偉い人が来ても、やることは同じ
翌日、恵が厨房で野菜を切っていると、香織が店の前から戻ってきた。
開け放した厨房の窓からは、通りを行き交う人々の話し声が聞こえていた。まな板の上には洗ったばかりの野菜が並び、恵が包丁を動かすたび、軽快な音が厨房に響く。
香織は店先で誰かと立ち話をしていたらしく、いつものように楽しそうな顔をしていた。
「昨日の人、また来るって」
真理子が顔を上げる。
「誰?」
「役所の偉い人」
「来るって言ってたでしょ」
「そうだけど、今日らしい」
真紀が肉を切りながら言った。
「別に普通でいいじゃん」
厚みのある肉を手際よく切り分けながら、真紀は特に気にした様子もなく作業を続けている。
「普通でいいけど」
真理子は少しだけ考える。
「どのくらい偉い人なの?」
香織が首を傾げる。
「知らない」
「知らないのに話してたの?」
「話せるでしょ」
「そういうところよ」
真理子は呆れたように目を細めた。
恵は笑った。
香織は昔から、相手の肩書きを知ってから距離を決めるタイプではなかった。
むしろ、肩書きを知らない時の方が普通に話せてしまう。
そして、知ったあとも大して変わらない。
「でもさ偉い人だからってご飯の味変えるわけじゃないし」
香織が言うと真紀が頷く。
「それはそう」
真理子もため息をつきながら頷いた。
「まあね」
恵も思う。
誰が来ても結局やることは同じだ。
ちゃんと作って、ちゃんと出す。
それだけ。
恵は再び包丁を動かした。切り分けた野菜を木の器へ移すと、みずみずしい青い香りがふわりと立ち上った。
*
昼少し前、昨日の男が本当に来た。
今日は一人ではなかった。
後ろに若い男を二人連れている。
先頭の男は落ち着いた色合いの上着を身につけ、背筋を伸ばして歩いていた。後ろの二人も身なりが整っており、周囲を確かめるように視線を動かしている。
扉が開いた瞬間、店の空気が少しだけ変わった。
食器の触れ合う音や客たちの話し声は続いていたが、何人かが入口へ顔を向けた。
常連らしい冒険者たちが、ちらちら見る。
カイルもすぐ気づいた。
「来た……」
恵が小声で聞く。
「そんなに偉い人なの?」
「この町の行政に関わってる人です」
「へえ」
「へえ、で終わるんですか?」
「何て言えばいい?」
カイルが少し考える。
「いや……まあ、いいです」
カイルは何か言いたげに口を開きかけたものの、結局諦めたように肩を落とした。
香織はいつも通りだった。
「いらっしゃいませ」
男が店内を見る。
「今日は連れがいる」
「どうぞどうぞ」
香織が席を案内する。
そのまま普通に品書きを渡す。
男が少しだけ笑った。
「昨日と変わらんな」
「昨日から一日しか経ってないですよ」
「そういう意味ではない」
「じゃあ何の意味?」
男は一瞬止まった。
後ろの若い二人が、少し驚いた顔をした。
一人は目を見開き、もう一人は男の横顔をそっと窺っている。
真理子が遠くから見ていて、小さく呟く。
「またやってる」
恵も笑う。
男は結局、煮込みを頼んだ。
連れの二人は焼いた肉。
香織が厨房へ伝える。
「煮込み一つ、肉二つ」
恵が頷く。
「はい」
鍋の蓋を持ち上げると、熱い湯気が一気に立ち上った。肉と野菜をじっくり煮込んだ香りが広がり、恵は木べらで底からゆっくりとかき混ぜる。
真紀が肉を焼く。
熱した鉄板に肉を置くと、勢いよく音が弾けた。表面から脂が滲み、香ばしい匂いが厨房いっぱいに広がっていく。
真理子は何も変わらず金を確認する。
本当にいつも通りだった。
*
料理を出したあと。
男はしばらく黙って食べていた。
連れの二人も食べる。
木製の匙が器に触れる小さな音が聞こえた。男は煮込みの肉を口に運び、ゆっくりと噛みしめている。
片方が小さく言った。
「うまい」
その若い男は、皿に目を落としたまま、もう一口肉を頬張った。
恵には、その一言が妙に嬉しかった。
特別な料理ではない。
派手な技術もない。
でも食べた人が、普通に美味しいと思ってくれる。
それで十分だった。
男が食べ終える。
香織が水を足しに行く。
「どうでした?」
「昨日と同じだ」
「じゃあ良かった」
「それを褒め言葉として受け取るのか?」
「昨日美味しいって思ったから今日も来たんですよね?」
男が黙ると香織が笑う。
「じゃあ同じなら良かったじゃないですか」
男は少しだけ笑った。
口元に浮かんだ笑みは、昨日よりも幾分柔らかかった。
「お前は本当に妙な女だな」
「よく言われます」
「それ、昨日も聞いた」
「じゃあ覚えてくれたんですね」
男はまた黙った。
後ろの若い二人が、目を逸らして笑っている。
片方は口元を手で隠し、もう片方は何事もなかったように水を飲んだ。
真理子が恵に小声で言う。
「香織ってすごいよね」
「うん」
「私は絶対あそこまで行けない」
「私も」
恵は笑った。
香織はたぶんこういうのを何十年もやってきたのだろう。
人と話して、距離を詰めて、相手の懐に入る。
本人にとってはただの日常。
だから異世界でも変わらない。
*
男が帰る前。
真紀が少しだけ話しかけた。
「そういえば、祭りのことで聞いてもいいですか?」
男が振り返る。
「祭り?」
「店の前で串焼きを売ろうと思ってるんですけど」
真理子がすぐに付け足す。
「まだ正式には決めてません。条件を確認してからです」
「ほぼやるつもりじゃん」
真紀が言う。
「条件次第」
「できるならやるでしょ?」
「だから、その条件を今から聞くの」
真理子は真紀へ視線を向け、言葉を区切るように答えた。真紀は悪びれずに肩をすくめている。
「二人とも同じ方向向いてるのに、毎回そこだけ揉めるよね」
香織が笑っていると男も少し笑った。
「店の前で売るなら申請がいる」
真理子の表情が変わる。
先ほどまでの呆れた様子が消え、背筋を伸ばして男の方へ向き直った。
「何か決まりはあります?」
「売る物と使う場所。それから火を使うなら、それも伝える必要がある」
「串焼きだから火は使う」
「なら、その申告も必要だ」
「費用は?」
男が真理子を見る。
「そこから聞くのか」
「大事なので」
「場所ごとに決まっている。店の前なら、それほど高くはない」
「売上に対して?」
「固定だ」
真理子が少し考える。
完全に計算を始めている。
指先が無意識にテーブルの端を軽く叩いていた。頭の中では、出店費用と売上の見込みを並べているのだろう。
香織が聞く。
「店の中は普通に営業していいんですか?」
「構わない。ただ、店の前を使うなら通行を塞ぐな」
真紀が店の前を見る。
開け放した扉の向こうでは、買い物袋を抱えた女性や荷物を運ぶ男たちが行き交っている。店先にはそれなりの広さがあるが、人の流れを考えれば使える場所は限られそうだった。
「焼く場所も考えないとね」
「煙もね」
「あと仕入れ量」
「それは今日聞いてきた」
香織が答える。
「串焼きに良さそうな肉あったよ」
男が四人を見る。
「もうそこまで話が進んでいるのか」
恵が笑う。
「今朝決まったばっかりなんですけどね」
「決まったの?」
真理子が恵を見る。
「やる方向で、でしょ?」
「……まあ、それはそう」
「ほら」
真紀が笑うと男も少しだけ笑った。
「なら、必要な申請だけ忘れるな」
「分かりました」
真理子が頷く。
少し離れた席から、カイルが口を挟んだ。
「なんか本格的になってきましたね」
恵が振り返る。
「ね」
「楽しそうですね」
「楽しいよ」
恵は素直に答えた。
その声には、自然と弾んだ響きが混じっていた。
「大変そうですけど」
「それも込みでね」
カイルが少し笑う。
「じゃあ俺、祭りの日に買いに来ます」
香織が笑った。
「いっぱい買ってね」
「何本買わせる気ですか?」
「食べられるだけ」
「それならまあ」
真理子が口を挟む。
「まだ値段も決まってないけどね」
「まだそこなんですか?」
「今日決まったばっかりだから」
「そっか」
カイルは納得したように頷いた。
祭りの日、店の前で串焼きを売る。
朝にはまだ思いつきだった話が一日で、少しずつ形になっていた。
あとは実際に肉を焼いて値段と量を決める。
四人の祭りの準備は、ここから本格的に始まる。
*
その日の午後。
店は少し落ち着いていた。
昼の賑わいが去った店内には、窓から柔らかな日差しが差し込んでいた。空いたテーブルはきれいに拭かれ、厨房からは洗い終えた食器を重ねる音が聞こえてくる。
真理子が紙に何か書いている。
真紀が横から覗く。
「何?」
「串焼きのざっくり計算」
恵がすぐ反応する。
「もう計算してるの?」
「値段決めないといけないでしょ」
「そういうことか」
香織も横から覗く。
「何書いてるの?」
「肉の値段と、一本にどれくらい使うか」
「分かんない」
「知ってる」
「おいしくて売れればいいんじゃない?」
「そういう考え方が一番怖い」
香織は笑うと真紀が紙を見る。
「今日見てきた肉なら?」
「まだ正確には出せない。実際に買って、一本にどれくらい使うか決めてから」
「じゃあ先に試作だね」
「そう」
「味付けも決めたい」
「それは真紀に任せる」
恵が笑う。
「そこは任せるんだ」
「料理は真紀の方が分かるから」
「じゃあ私は食べる」
香織が得意げに言うと真理子が顔を上げる。
「それは全員できる」
「大事な仕事じゃん」
「仕事ではない」
真紀が笑った。
「でも食べてもらわないと決められないから、仕事でいいんじゃない?」
「ほら」
香織が得意そうな顔をするが真理子は何も言わなかった。
少しして真紀が聞く。
「何本くらい作る?」
「それもまだ」
「カイルは昼過ぎが一番人多いって言ってたよね」
「だから最初から全部焼く必要はないと思う」
「肉だけ切っておく?」
「それなら余った時に店でも使えるようにしたい」
真紀が少し考える。
「同じ肉ならできる」
「じゃあ、その方がいい」
恵が二人を見る。
「余ったら全部無駄になるわけじゃないんだ」
「そうならないようにするの」
真理子が答えると香織が感心したように言う。
「ちゃんと考えてるね」
「商売だからね」
「私は売る方考えようかな」
真理子が顔を上げる。
「何する気?」
「まだ何も」
「その顔は何か考えてる」
「真紀と同じこと言われた」
恵が笑った。
また始まった。
真紀は本当に、思いついたら早い。
そして真理子は、本当にそれを止める。
でも止めるだけではない、現実に落とし込む。
恵はこの二人のやり取りを見ていて、少し不思議に思った。
普通なら、合わなそうなのに。
むしろ一番噛み合っている。
真紀が前へ出る。
真理子が足元を見る。
香織が人を連れてくる。
恵がその間を埋める。
四人は昔からそうだったのかもしれない。
ただ今までそれが、仕事として一つになったことがなかっただけで。
*
翌日、香織が市場から戻ってきた。
また顔が楽しそうだった。
頬を少し上気させ、足取りも軽い。市場でよほど面白い話を聞いてきたのだろうと、恵はその表情だけで察した。
真理子が警戒する。
「何?」
「祭りの話聞いてきた」
「誰に?」
「みんなに」
「みんなって誰」
「市場の人」
「範囲が広すぎる」
香織は気にせず続けた。
「去年も串焼き、すごい売れたって」
真紀がすぐ反応する。
「やっぱり?」
「うん。歩きながら食べられるから、昼過ぎからかなり出るみたい」
真理子が顔を上げる。
「昼過ぎ」
「カイルが言ってたのと同じだね」
「じゃあ、その時間に多めに焼く感じかな」
恵が言うと真紀が少し考える。
「最初から全部焼かない方がいいね」
「それはそう」
「焼きすぎて余るのが一番困る」
真理子が答えると香織が笑う。
「でも売れそうじゃない?」
「売れそうと、いくつ売れるかは別」
「また計算?」
「当たり前でしょ」
真紀はもう何か考えている。
「焼く人は一人必要だよね」
「お金受け取る人も」
真理子が言うと恵も少し考える。
「店の中も普通に営業するんだよね?」
「そのつもり」
「じゃあ結構大変じゃない?」
四人が少し黙った。
店の奥では食器を片づける小さな音が響き、窓の外からは市場へ向かう人々の声が聞こえていた。
香織が店内を見る。
その視線の先でカイルがいつもの席に座っていた。
「祭りの日だけ手伝ってよ」
香織が笑うとカイルが止まる。
手にしていた器をテーブルへ戻し、ゆっくりと香織を見上げた。
「なんでそうなるんですか?」
「人手足りなさそうだから」
「俺、客ですよね?」
「そうだよ」
「ですよね?」
「でも力仕事いるよ」
真紀が笑うと真理子も言う。
「人手は欲しい」
恵まで言う。
「お願いできたら助かるな」
カイルが三人を見る。
最後に恵を見る。
「……その言い方ずるくないですか?」
恵は首を傾げる。
「何が?」
カイルはため息をついた。
「でも祭りの日、仕事入るかもしれないんですよね」
「そっち優先でいいよ」
恵が言うと真理子も頷く。
「もちろん。こっちを手伝ってもらうなら、その分はちゃんと払うから」
「お金出るんですか?」
「働いてもらうんだから当たり前でしょ」
「なんか普通に手伝わされるのかと思ってました」
香織が笑う。
「そんなことしないよ」
「普段ちょいちょい手伝わされてますけどね」
「それは自分からやってるじゃん」
「そうですけど」
カイルは少し考えた。
「……分かりましたよ。空いてたら来ます」
「やった」
「空いてたら、ですからね!」
「はいはい」
「絶対聞いてない!」
カイルが思わず声を上げると、四人の笑い声が店内に広がった。
その様子を見ながら恵は思った。
店を始めてまだほんの少ししか経っていない。
でももうこの店には、役割ができ始めている、人も増えている。
気づけば誰かが誰かを助ける形ができている。
本人たちはたぶん誰一人、それを特別だとは思っていない。
ただできることをやっているだけ。
それだけなのに店は少しずつ確実に動き始めていた。




