昔の店を知っている人たちが、少しずつ戻ってきました
店を開け直してから何日か経ち、客は少しずつ増えていた。
毎日来る人、一度食べに来てから、また顔を見せる人。カイルのように、以前からこの店を知っている客もいる。
扉が開く音に顔を上げるたび、恵にも見覚えのある顔が増えてきた。
そしてその日、四人がまだ知らない客が来た。
*
昼を少し過ぎた頃、扉が開いた。
入ってきたのは年配の男だった。入口で足を止め、客席をぐるりと見回してから、奥にいた老人を見つけた。
「まだやってたのか」
老人が顔を上げる。
「失礼な奴だな」
「閉めるって聞いたぞ」
「閉めた」
「開いてるじゃないか」
男が笑うと、老人は厨房の方を指した。
「今は、こいつらの店だ」
男の視線が四人へ移った。
「……誰だ?」
「新しい店主たちです」
香織が笑顔で答え、真紀も厨房から顔を出した。
「四人いるけどね」
男は四人と老人をもう一度見比べ、少し不思議そうに首を傾げた。
*
「前と同じもの、あるか?」
男が尋ねると、老人は厨房へ目を向けた。
「煮込みか」
「ああ」
恵は火にかかった鍋を見た。蓋の隙間から湯気が漏れ、肉と香草の匂いが漂っている。
老人から教わった、昔からこの店で出していた煮込みだった。
味そのものは大きく変えていない。作る量や材料の切り方、火を入れる順番を確かめながら、誰が作っても同じように出せるよう、少しずつ揃えてきた。
「ありますよ」
恵が答えると、男は頷いた。
「じゃあ、それ」
迷うことなく席へ向かう背中を見送り、恵は深皿を取り出した。
*
料理を運ぶと、男は立ち上る湯気に顔を寄せてから、匙を取った。
しばらく黙って食べている。
恵はほかの卓を片付けながら、ついそちらへ目を向けた。
昔からの客だ。老人の料理を、四人よりずっとよく知っている。
変えすぎていないだろうか。同じつもりで作っていても、知らないうちに別のものになってはいないだろうか。
男が匙を置いた。
「同じだな」
その一言に、恵の肩から力が抜けた。
老人が少し得意そうに言う。
「ワシの料理だからな」
「作ってるのは恵だけどね」
真紀が厨房から口を挟むと、老人はそちらを向いた。
「元はワシだ」
男が笑った。
「でも、前より肉の大きさが揃ってるな」
真理子が帳面から顔を上げた。
「気づくんですね」
「前は大きいのを引いたら当たりだった」
「それも楽しみだ」
老人が言うと、真理子がすぐに返した。
「そこは揃えます」
男はまた笑い、皿に残った煮込みへ匙を伸ばした。
*
その男は翌日、別の男を連れてきた。
さらに次の日には、三人で扉を開けた。
「またやってるって聞いたぞ」
「閉めたんじゃなかったのか?」
「今は女が四人でやってるらしい」
「料理は?」
「煮込みはある」
話しながら入ってくる客たちを、香織が席へ案内する。老人を見つけると、声を上げて手を振る人もいた。
香織が厨房へ戻り、恵の横で声を落とした。
「口コミってすごいね」
「ね」
恵は頷き、並べた深皿に煮込みをよそった。
真紀だけは、料理を待つ客ではなく、席の間を行き来する人の動きを見ていた。
*
昔からの客が戻ってくるのは、嬉しいことだった。
ただ、人が増えると、少ないうちには気づかなかったことも見えてくる。
以前、卓を動かして広げた通路は使いやすくなった。けれど昼時、入口に近い席から客が立つと、今度は別のところで人が詰まった。
料理を運ぶ香織が足を止め、会計へ向かう客が脇へ避ける。その横から新しい客が入ってきて、三人が譲り合った。
真紀が眉を寄せた。
「やっぱり、あそこ邪魔だな」
真理子が顔を上げる。
「何が?」
「あの卓。もう少しずらした方がいい」
真紀の視線を追った真理子が、すぐに釘を刺した。
「営業中に動かさないでよ」
「今は動かさない」
「今は、って言った」
真紀は答えず、客が通り過ぎたあとの隙間を見ていた。
*
閉店後、真紀はやっぱり卓を動かし始めた。
脚が床板を擦る音に、恵は片付けの手を止めた。
「また?」
「こっちの方がいい」
香織が空いた皿を抱えて近づく。
「何が?」
「通りやすい」
真紀は椅子を引き、客が座ったときの幅を確かめてから、卓を少し斜めにずらした。隣との間を見て、もう一度位置を調整する。
「入口から入った人は、ここを通れるでしょ」
今度は厨房から歩いてみせる。
「料理を出す人はこっち。会計に行く人は、ここから抜ければいい」
真理子は少し離れたところから見ていた。
「席、減らない?」
「減らない」
「本当に?」
「数えた」
真理子が少し驚いた顔をする。
「珍しい」
「何が」
「先に数えたこと」
「私を何だと思ってるの」
恵は笑いながら皿を厨房へ運び、戻ってから卓の反対側を持った。
*
老人はいつもの席から、その様子を見ていた。
「前は、そこに大きな卓があった」
真紀が顔を上げる。
「そうなの?」
「ああ。何人も一緒に座れるやつだ」
「なんで変えたの?」
老人は少しだけ客席へ目を向けた。
「客が減ったからな」
昔は、大きな卓を囲んで何人も一緒に食べていたという。
けれど客が減るにつれ、まとまって座る人も少なくなった。大きな卓は端へ寄せ、使わなくなった椅子も片付けた。
空いた場所を埋めるように、残った卓を少しずつ動かしたらしい。
恵は店内を見回した。
最初に来たときから、広い店だと思っていた。
この広さには、ちゃんと理由があったのだ。
*
「前の並べ方に戻してみる?」
恵が尋ねると、老人は首を振った。
「いや。今のお前さんたちが使いやすいようにしろ」
「じゃあ、変える」
真紀はもう次の椅子を動かしていた。
老人が笑う。
「決まっとったようだな」
香織も笑いながら、床に置いていた荷物を拾い上げた。
「ずっと動かしたかったんだもんね」
「だって、気になるじゃん」
真紀はそう言って、恵に卓の位置を確かめてもらった。
*
翌日、最初に気づいたのはカイルだった。
扉を開けてすぐ、少し足を止める。
「あれ?」
香織が振り返った。
「何?」
「なんか違う」
真紀が厨房から顔を出した。
「分かる?」
カイルは店内を見回した。
「卓?」
「そう」
「また動かしたんですか?」
「入口のところ、まだ邪魔だったから」
カイルはいつもの席まで歩き、途中で後ろを振り返った。
「……確かに、こっちも通りやすい」
「でしょ」
真紀が満足そうに頷くと、真理子が横から言った。
「こういうところは、本当に目ざといんだよね」
「そこは普通に褒めてくれてよくない?」
カイルが椅子を引きながら笑った。
*
昼には、昨日と同じくらいの客が来た。
けれど入口で人が重なっても、昨日のように立ち止まることが少ない。
香織は料理を両手に持ったまま客の横を通り、会計を済ませた人は、その後ろを無理なく抜けていった。
恵も厨房から客席へ出てみて、違いが分かった。前を向いたまま歩けるし、卓を避けて皿を持ち替える必要もない。
「全然違うね」
料理を置いて戻ると、真紀は当然のように頷いた。
「だから言ったじゃん」
真理子も客席を見て、少し笑った。
「これは正解」
「もっと素直に褒めて」
「調子に乗るから嫌」
真紀は不満そうにしながらも、どこか嬉しそうだった。
*
昔からの客は、その後も少しずつ戻ってきた。
老人を見つけて喜ぶ人もいれば、四人を見て、入口で様子をうかがう人もいる。料理を食べて安心したり、変わった卓の並びを面白がったり、反応はそれぞれだった。
「若いのを雇ったのか」
そう言われて、四人が一瞬黙ったこともあった。
香織が笑顔で聞き返す。
「若い?」
男は四人を見回したあと、老人へ目を向けた。
「……こいつよりは」
「おじいちゃんを基準にすれば、そうですね」
真理子が真顔で頷くと、老人がすぐに反応した。
「おい」
香織が吹き出した。
「真理子、それはひどいって」
「事実でしょ」
「事実でも言い方ってものがあるじゃろうが」
老人が文句を言うと、男も声を上げて笑った。
「なるほどな。前より賑やかになったわけだ」
「そういうことです」
香織が笑い、恵もつられて笑った。
老人に会いに来た客が、帰り際には四人にも声をかけるようになる。
前の店の話を聞くこともあれば、香織が昨日、市場で聞いてきた話をすることもあった。
料理は変わらないと言う人も、前より店が明るくなったと言う人もいる。
四人は少しずつ、この店にいて当たり前の顔になり始めていた。
*
その日の夕方、荷物を持った旅人らしい男が来た。
埃のついた靴で店に入り、肩から下ろした袋を椅子の脇へ置く。料理を食べ始めてから、近くを通った香織へ声をかけた。
「この辺、もう祭りの準備は始まってるか?」
香織が首を傾げる。
「祭り?」
男も少し驚いた顔をした。
「知らないのか?」
「最近、ここに来たばかりだから」
「ああ、そうか。毎年この時期に、大きなのがあるんだよ」
香織の目がすぐに輝いた。
「どんなお祭り?」
少し離れた卓で帳面をつけていた真理子が、顔を上げた。
恵には分かった。
香織が、腰を据えて話を聞き始める顔だった。
*
男の話では、町では毎年、この時期に大きな祭りがあるらしい。
近くの村からも人が来る。商人や旅人、冒険者も集まり、通りは普段とは比べものにならないほど賑わうという。
市場にも店が増え、町の店は祭りに合わせて商売をする。
香織は空いた椅子の背に手を置き、楽しそうに聞いていた。
「楽しそう」
「遊びに行く話ならね」
真理子が口を挟むと、香織はそちらを向いた。
「店も何かできるんでしょ?」
真理子がため息をついた。
「そっちに行くと思った」
「だって、せっかく人が増えるんだよ?」
「まだ、どんな祭りか聞いてる途中でしょ」
「だから、これから聞くんじゃない」
香織は楽しそうに笑って、再び男へ向き直った。
*
厨房で聞いていた真紀も、手を拭きながら出てきた。
「人、そんなに増える?」
旅人が頷く。
「増えるなんてもんじゃない」
「どれくらい?」
「普段はこの町に来ない連中まで集まるからな。宿も早めに押さえないと埋まるぞ」
真紀が客席を見た。
恵はその顔に気づいて、思わず声をかけた。
「真紀」
「何?」
「今、何か考えてる?」
「別に」
「嘘」
真理子がすぐに言うと、真紀が笑った。
「まだ何も決めてないって」
「考えてるのは認めるんだ」
「まあね」
香織が嬉しそうに真紀を見た。
「ほら、真紀も気になってる」
「人が増えるなら、店としては気になるでしょ」
「それはそうだけど」
恵も客席を見回してから頷いた。
「どんなお祭りなのか、もう少し知りたいね」
*
旅人が帰ったあと、四人は老人を見た。
老人は茶を飲もうとしていた手を止めた。
「なんだ」
香織が真っ先に尋ねる。
「お祭りって、毎年あるの?」
「ある」
「この店も、何かやってた?」
老人はすぐには答えなかった。湯飲みを手にしたまま、誰も座っていない客席へ目を向ける。
「ああ」
四人は少し身を乗り出した。
「どんな感じだったんですか?」
恵が尋ねると、老人の口元がわずかに緩んだ。
「この店も、昔は祭りの日になると忙しくなったもんじゃ」
「やっぱり?」
真紀がすぐに反応する。
「客、増えた?」
「そりゃ増えた」
「どれくらい?」
「さあのう」
老人は笑った。
「昔のことじゃから、正確には覚えとらん」
真紀は少し残念そうだったが、老人はそのまま続けた。
「ただ、普段とは違う客が来たのは覚えとる」
「旅人とか?」
「そうじゃ。商人も来たし、冒険者も来た。毎年、祭りのときだけ顔を見せる奴もおった」
香織が笑った。
「じゃあ、久しぶりに会える人もいるかもしれないね」
「そうかもしれんな」
老人は湯飲みを卓へ置いた。
真理子が少し考えてから尋ねた。
「店を開けるなら、普段とは違う準備が必要そうですね」
「そうじゃな」
「何か特別なものを出してたんですか?」
香織が聞くと、老人は湯飲みの縁へ目を落とした。
「まあ……いろいろやったのう」
「いろいろ?」
「昔のことじゃ」
そう言って、老人はもう一度茶を飲んだ。
恵は続きを待ったが、老人はそれ以上話さなかった。
*
その夜、夕食の卓でも、話題はやっぱり祭りだった。
温めたスープの湯気を挟み、香織はどこから人が来るのか、どんな店が出るのかを気にしている。
真紀は、客が一度に来たら厨房をどう動かすか。
真理子は、準備にいくらかかり、余ったらどうするか。
恵は、鍋をいくつ使えば何人分作れるかを考えていた。
同じ祭りの話をしているのに、見ているところが全員違う。
恵はパンをちぎりながら、少し笑った。
「また始まりそうだね」
真理子が顔を上げる。
「何が?」
「なんか」
「祭りでしょ」
「そうじゃなくて」
香織が笑った。
「恵が言いたいの、分かる」
真紀だけが、何のことだという顔でスープを飲んでいた。
*
最初は、今夜寝る場所が必要だった。
食べるものも、これから生活するための仕事も必要だった。だから、目の前にあった店を引き継いだ。
あのときは、それだけで精いっぱいだったはずだ。
それなのに昔の客が戻り、新しい客も来て、使いやすいように卓を動かしているうちに、今度は町の祭りの話まで出てきた。
もう、今日の寝床だけを考えているわけではない。
この町に人が増える日に、自分たちの店をどう開けるか。その話を、四人でしている。
恵は少し不思議な気持ちで、向かいの真紀を見た。
「何?」
「別に」
「何、その顔」
「明日、祭りのことをもう少し聞いてみようかなって」
真紀が少し笑った。
「そうだね」
真理子が匙を置いた。
「聞くだけだからね。まだ何も決めないから」
「分かってるって」
「その返事が一番怖い」
香織が楽しそうに笑った。
「楽しみだね」
真紀が何かを考え始めたときは、だいたい何かが起きる。
恵はそれを知っていたし、真理子も、香織も、きっと同じことを思っている。
老人はそんな四人の話を聞きながら、静かに茶を飲んでいた。




