店をもらうって、そんな簡単でいいの?
「じゃあ、私たちがやる」
そう言った真紀に、老人はしばらく何も言わなかった。
当然だと思う。
昼飯を食べに来た見知らぬ女四人が、店を畳むと聞いた途端、引き継ぐと言い出したのだ。恵だって逆の立場なら警戒する。
ところが老人は、節の太い指で卓の縁をなぞり、少し考えたあとでぽつりと言った。
「……本当に、やってくれるのか?」
真理子が顔を上げた。
「そこ、もう少し疑った方がよくないですか?」
老人は四人の顔を順に見た。
「疑うほど、取られるものも残っとらんよ」
「いや、店ありますよ」
「閉めたら、ただの建物だ」
静かに笑った老人の向こうには、使い込まれた木の卓と椅子が並んでいた。
椅子の背は手が触れるところだけ色が薄く、壁際の食器棚には、食事に使われた同じ厚手の皿が重ねられている。
四人は少し黙ったが、真紀だけはそのまま店内を見回していた。
「設備は全部そのまま?」
「使えるものなら、好きに使っていい」
「食器も?」
「もちろん」
「仕入れ先は?」
「紹介できる」
「住むところは?」
真理子が横を向いた。
「そこまで決めてるの?」
「だって、住むところないじゃん」
「だから、順番ってものが」
「必要なこと聞いてるだけ」
二人のやり取りに、老人の口元が少し緩んだ。
「二階が住まいになっとる」
四人は一斉に天井を見上げた。太い梁の間に、飴色になった板が渡してある。
「ここ、二階あるんだ」
「あるよ。昔は家族で住んでた」
「今は?」
「ワシ一人だ」
恵は老人に視線を戻した。
「じゃあ、おじいさんはどうするんですか?」
「ワシか?」
「店を譲ったら、ここを出ていくんですか?」
老人は少し考え、ゆっくり首を振った。
「できれば、ここにいたい」
「じゃあ、一緒に住めばいいじゃん」
香織が即答すると、真理子がゆっくり顔を向けた。
「あなた、今会って何時間?」
「でも、家広いんでしょ?」
「そういう問題じゃないの」
「部屋なら余っとるよ」
老人が笑いながら口を挟むと、香織は満足そうに頷いた。
「じゃあ決まり」
「決めるな」
恵は思わず笑った。この四人でいると話が早い。早すぎるときもある。
*
店を譲る話は、驚くほどあっさり進んだ。
それでも真理子だけは、卓に身を乗り出すようにして、一つずつ確かめていた。
「本当に、店も設備も全部譲るんですか?」
「ああ」
「後から返せと言われても困りますよ」
「言わんよ」
「借金とか、ないですよね?」
「ない」
「税金みたいなものは?」
老人が首を傾げた。
「店にかかるものなら、毎年払っとる」
「それも後で教えてください」
隣で聞いていた真紀が笑った。
「もう経理始まってる」
「始めないと怖いのよ。あなたたちに任せると」
「大丈夫だって」
「あなたが一番信用ならない」
「ひど」
老人は二人を見比べ、不思議そうに尋ねた。
「お前さんたち、ずっとこんな感じなのか?」
「学生の頃からですね」
恵が答えると、老人は感心したように息を漏らした。
「長いなあ」
「腐れ縁です」
真理子が言うと、香織がすぐに返した。
「一番会ってるくせに」
「事実でしょ」
「それはそう」
老人がまた笑った。
卓に置いた肩の力も、さっきより抜けている。
店を畳むと話していたときには伏せがちだった目が、今はよく四人に向けられていた。
その変化に、恵はなんとなく安心した。
もしかしたら、誰かに店を渡したかったのかもしれない。ただ、その相手がいなかっただけで。
*
その日の夕方、四人は老人に店の中を案内してもらった。
厨房には、底の黒くなった鍋が大きさ順に吊られていた。
作業台には細かな傷が幾重にも走り、角は長年拭かれて丸くなっている。
どれも古いが、油汚れが放置されているようなことはなかった。
真紀は鍋を一つ持ち上げて重さを確かめ、棚に収まった道具へ目を移していた。
倉庫と食器棚を見たあと、四人は狭い階段を上がった。
踏み板が足の下できしみ、二階へ近づくにつれて、厨房の煮込みの匂いが薄れていく。
長い廊下の両側には、いくつか部屋が並んでいた。
開けてもらった部屋には木枠のベッドと小さな棚があり、窓から差す西日に、薄く積もった埃が浮かんで見えた。
「思ったより広いね」
恵が言っている間に、香織はもう隣の部屋を覗き込んでいた。
「私、ここがいい」
「勝手に決めない」
真理子が顔をしかめると、香織が振り返った。
「なんで?」
「まず掃除」
「ああ」
「絶対忘れてたでしょ」
「忘れてないよ」
「今思い出した顔だった」
真紀は窓辺に立ち、下の通りを見ていた。
開いた窓から車輪のきしむ音と、人の話し声が上がってくる。
「立地、やっぱ悪くない」
「まだ見てたの?」
真理子に聞かれても、真紀は通りに目を向けたままだった。
「見るでしょ」
「旅行中の人の目じゃないよね」
「もう旅行じゃないし」
その言葉に、四人は一瞬だけ黙った。
朝は旅行だった。それなのに今は、異世界の食堂の二階で、今夜寝る部屋を選んでいる。
香織が真紀の隣から外を覗いた。
「人生って分かんないねえ」
「あなたが言うと軽い」
「だって、重く言っても帰れないじゃん」
「まだ帰れないって決まったわけじゃないけど」
「でも、今夜は帰れないでしょ?」
「それはそう」
「じゃあ、寝る場所あるだけ勝ちじゃん」
香織はそう言って窓辺を離れ、また部屋を覗き込んだ。今度はベッドの端を手で押し、寝心地まで確かめている。
恵は笑った。本当に、この人は強い。
きっと本人は、そんなつもりで言っていないのだろうけれど。
*
夕食は老人が作ってくれた。
昼と同じ煮込み料理に、焼いた肉とパン、それから温かいスープ。
卓に置かれた皿から湯気が立ち、肉の焼けた香ばしい匂いが広がった。
恵は煮込みに匙を入れた。柔らかくなった具がほろりと崩れ、とろみのある汁が絡む。
「明日から、これ作るの?」
老人が頷いた。
「作り方は教える」
「ありがたい」
真紀は肉を一口食べ、皿に目を落とした。
「でも、少し変えるかも」
「もう?」
老人が目を丸くすると、真理子もパンをちぎる手を止めた。
「まだ一日も働いてないわよ」
「だって、気になるとこあるし」
「何が?」
「煮込みは美味しいけど、仕込みに時間かかりすぎ。あと、肉の切り方」
「そこまで見てたの?」
恵が尋ねると、真紀はあっさり頷いた。
「見てた」
老人が少し不安そうに、真紀の皿を見た。
「味、変えるのか?」
「味は変えない」
真紀が首を振ると、老人の眉間が緩んだ。
「美味しいものは変えないよ。変えるのは、作りやすくするところだけ」
恵は匙を動かしながら、ああ、この人らしいなと思った。
引き継ぐからといって、全部を自分のやり方に変えようとはしない。
残すものと変えるもの、その判断は昔から妙に早かった。
真理子が老人へ向き直った。
「あと、仕入れ値と売値を全部確認したいです」
「売値?」
老人が少し困った顔をした。
「この料理をいくらで出していて、材料にいくらかかってるか」
「ああ……細かくは分からん」
真理子の手が止まった。
「分からない?」
「その日その日で仕入れて、だいたいで」
真理子の顔から表情が消えた。香織がそっと恵に顔を寄せる。
「あ、怒るやつ?」
「たぶん」
恵も声を落として答えた。
真理子は匙を皿の脇に置き、静かに聞いた。
「帳面は?」
「あるよ」
「見せてください」
老人は椅子を引きながら、真理子を見た。
「今?」
「今です」
真紀が笑った。
「始まった」
「あなたは笑ってないで手伝って」
「はーい」
香織が恵を見る。
「私たちは?」
恵は食べ終わった皿へ目を向けた。
「片付けよっか」
「そうしよ」
残りの夕食を済ませると、四人は自然に動き始めた。
老人が持ってきた帳面を真理子が開き、真紀は横から数字を覗き込んで、食材の名前を確かめている。
やがて二人の話が仕込みの量に移ると、真紀は実際の在庫を見に厨房へ向かった。
香織は空いた皿を集め、客席の卓を拭いている。恵は運ばれてきた食器を受け取り、残った料理を老人に教わった容器へ移した。
誰かが指示したわけではない。
それぞれ、手を出せるところに手を出しているうちに、持ち場ができていた。
老人は店の真ん中に立ち、四人を見ていた。
「……本当にやるんだな」
恵は皿を重ねる手を止め、振り返った。
「やるみたいですね」
「お前さんも、他人事みたいに言うな」
「私もまだ実感ないので」
二人で笑うと、厨房から真紀の声が飛んできた。
「おじいさん、これも明日使う?」
老人は返事をしながら厨房へ向かった。恵も再び皿を持ち上げ、流しへ運んだ。
*
翌朝、恵は知らない天井を見て目を覚ました。
薄い掛け物の下で身じろぎすると、ベッドが小さくきしんだ。
窓の隙間から朝の冷たい空気が入り、頬に触れている。
一瞬、自分がどこにいるのか分からなかったが、隣の部屋から聞こえた声で、昨日のことが戻ってきた。
「ちょっと! これ誰の荷物!?」
真理子の声だった。
「私!」
続いて、香織の声がした。
「廊下に置くな!」
「あ、ごめん!」
恵はもう一度目を閉じた。いつも通りだ。場所だけがおかしい。
身支度をして一階へ降りると、厨房ではすでに鍋が火にかかっていた。
湯気とともに煮込みの匂いが漂い、真紀が老人の隣で鍋を覗き込んでいる。
「早いね」
恵が声をかけると、真紀は顔だけをこちらへ向けた。
「寝てられないじゃん」
「店開けるって決めたの、まだ昨日だよ?」
「決めたならやるでしょ」
恵が笑っていると、真理子と香織も降りてきた。
真理子は昨日の帳面を抱え、香織は髪をまとめながら欠伸をしている。
四人が揃ったところで、老人が尋ねた。
「今日はどうする?」
「店、開ける」
真紀が即答すると、真理子が止めた。
「待って」
「何?」
「一回、店の中を全部確認してから」
「今日中にできるでしょ」
「だから、その今日中に開けようとするな」
香織が片手を挙げた。
「私はどっちでもいいよ」
「一番困る回答」
「じゃあ、とりあえず午前中確認して、できそうなら開ける?」
真理子は少し考えて頷いた。
「それなら」
「じゃ、それで」
真紀も頷くと、老人が四人を見回した。
「……店をやるって、そんな軽いもんなのか?」
四人は顔を見合わせた。香織が笑う。
「重く考えたらできないですよ」
「軽く考えてるのは、この二人だけです」
真理子が続けると、香織が首を傾げた。
「誰と誰?」
「聞かなくても分かるでしょ」
恵は笑った。
異世界に来て、二日目。帰り方も分からないし、この世界の常識だって、ほとんど知らない。
それでも朝になればお腹は空くし、昨夜使った食器は、洗えばまた使える。
厨房には温かい鍋があり、料理を教えてくれる人がいる。客席も、住む部屋もある。
その先のことは、まだうまく想像できなかった。
けれど、目の前の卓を拭くことならできる。
恵は袖をまくった。
「じゃあ、掃除からやろっか」
その一言で、四人の最初の一日が始まった。




