんですけど」
恵は思わず吹き出した。
それは自分も同じだった。




