第二の人生、行き先変更
「ねえ、このトンネル長くない?」
助手席からそう言ったのは、香織だった。
車内には控えめな音量で音楽が流れ、タイヤが舗装路を走る低い音が足元から伝わってくる。窓の外では、等間隔に並んだ照明が次々と後方へ流れていた。
「さっきも言った」
ハンドルを握った真紀が、前を見たまま答える。
「だって長いんだもん。こんな長かったっけ?」
「知らない。私も初めて通るし」
「ナビ合ってる?」
後部座席から真理子がスマートフォンを覗き込む。眼鏡の位置を指先で直し、画面に表示された経路を確かめた。
「合ってる。少なくとも、トンネルに入るまでは」
「その言い方やめて。怖いから」
恵は隣で笑った。
香織は昔から、思ったことをすぐ口にする。真理子はそれに律儀に答え、真紀は必要なことだけを返す。そんな三人のやり取りを聞いていると、恵は学生時代に戻ったような気分になった。
学生時代からの友人四人。
それぞれ結婚したり、仕事をしたり、子どもを産んだり育てたり。
人生の途中では何年もまともに会えない時期もあったが、不思議と関係だけは途切れなかった。
そして五十代になった今。
子どもたちも、すっかり大きくなった。
「やっと自分たちの時間ができたんだから、旅行くらい行こう」
そう言い出したのは香織だった。
娘三人、息子三人。
六人の子どもを育てながら仕事まで続けた女が言うと、妙な説得力があった。
「私なんて息子一人でも大変だったけどね」
真理子が言う。
「六人は数がおかしいのよ」
「でも育ったじゃん」
「結果論で子育てを語るな」
「それ、あなたが言う?」
香織が助手席から身をよじって振り返る。真理子は呆れたように目を細めたが、その口元には笑みが浮かんでいた。
わいわい話している間にも、トンネルは続いた。
恵は窓の外を見る。
コンクリートの壁。
一定間隔で流れていく照明。
代わり映えしない景色。
車窓に薄く映る自分の顔の向こうを、白い光が規則正しく通り過ぎていく。出口らしい明かりは、まだ見えなかった。
「本当に長いね」
「でしょ?」
香織が得意げに言った。
「なんであなたが得意げなの」
真理子が呆れる。
その時だった。
前方が急に明るくなった。
それまで続いていた薄暗い壁の先に、白く眩しい光が広がっている。
「やっと出口」
真紀がアクセルを少し緩める。
トンネルを抜けた。
四人とも、黙った。
道路がなかった。
正確には、車が走るような舗装された道路がなかった。
目の前に伸びているのは、踏み固められただけの土の道。
乾いた土の表面には車輪らしい跡が幾筋も残り、道の両側には膝丈ほどの草が風に揺れていた。
その向こうには広い草原。
さらに遠くには、石造りらしい建物が集まった町が見えた。
赤茶けた屋根や、細長い塔のような建物が、なだらかな丘の向こうに小さく並んでいる。見慣れた電柱も、道路標識もない。
恵が瞬きをする。
「……何これ」
「知らない」
真紀の返事はいつもどおり短かったが、ハンドルを握る指には少し力が入っていた。
「ナビは?」
真理子がスマートフォンを見る。
「圏外」
「私も」
香織も画面を確認する。
真紀は車を停め、バックミラーを見た。
「トンネルは?」
四人が振り返る。
ない。
今、出てきたはずのトンネルがない。
代わりにあるのは、岩肌と森だけだった。
灰色の岩壁にはところどころ苔が生え、木々の枝が覆いかぶさるように伸びている。車が通り抜けられそうな穴など、どこにも見当たらなかった。
香織が口を開く。
「……ドッキリ?」
真理子が即答した。
「誰がこの規模でやるのよ」
「じゃあ撮影?」
「だから誰が」
恵は車を降りた。
ドアを開けると、ひんやりした空気が車内へ流れ込んできた。靴底が地面に触れると、アスファルトとは違う、わずかに柔らかな土の感触がした。
草の匂いがした。
風も吹いている。
青々とした草の葉が擦れ合い、かすかな音を立てていた。頬に触れる風は思ったより涼しく、どこか湿った土の匂いも混じっている。
遠くでは、見たことのない形の鳥が空を横切った。
大きく広げた翼の先が細く反り、陽の光を受けた羽が一瞬だけ青く光った。
三人も続いて車を降りる。
香織は辺りを見渡し、真理子はスマートフォンをもう一度確認した。真紀は車の横に立ったまま、遠くの町へ視線を向けている。
しばらく誰も喋らなかった。
最初に口を開いたのは、真紀だった。
「とりあえず、町行く?」
「適応早すぎない?」
真理子が言った。
「だってここにいても何もなくない?」
「それはそうだけど」
「車どうする?」
香織が聞く。
四人は車を見る。
次に、土の道を見る。
道の中央には深い轍が残り、ところどころ小石が突き出していた。先へ進むほど地面の凹凸も大きくなっている。
真紀が言った。
「無理でしょ」
「置いてくの?」
「走れないじゃん」
「盗まれない?」
「盗める人がいたら逆に会ってみたい」
恵は笑ってしまった。
緊張で強張っていた頬が、思わず緩む。
ついさっきまで、旅行先で何を食べるか話していたはずなのに。
今は知らない草原で、車を捨てる相談をしている。
「……私たち、どうなったのかしらね」
真理子が辺りを見回した。
「少なくとも、日本ではなさそう」
「海外?」
「トンネル一本で?」
「じゃあ異世界?」
冗談のつもりだったのだろう。
けれど誰も笑わなかった。
風が吹き抜け、草原が波のように揺れた。遠くの町からは、鐘の音にも似た低い響きがかすかに聞こえてくる。
恵は少しだけ考えてから言った。
「まあ、町行ってみれば何か分かるんじゃない?」
真紀が頷いて
「そうしよ」
真理子はため息をついた。
「本当にあなたたち、こういう時だけ妙に雑よね」
「じゃあここで会議する?」
「しない」
「じゃ、行こ」
結局四人は、必要そうな荷物だけ持って町へ向かった。
車から離れる前に、恵は一度だけ振り返った。
草原の端に停まった車は、周囲の景色から妙に浮いて見えた。
本当に、どうしてこんなことになったのだろう。
答えはまだ何一つ分からなかった。
*
町の入口には、槍を持った男が二人立っていた。
石を積み上げた低い壁の間に、大きな木製の門が開いている。門柱には鉄の金具が打ちつけられ、長年使われてきたらしい傷がいくつも残っていた。
その向こうでは人や馬車が行き交っている。
車輪が石畳を叩く音と、人々の話し声が重なって聞こえた。荷物を積んだ馬車がゆっくり通り過ぎ、革製の鞄を肩に掛けた男がその脇を歩いていく。
服装も、建物も、日本とはまるで違う。
四人が近づくと、一人の男が手を上げた。
「止まれ。どこから来た?」
四人の足が止まる。
恵は思わず三人を見る。
今の言葉が、分かった。
何の違和感もなく。
男の口から聞こえたのは、初めて耳にするはずの言葉だった。それなのに、意味だけは最初から知っていたかのように頭に入ってくる。
香織が一歩前へ出た。
「少し遠いところからです。この町は初めてなんですけど」
男は四人を順番に見る。
「旅人か?」
「まあ、そんな感じです」
「何の用で来た?」
「それが、まだ決めてなくて」
香織は困ったように笑った。
「まずはご飯ですね。朝からほとんど食べてないんですよ」
「……目的もなく来たのか?」
「そう言われると怪しいですね」
香織が笑う。
男も少しだけ眉を動かした。
「身分を証明するものは?」
恵は内心で固まった。
そんなもの、あるはずがない。
日本の免許証なら持っている。けれど、ここで見せたところで説明できる自信はなかった。
けれど香織は、ほとんど間を置かなかった。
「ああ、それってこの町ではどこで作れるんです?」
「持っていないのか?」
「この辺りでは皆さん持ってるんですね。旅人でも必要ですか?」
質問したはずの男が、一瞬黙る。
「……長く滞在するなら、あった方がいい」
「なるほど。じゃあ後で教えてもらえます?」
「中央の詰所で聞けばいい」
「ありがとうございます。助かります」
香織はにこりと笑った。
目尻を柔らかく下げたその表情は、初対面の相手にも遠慮を感じさせない。門番の男も、先ほどより少し肩の力が抜けたようだった。
そして間髪入れずに続ける。
「あと、この辺りで装飾品を買い取ってくれるところってあります?」
「装飾品?」
「ちょっと手持ちが心許なくて」
「市場の西側にある」
「市場ですね。じゃあ、ご飯食べるなら?」
「飯?」
「せっかく初めて来た町なんで、美味しいところがいいじゃないですか」
いつの間にか、男が質問される側になっていた。
もう一人の門番まで会話に加わる。
「大通りの外れに昔からある食堂がある。今は客も減ったが、味は悪くない」
「へえ、いいですね」
香織の顔が明るくなる。
「そこ行ってみます。ありがとうございます」
そのまま自然に話を終わらせ、四人は門を通った。
少し歩いたところで、真理子が言った。
「……あなた、結局どこから来たか答えてないわよね」
香織が振り返る。
「聞かれたよ?」
「聞かれたことは知ってる。答えてないって言ってるの」
「遠いところって言ったじゃん」
「具体的には?」
「遠いところ」
「何も答えてないのよ」
真紀が口の端を上げた。
「でも入れた」
「結果だけ見ればね」
恵も笑う。
香織は不思議そうな顔をしていた。
「普通に話しただけだけど?」
三人は何も言わなかった。
たぶん本人だけが、本気でそう思っている。
少しして、香織が手を叩いた。
「あ、じゃあ先にアクセサリー売りに行こ」
恵が首を傾げる。
「先に?」
「だってお金ないじゃん。門番さん、市場の西側って言ってたでしょ?」
四人はそれぞれ財布を確認した。
日本円。
カード。
スマートフォン。
どれも、この町で使えるとは思えない。
恵は自分の耳に触れた。
小さなピアス。
首元には細いネックレス。
「こういうの、ちゃんと売れるかな」
香織が自分のブレスレットを持ち上げる。
「金属なら世界変わっても金属でしょ。たぶん」
「全部売るのはなし」
真理子がすぐに言った。
「まだ何も言ってないけど」
「あなたたち、絶対勢いで全部出すから」
真紀が笑う。
「分かってるじゃん」
「非常用は残す。今必要な分だけ」
「はいはい」
こうして四人は、まず市場の西側へ向かうことにした。
*
町の中は、思っていたよりずっと賑やかだった。
石畳の通りには大小さまざまな建物が並び、木枠の窓から色とりどりの布が垂れている。壁に使われた石は建物ごとに色合いが違い、白っぽいものもあれば、赤茶けたものもあった。
市場には野菜や肉らしいものが並び、人々が声を掛け合っている。
木箱に積まれた葉物野菜は見慣れたものに似ていたが、形の違う根菜も混じっていた。店先では肉を切り分ける包丁の音が響き、焼き物を売る屋台からは香ばしい煙が立ち上っている。
武器を背負った人もいる。
荷車を引く人もいる。
すれ違う人々の靴音に混じって、金属が触れ合う乾いた音が聞こえた。
装飾品を扱う店は、門番に教えられた通り、市場の西側にあった。
小さな店先には指輪や首飾りが並べられ、奥の棚には磨かれた金属製の器も置かれている。
恵のピアス。
真紀のネックレス。
香織のブレスレット。
まずはそれだけを出した。
店の男は、四人の装飾品を何度も角度を変えて眺めた。
窓から差し込む光にかざし、留め具を指先で確かめる。ときおり眉を上げながら、細かな部分をじっと観察していた。
どうやら加工が珍しいらしい。
少なくとも、食事と当面の生活には困らない程度の金にはなった。
もっとも、それが高く売れたのか安く買われたのかは、まだ誰にも分からない。
店を出てすぐ、香織が振り返った。
「あの人いい人だったね」
真理子が眉を寄せる。
「なんで十数分で奥さんの話まで知ってるの」
「話してたらそうなった」
「ならないのよ、普通」
「娘さん、来月結婚するんだって」
「聞いてない」
真紀が吹き出した。
「もう知り合い作ってる」
恵も口元を緩めた。
香織は昔からこうだった。
スーパーで隣に並んだ人とも話す。
旅行先の店員とも仲良くなる。
仕事相手なら、なおさらだった。
本人はそれを特技だと思っていない。
恵からすれば、到底真似できないことなのに。
「とりあえず、お金できたし、ご飯食べよう」
「賛成」
*
四人が向かったのは、門番に教えられた食堂だった。
大通りから少し外れた場所。
賑やかな市場から離れるにつれ、行き交う人の数は減り、通りには落ち着いた静けさが戻っていた。
古びてはいるが、昔はきっと賑わっていたのだろうと思わせる店構えだった。
石造りの壁には年月を感じさせる色むらがあり、木製の扉には何度も塗り直したらしい跡が残っている。軒先に吊るされた看板は少し色褪せていたが、丁寧に手入れされているようだった。
入口に近づくと、煮込んだ肉の香りがする。
焼ける肉の香ばしさも混じっていた。
空腹だった恵は、思わずお腹に手を当てた。
真紀が足を止める。
「ここ」
真理子が見る。
「まだ中見てないけど」
「匂いがいい」
「それだけ?」
「それ大事じゃん」
扉を開ける。
木製の扉は少し重く、蝶番が小さく軋んだ。
中は思っていたより広かった。
いくつものテーブルが並んでいる。
長年使われてきたらしい木の天板には、細かな傷がいくつも刻まれていた。椅子の背もたれは角が丸くなり、床板には人が歩き続けたことで生まれた艶がある。
壁には古い棚が取りつけられ、素朴な陶器の器が並んでいた。窓から入る午後の光が、店内の埃をわずかに浮かび上がらせている。
けれど、座っている客はわずかだった。
武器や防具を身につけた若い男たちが数人。
恵は店内を見回した。
広さのわりに静かだ。
「昔は混んでたのかな」
小声で言う。
「たぶん」
真紀は、入った瞬間から店内を見ていた。
床、壁、テーブルの配置。
厨房への入口。
客席と厨房を行き来する動線まで確かめるように、視線がゆっくり動いている。
恵には分かる、また始まった。
この友人は、飲食店に入ると完全な客ではいられない。
「いらっしゃい」
奥から声がした。
出てきたのは、小柄な老人だった。
かなり細い。
歩く速度もゆっくりだ。
白くなった髪はきちんと整えられ、袖をまくった腕には深い皺が刻まれている。腰は少し曲がっていたが、客を迎える姿勢にはどこか品の良さが残っていた。
「好きなところへどうぞ」
四人は近くのテーブルについた。
椅子を引くと、木の脚が床を擦る音がした。恵は手のひらで天板に触れ、長く使い込まれた木の滑らかな感触を確かめた。
品書きを見ると数は多くない。
焼いた肉。
肉と野菜の煮込み。
パン。
スープ。
簡単な副菜。
「いいじゃん」
真紀が言うと真理子が顔を上げる。
「何が?」
「メニュー」
「食べる前から?」
「多すぎない」
「あなた今、客じゃなくなってるでしょ」
「半分くらい」
真紀は悪びれもせずに口元を緩めた。
恵は煮込み料理を頼んだ。
三人もそれぞれ注文する。
料理が出てくるまでには、少し時間がかかった。
老人が一人で作っているのだから当然だった。
厨房の奥からは包丁がまな板に当たる音や、鍋の蓋が触れ合う音が聞こえてくる。やがて肉を焼く香りが強まり、空腹を刺激した。
しばらくして恵の前に、深い皿が置かれる。
厚みのある陶器の皿は、手を近づけるだけで温かさが伝わってきた。
濃い色の煮汁。
大きめに切られた赤身の肉。
表面には細かな油の粒が浮かび、煮込まれた野菜は角が柔らかく崩れている。
香りは、恵の知るビーフシチューによく似ていた。
一口食べる。
口に入れた肉は思ったより柔らかく、噛むほどに旨みが広がった。煮汁には肉と野菜の味が溶け込み、素朴ながらも奥行きがある。
「……美味しい」
思わず声が出た。
派手ではない。
けれど、ちゃんと美味しい。
時間をかけて煮込んだことが分かる味だった。
香織も焼いた肉を頬張って頷く。
「おいしい」
真理子も何も言わず食べ進めている。
真紀だけは、料理を食べながら時々厨房を見ていた。
恵が聞く。
「何見てるの?」
「別に」
絶対に何か見ている顔だった。
食事の終わり頃。
老人が近くの席へ腰を下ろした。
椅子に手を添え、ゆっくりと体を下ろす。座り終えると小さく息をつき、四人の方へ穏やかな目を向けた。
客も少なく、少し話したくなったらしい。
香織がすぐに話しかける。
「これ、昔から作ってるんですか?」
「そうだねえ。もう三十年以上になるか」
「すごい」
「昔はもっと客も来たんだがな」
老人は店内を見回した。
窓際の空いたテーブルに目を留め、懐かしむように目を細める。
「さすがに、この歳になると一人じゃ無理でね」
恵は老人を見る。
確かに、料理を運ぶだけでも少し辛そうだった。
「誰か手伝ってくれる人はいないんですか?」
「いないよ。身内も遠くへ行ったしな」
老人は力なく笑う。
「もう店を畳もうと思ってる」
四人が少し黙った。
恵は、もったいないなと思った。
料理は美味しい。
店も広い。
きっと昔は、ここにたくさんの人がいたのだろう。
傷の残るテーブルも、磨り減った床板も、長い年月の中で多くの客を迎えてきた証のように見えた。
その時だった、真紀が言った。
「じゃあ、私たちやっていい?」
恵は驚いて真紀を見る。
真理子は落ち着いてはいたものの動揺した目線で真紀を見つめた。
香織は一瞬遅れて笑った。
老人だけが、ぽかんとしていた。
「……何を?」
「この店」
「は?」
「畳むんでしょ?」
「まあ……そうだが」
「じゃあ私たちがやる」
真理子が額を押さえた。
眉間に深い皺が寄り、言葉を選ぶように一度口を閉じる。
「ちょっと待って」
「何?」
「こっち来て何時間よ」
「知らない」
「知らないじゃなくて」
香織は楽しそうに笑っている。
「いいじゃん」
「あなたは乗らないで」
「でも仕事ないよ?」
「そういう問題では」
恵は真紀を見ると冗談を言っている顔ではなかった。
昔からそうだった。
何かを決める時、この友人は妙に早い。
考えていないように見えるほど早い。
けれど大抵、当たる。
真紀はもう一度店内を見回していた。表情は落ち着いているが、その目は何かを確かめるように動いている。
「……できそうなの?」
恵が聞いた。
真紀は、店内をもう一度見回した。
「できると思う」
真理子が聞く。
「根拠は?」
「厨房ちゃんとしてる。店も広い。料理も美味しい。昔は客いた。今暇なのは、店が悪いっていうより、おじいちゃん一人で回せなくなったからでしょ」
老人が目を丸くした。
真紀は続ける。
「それに私たち、仕事ないし」
真理子が呆れた。
「最後だけ急に雑」
香織が手を挙げる。
「私、接客できるよ」
「それは知ってる」
「市場の人とももう仲良くなったし」
「それも知ってる。早すぎるだけで」
恵は三人を見る。
それから、自分の前にある空になった皿を見た。
皿の底には煮汁がほんの少し残り、まだ温かさが感じられた。
「……じゃあ私は、ご飯作ればいい?」
真紀が笑う。
「そういうこと」
老人は四人を見回した。
「お前さんたち……いったい何者なんだ?」
四人は顔を見合わせる。
誰からともなく笑った。
恵が答える。
「普通のおばさんです」
老人の顔には明らかに、
――普通ではないだろう。
と書いてあった。
その日の昼。
知らない世界へ来て、まだ数時間。
四人は食堂を始めることになった。
計画はない。
チートスキルもない。
帰り方も分からない。
あるのは、それぞれが五十年以上生きてきた中で身につけた、本人たちにとっては大したことのない経験だけ。
後になって四人は、この日のことを何度も話すことになる。
どうして、知らない世界へ来たその日のうちに店を引き継ごうと思ったのか。
そのたびに真紀は、同じことを言った。
「だって、できそうだったから」
そして真理子は、そのたびに同じ顔で言う。
「その勘で人生決めるの、いい加減やめてくれない?」
――もっとも。
その勘が外れることは、ほとんどなかった。




