開ける前から、もう忙しい
「じゃあ、掃除からやろっか」
恵がそう言った途端、真紀が厨房の奥を指さした。
「その前に、全部出したい」
真理子が嫌そうに眉を寄せる。
「何を?」
「棚の中」
「全部?」
「全部」
「開店する気ある?」
「あるからやるんじゃん」
昨日までこの店を使っていた老人は、不安そうに戸棚へ目を向けた。
「そんなに汚くはないぞ」
「汚いとは言ってないよ」
真紀が木の取っ手を引くと、戸が小さくきしんだ。
中には深皿や小鍋が重なり、その隣に乾燥した香草の束と、色も形も違う調味料の瓶が並んでいた。
「何がどこにあるか分かんないのが嫌なの」
「ああ」
老人は、納得したような、していないような顔で頷いた。
恵には分かった。真紀は料理を始める前に、道具と材料の場所を頭に入れておきたいのだ。
必要になってから探すのも、同じ棚を何度も開けるのも嫌う。
「じゃあ、私は食器を見るね」
「私は帳簿」
真理子が昨日から持ち歩いている帳面を抱え直すと、香織も手を挙げた。
「じゃあ私、買い物?」
三人が一斉に香織を見た。
「まだ何も決まってない」
「だって、足りないもの出るでしょ?」
「出るけど」
「じゃあ、市場見てくる」
「一人で?」
「大丈夫大丈夫。昨日ちょっと歩いたし」
真理子は少し考え、帳面を卓に置いた。
「じゃあ、肉の値段を見てきて。買わないで、値段だけ」
「分かった」
「本当に?」
「信用ないなあ」
「昨日会ったばかりの店主の娘の結婚事情まで知って帰ってくる人を、どう信用しろと?」
香織は悪びれずに笑った。
「情報収集って大事でしょ?」
「そういう情報はいらない」
恵は二人のやり取りを聞きながら、棚から皿を下ろした。
四人で何かを始めると、昔からこうだった。誰かが考え、誰かが止め、誰かが勝手に動いて、気づけば形になっている。
学生時代の文化祭も、旅行の計画も、子どもたちを連れて集まったときも。
たぶん今回は、それが食堂になっただけなのだ。
異世界で、というところだけは、まだ少しおかしいけれど。
*
香織が市場へ出ていくと、厨房は一気に騒がしくなった。
「これ、いつからここにあるの?」
真紀が持ち上げた瓶には、底の方に茶色い粉が残っていた。蓋の縁にこびりついた粉を見て、老人が首をひねる。
「いつだったかのう」
「分かんないやつは、いったん外」
「まだ使えるぞ」
「使えるかどうかは後で見る」
瓶を作業台に並べる真紀の隣で、恵は食器を一枚ずつ確かめていた。
縁の欠けた平皿、内側の色が濃くなった木の器、重さのある深皿。底や縁を見てから、使えるものと確認が必要なものを分けていく。
「これ、煮込みにちょうどいいね」
「それ残す」
真紀が即答したので、恵は深皿を脇へ寄せ、次の一枚を持ち上げた。
「これは?」
「捨てる」
「早いね」
「欠けてるじゃん」
「まあ、そうだけど」
老人が横から皿を覗き込んだ。
「まだ使えるぞ」
真紀は手を止め、老人へ向き直った。
「おじいちゃん」
「なんだ」
「お客さんに出した料理の皿が欠けてたら、どう思う?」
老人は少し考えた。
「……まあ、古い店だと思うな」
「でしょ?」
「でも使える」
「そこじゃないんだよなあ」
客席で帳面を開いていた真理子が顔を上げた。
「捨てるなら、数えてから」
「なんで?」
「今何枚あって、何枚減らすのか把握したいから」
「皿まで?」
「足りなくなったら買うんだから、皿も数えるの」
「細かい」
「あなたが雑なの」
老人がそっと恵に顔を寄せた。
「いつもこうなのか?」
「いつもこうです」
恵も声を落として答えると、老人は真紀と真理子を交互に見た。
「疲れんか?」
「慣れました」
本当だった。むしろ、これくらいがいつもの四人だ。
恵は皿の枚数を数え、真理子へ伝えてから、次の棚に手を伸ばした。
*
一時間ほどすると、香織が戻ってきた。
扉の音に顔を上げた真理子の視線が、その両手に下がった袋で止まる。
「買うなって言ったよね?」
「買ってないよ」
「その袋は?」
「もらった」
「なんで?」
香織が卓に袋を置くと、口から白っぽい根菜が転がり出した。形は人参に似ていて、細い根の間にまだ土が残っている。もう一つの袋からは、張りのある葉物が覗いていた。
「昨日の装飾品屋さんの娘さんの結婚相手が、八百屋さんの息子さんだった」
三人が黙った。
老人だけが、感心したように頷いた。
「早いな」
香織は気にせず、葉物の袋を厨房へ運んだ。
「それで昨日の話をしてたら、八百屋さんが『あそこの店を引き継ぐなら、これ使って』って」
真理子がゆっくり尋ねた。
「昨日会った人の娘の、結婚相手の家族と、もう仲良くなったの?」
「うん」
「なんで?」
「話したから」
「その説明で納得できたこと、一度もない」
真紀は袋を覗き込み、根菜を一本取り上げた。表面を指でこすり、老人に食べ方を確かめている。
「これ、使えそう」
「でしょ?」
「肉の値段は?」
真理子に聞かれると、香織は今度こそ真面目な顔になった。
「聞いてきたよ」
肉の種類ごとの値段、まとめて買う場合の量、市場に出る曜日。よく売れる部位や、安い店と品質のいい店の違いまで、香織は次々に話した。
真理子は途中から帳面を引き寄せ、聞き返しながら書き留めていたが、やがて手を止めた。
「……それ全部、今日聞いたの?」
「うん」
「誰から?」
「いろんな人」
「いろんな人って何人?」
香織は指を折り始めた。
「肉屋さん二人、八百屋さん三人、パン屋さん一人、あと――」
「もういい」
「なんで?」
「聞いた私が悪かった」
真紀が笑いながら、野菜を作業台へ並べた。
「でも助かる」
「でしょ?」
香織は得意げだった。
恵は洗い終えた皿を拭きながら、この人は昔から自分のすごさに気づいていない、と思った。
六人の子どもを育てながら営業職を続けていたときも、仕事の話になると決まって同じことを言っていた。
「人と話してただけ」
どう考えても、それだけではない。
*
昼前には、厨房も客席も、昨日とは少し違う姿になっていた。
よく使う深皿は鍋の近くへ移され、調味料は老人に中身を確かめてもらってから並べ直した。
棚の奥から出てきた道具も、使う場所に合わせて収まっている。
床を拭いた布をすすぐと、水が薄く濁った。
窓を開けた客席には通りの風が入り、乾き始めた床板に光が伸びていた。
老人は厨房と客席をゆっくり見回した。
「……ワシの店なんだが」
真紀が振り返った。
「昨日も言ってたけど、もううちらの店でしょ?」
老人が目を丸くし、恵は笑いをこらえた。
真理子が呆れた声を出す。
「言い方」
「だって、譲ってもらったじゃん」
「そうだけど」
香織が老人の肩を軽く叩いた。
「大丈夫。追い出さないから」
「そこじゃない気がするがのう」
そう言いながらも、老人は少し笑っていた。
*
「で、開けるの?」
真理子が聞くと、真紀は窓の外へ目を向けた。
向かいの建物に落ちる影は朝より短くなり、通りを行く人も増えている。
「開けよっか」
「今日?」
「今日」
「メニューは?」
「基本は昨日と同じでいいんじゃない? 焼いた肉、煮込み、パン、スープ」
「副菜は?」
「今日はなし」
老人が驚いて真紀を見た。
「減らすのか?」
「いったん減らす」
真紀は作業台に手をつき、厨房を見渡した。
「四人ともこの厨房は初めてだし、おじいちゃんのやり方も全部分かってない。最初から品数を多くする意味ないでしょ」
真理子が納得したように頷いた。
「それは賛成」
恵も、火にかかった煮込みの鍋を見た。
「まず、ちゃんと出せるものだけでいいね」
「お客さんに、少ないって言われないかのう」
「言われたら説明する。今日から変わりましたって」
「潔いねえ」
香織が笑うと、真紀は肩をすくめた。
「分かんないまま全部やる方が怖いじゃん」
老人は四人を見回した。
「本当に今日からやるのか」
「やるよ」
「昨日来たばかりだぞ」
「昨日決めたから、今日やる」
真理子が小さくため息をついた。
「この人、一回決めるとこうなんです」
老人に目を向けられ、恵も頷いた。
「止めてもやります」
「止める気ある?」
真紀に聞かれ、恵は笑った。
「ないけど」
「じゃあ、いいじゃん」
*
入口に看板を出した。
昨日までと同じ場所に、同じ看板。ただ、扉の向こうで働く人間が四人増えている。
最初の客が来たのは、それから十分もしないうちだった。
扉が開き、若い男が一人、顔を出した。背には大きな剣を負い、肩も胸もしっかりしている。
使い込まれた革の装備と、歩くたびに小さく鳴る金具が、恵にはいかにも冒険者らしく見えた。
ただ、男は四人を見るなり足を止めた。
「……あれ?」
店内を見回し、一度外へ出る。扉の向こうで看板を確かめ、もう一度入ってきた。
「店、合ってるよな?」
老人が厨房の奥から顔を出した。
「合っとるよ」
「よかった」
男は安心したように笑ってから、改めて四人を見た。
「……誰ですか?」
「今日から店やる人」
真紀が答えた。
「今日から?」
「うん」
男が老人を見ると、老人も頷いた。
「店を譲った」
「昨日まで、そんな話してなかったじゃないですか」
「昨日決まったからな」
男は数秒黙った。
「……昨日?」
この反応は正しい、と恵は思った。たぶん、この人が一番まともだ。
「とりあえず、座ったら?」
「あ、はい」
男は素直に頷き、壁際の席へ向かった。
椅子に腰を下ろす前に剣を外し、邪魔にならないよう脇へ寄せている。
香織がすぐに近づいた。
「何食べる?」
「いつもの煮込みで」
「いつもの?」
香織が老人を見ると、老人が説明した。
「よく来る客だ」
「常連さんなんだ。じゃあ、よろしくね」
香織が嬉しそうに笑う一方、男はまだ少し戸惑っていた。
「……はあ」
恵は厨房へ戻り、老人に盛り付ける量を確認してから、温めていた煮込みを混ぜた。
鍋底から返すと柔らかな具が浮かび、とろみのある汁から湯気が上がる。
小皿に取って味を見ると、昼に食べるには少しだけ塩気が弱い気がした。
「これ、少し塩を足した方がいい?」
老人は鍋を覗き、首を振った。
「もう少し煮詰まるから、そのままでいい」
「なるほど」
恵は頷いた。火加減を確かめてから、もう一度ゆっくりかき混ぜる。
鍋の癖も、煮詰まる速さも、使い慣れたものとは違う。教えてもらいながら、一つずつ覚えればよかった。
深皿によそい、縁に垂れた汁を拭いて客席へ運ぶと、若い男は早速匙を取った。
一口食べ、その手が少し止まる。
恵は皿に目を落としながら尋ねた。
「どう?」
男が顔を上げた。
「いつもの味です」
すぐ後ろで見守っていた老人が笑い、恵もほっと息をついた。
「よかった」
男はもう一口食べてから、店内へ目を向けた。
香織は空いている卓を拭き、真理子は老人から釣り銭の説明を受けている。真紀は厨房と客席を行き来して、運ぶときに邪魔になる椅子を少しずらしていた。
「……本当に店やるんですか?」
真紀が足を止めた。
「やるよ」
「この町の人じゃないですよね?」
「昨日来た」
「昨日?」
男がまた同じ顔をしたので、香織が笑った。
「その反応、門番さんよりまとも」
「門番?」
「こっちの話」
ますます分からない顔になった男を見て、恵も笑ってしまった。
少しとぼけたところのある子なのかもしれない。でも、四人の方がおかしいときには、ちゃんと気づくらしい。
「お姉さんたち、何者なんですか?」
恵が答えた。
「普通のおばさんよ」
男は真顔になった。
「いや、絶対違いますよね?」
四人が一斉に彼を見た。
「どこが?」
真紀が聞くと、男は匙を持ったまま言った。
「昨日この町に来て、今日食堂やってるところです!」
店の中に笑い声が響いた。
恵は、この子はたぶん、これからよく来るのだろうなと思った。
*
昼になるにつれ、昨日も見かけた冒険者たちが一人、また一人と入ってきた。
誰もが四人を見て、次に老人を見る。
「何があった?」
「店主増えた?」
「親戚?」
そのたびに老人が、少し楽しそうに答えた。
「店を譲った」
客が驚いている間にも、真紀は厨房へ戻り、香織は席へ案内する。
真理子は受け取った硬貨を老人と確かめ、恵は鍋の前に立った。
最初のうちは順調だった。
煮込みをよそい、焼いた肉を皿に盛る。
パンを添え、スープを運ぶ。一つずつ確認しながら出しているうちに、客席は三組、四組と埋まっていった。
厨房には肉の脂が焼ける匂いが広がり、客席からは椅子を引く音と、食器の触れ合う音が重なって聞こえた。
「煮込み二つ!」
「はい!」
恵が深皿を二枚出すと、香織の声が続いた。
「焼いた肉一つ!」
「はい!」
「パン追加!」
「ちょっと待って!」
鍋へ伸ばしかけた手が止まった。
煮込み二つ、肉一つ、パン。その前にも、何か頼まれていなかっただろうか。
思い出そうとしたところへ、また声が飛んでくる。
「スープも一つ!」
恵は振り返った。
「一回待って!」
香織が口を閉じ、厨房にいた真紀と老人も恵を見た。
恵は目を閉じ、注文を一つずつ声に出した。
「……煮込み二つ」
「うん」
「肉一つ」
「うん」
「パン追加」
「うん」
「スープ一つ」
「そう」
「それ以上、今言わないで」
香織が素直に頷いた。
「分かった」
隣で真紀が小さく笑ったので、恵は睨み返した。
「笑わないで」
「いや、始まったなと思って」
「何が?」
「ピーク弱いの」
「分かってるなら助けてよ!」
「はいはい」
真紀はすぐに焼き台へ回り、恵の前に置かれていた肉の皿を引き取った。
真理子も帳面を置いて厨房へ入ってくる。
「私、パンとスープやる」
香織が入口から顔を出した。
「私は?」
「注文、一個ずつ持ってきて!」
恵が即答すると、香織は大きく頷いた。
「了解!」
老人は厨房の隅で目を丸くしていたが、空いた作業台へ皿を並べ、盛り付けを手伝い始めた。
恵は煮込みの鍋に向き直った。
ほかの料理が目の前から引き取られると、さっきまで曖昧だった順番が、ようやく頭の中に戻ってきた。
深皿を二枚並べ、同じ量ずつよそう。縁を拭き、客席へ渡す。
次の注文を待ちながら、鍋底をゆっくりかき混ぜた。
できないものは、できない。だったら誰かに頼み、自分ができるところをやればいい。
昔から四人は、そうやってきた。
*
少しして、最初に来た若い冒険者が空の皿を持ち、厨房の近くまでやってきた。
「これ、どこに置けばいいですか?」
「そこ!」
香織が作業台の端を示すと、男は素直に皿を置いた。
焼き台から顔を上げた真紀が、その向こうの卓を指さす。
「ついでに、あっちの皿も持ってきて」
「え?」
「手、空いてるでしょ?」
「俺、客ですよ?」
「知ってる」
「じゃあ、なんで働いてるんですか?」
「今忙しいから」
「理由になってないですよ!」
そう言いながらも、男は振り返り、空いた卓の皿を集め始めた。
恵が吹き出すと、香織も口元を押さえた。
真理子はパンを皿に載せながら、男へ声をかけた。
「ごめんね。後で何か出すから」
「いや、別にいいですけど……」
皿を運んできた男は、厨房に並んだ四人を見た。
「本当に客ですよね?」
恵が笑いながら頷いた。
「そうよ」
「ですよね?」
真紀が盛り付け終えた料理を差し出した。
「じゃ、これもお願い。あそこの席」
「話聞いてました?」
男は皿を受け取り、言われた卓へ運んでいった。
ようやく注文が落ち着く頃には、空いた皿を下げてくれる彼に、香織が礼を言い、真理子が水を差し出していた。
老人にまで助かったと言われると、男は困ったように頭をかいた。
その日、客として来たはずの若い冒険者は、結局、閉店まで店を手伝うことになった。
四人にとって、異世界で初めてできた、ずいぶん年下の友人。
あるいは、みんなの息子が一人増えた日だった。




