常連だからって、何でもいいわけじゃない
カイルとその後輩が一緒に店へ来るようになって、少し空気が変わった。
今までカイルは、完全に四人の息子枠だった。
店に来れば腹が減ったと騒ぎ、時には荷物運びや薪運びを頼まれることも珍しくない。
でも、後輩と一緒にいると少しだけ先輩の顔をする。
「先食べていいぞ」
「いや、先輩からどうぞ」
「いいから」
「じゃあ、いただきます」
香織がそのやり取りを見て、小声で言った。
「成長したねえ」
真理子がすぐに返す。
「母親みたい」
「もう半分母親でしょ」
香織が言うと、カイルが遠くから声を上げた。
「聞こえてます!」
恵が笑うと、後輩までつられて笑っていた。
*
一方、店にはまた別の問題が出始めていた。
原因は常連客だった。
最初は小さなことだった。
「いつもの席、空いてる?」
一人の男が入り口から店内を覗き込んだ。
「今日は埋まってるよ」
香織が答えると、男は少し不満そうな顔をした。
「空けといてくれればいいのに」
「予約じゃないからね」
「俺、昔から来てるじゃん」
恵は厨房からその会話を聞いていた。
老人が店を切り盛りしていた頃から通っている、かなり古い常連だった。
香織もそのことはよく知っている。
「空いたら案内するね」
「まあ、いいけど」
男は別の席に座った。
その日は、それだけで終わった。
*
次は別の常連だった。
「パン、もう一個」
セラが少し迷う。
「追加になりますけど、よろしいですか?」
男が笑った。
「昔は一個くらい、おまけしてくれたのにな」
その日、様子を見に来ていた老人が、窓際の席で顔を上げた。
セラは困ったように笑う。
「今は追加料金をいただいているんです」
「一個くらいいいじゃん」
「でも……」
香織が間に入った。
「ごめんね。今は追加分をいただくようにしてるんだ」
男が少し口を尖らせる。
「固くなったなあ」
真理子が帳面から顔を上げた。
恵は嫌な予感がしたが、香織は笑顔のまま注文を確認していた。
結局、男は追加のパンを頼まず、残っていた料理を食べ終えて帰っていった。
*
老人が静かに言った。
「ワシが悪いな」
真理子が顔を向ける。
「何がですか?」
「昔は腹を空かせた若いのには、適当に足してやっとった。常連にもな」
「知ってます」
「それが当たり前になっとったのかもしれん」
真理子は少し考えた。
「でも、それ自体が悪かったわけじゃないと思いますよ」
老人が少し驚く。
「そうなのか?」
「老人さんが自分で決めて、自分の店でやってたことですから」
恵にも、その意味は分かった。
老人が一人で店を切り盛りしていた頃には、老人なりのやり方があった。
腹を空かせた若者にパンを一つ多く渡すことも、長く通う客に少し融通を利かせることも、きっとこの店の日常だったのだろう。
それを否定したいわけではない。
ただ、今は店の形が違っていた。
働く人が増え、客も増えた。
誰に何を提供したのか、どれだけ食材を使ったのかも、きちんと把握する必要がある。
「昔は昔で、いい店だったんだと思う」
恵が言うと、老人は少し照れくさそうに笑った。
「今もいい店じゃよ」
香織が嬉しそうに振り返る。
「それはありがとう」
*
問題がはっきりしたのは、数日後だった。
昼の店はかなり混んでいた。
厨房からは肉の焼ける音が響き、料理の香りが客席まで流れている。食器が触れ合う音に注文の声が重なり、店内はいつも以上に賑やかだった。
セラとニナが客席を回り、香織が注文を取る。
恵は厨房で料理を作り、真紀が全体を見ていた。
そのとき、古い常連の一人が入り口から入ってきた。
「いつもの」
先日、席を空けておいてほしいと言っていた男だった。
香織が店内を見渡す。
「今日はちょっと待つよ」
男も中を覗き込んだ。
「席ないじゃん」
「うん。もう少ししたら空くと思うけど」
「じゃあ、あそこ」
男が指したのは、二人組の旅人が座っている席だった。
香織が少し表情を変える。
「そこは今、使ってるから」
「もう食べ終わってるだろ」
旅人二人が気まずそうに顔を上げた。
確かに皿は空になっているが、二人はまだ飲み物を手に話していた。
「ちょっと詰めてもらえばいいじゃん」
旅人の一人が腰を浮かせた。
「すみません、僕たち……」
香織がすぐに首を振った。
「大丈夫ですよ。まだゆっくりしていってください」
そして常連に向き直る。
「席が空いたらすぐ案内するから、少し待ってもらえる?」
男は納得できない様子だった。
「俺はずっとこの店に来てるんだぞ」
*
そこへ真紀が近づいた。
「長く来てくれてるのはありがたいよ」
男が真紀を見る。
「だったらさ」
「でも、今のお客さんにもゆっくりしてもらいたいから。席が空くまでは待ってもらえる?」
真紀の声は落ち着いていた。
男は少し眉を寄せる。
「昔はこんなこと言われなかったぞ」
「そうかもしれないね」
真紀は一度頷いた。
「でも、今はお客さんも増えたから。先に座ってる人に席を譲ってもらうことはできないんだ」
男はしばらく黙っていた。
恵は厨房からその様子を見守っていた。
真紀の言っていることは正しい。
けれど、男が昔の店を懐かしく思う気持ちも、少し分かる気がした。
老人が一人で営んでいた頃には、客同士も顔見知りで、席を譲り合うことが当たり前だったのかもしれない。
ただ、今座っている旅人たちに、それを求めることはできない。
「……そうか」
男が小さく言った。
香織が少し柔らかく続ける。
「空いたらすぐ呼ぶから」
男は「分かった」とだけ答え、外で待つことにした。
扉が閉まると、店内に残っていたわずかな緊張も少しずつ薄れていった。
旅人二人はまだ気まずそうだった。
香織が笑って声をかける。
「気にしなくて大丈夫ですよ」
二人はほっとしたように顔を見合わせ、再び飲み物に手を伸ばした。
*
閉店後、四人は老人も交えて話をした。
セラとニナもまだ残っている。
客のいなくなった食堂には、片付けを終えた食器が整然と並び、昼間の賑わいが嘘のように静けさが戻っていた。
「これ、増えるかもね」
香織が言うと、真理子が頷く。
「増えると思う」
恵が聞いた。
「常連が?」
「常連だから融通してもらえる、っていう考え方」
真紀が腕を組む。
「昔から来てるからって、何でもありになるのは嫌だね」
老人が少し申し訳なさそうに言った。
「ワシが甘やかしたか」
恵は首を振る。
「違うと思う」
老人が顔を上げる。
「老人さんのときは、それで回ってたんでしょ?」
「ああ」
「なら、それはそのときの店のやり方だよ」
恵は少し考えながら続けた。
「今は人も増えたし、お客さんも増えた。同じようにはできないってだけだと思う」
老人はゆっくり頷いた。
「そうかもしれんな」
*
「常連だからって、席や順番を優先したり、無料で追加したりするのはなし」
真理子が言うと、香織が尋ねた。
「誕生日とかのお祝いは?」
「それは別。お祝いするのと、店のルールを曲げるのは違う」
「なるほどね」
真紀も頷いた。
「席取りしない。順番変えない。追加はちゃんと料金をもらう」
「ツケもしない」
真理子が付け加える。
恵が少し笑った。
「厳しいね」
「後で揉めるよりいいでしょ」
「それはそう」
セラが少し考えてから口を開いた。
「でも、常連さんって大事ですよね」
真理子が頷く。
「大事だよ」
「じゃあ、どうやって大事にするんです?」
その質問に、四人は少しだけ顔を見合わせた。
*
香織が最初に答えた。
「覚えることかな」
セラが首を傾げる。
「何をですか?」
「顔とか、好きなものとか。いつも何を頼むとか、最近仕事どうだったとか」
恵も頷いた。
「体調が悪そうだったら、無理にいつもの料理を勧めないとかね」
真紀が続ける。
「好きな席が空いてたら、そこに案内するとか」
「でも、他のお客さんを不公平に扱わない範囲でね」
真理子が言うと、香織が笑った。
「そこは譲らないんだ」
「大事だから」
セラは少し納得した顔をした。
「特別扱いするんじゃなくて、覚えてるってことですか」
恵は思わず声を上げた。
「ああ、それいいね」
香織も頷く。
「そうそう。常連さんだから何でもしてあげるんじゃなくて、いつも来てくれてることをちゃんと覚えてるってこと」
老人が静かに笑った。
「ワシも、そんなつもりじゃったんだがな」
真紀が老人を見る。
「ちゃんと伝わってる人も多いと思うよ」
老人は少し照れたように笑い、手元のお茶を飲んだ。
*
翌日、昨日の常連がまた来た。
恵は少し驚いた。
しばらく来ないかもしれないと思っていたからだ。
香織がいつも通り声をかける。
「おはよう」
男は少し気まずそうに答えた。
「おう」
今日は男がよく座っている席が空いていた。
香織がそこを指す。
「いつものところ、空いてるよ」
男が少しだけ顔を上げる。
「……いいのか?」
香織が笑う。
「空いてるからね」
男は小さく笑った。
「じゃあ、そこ」
恵も少しだけ安心した。
*
料理を出す。
いつもの焼いた肉、パン、スープ。
焼き目のついた肉からは香ばしい匂いが立ち、湯気の上がるスープが添えられている。
男は少し食べてから、近くにいた老人に声をかけた。
「店、変わったな」
老人が答える。
「変わったな」
男が恵たちを見る。
「昔より固い」
真理子が少し反応した。
けれど、老人が先に笑った。
「昔のワシが適当すぎた」
男も少し笑った。
「それはそう」
恵は料理を運びながら、その会話を聞いていた。
男はもう一口肉を食べる。
「まあ、料理は相変わらずうまいけどな」
「それはよかった」
老人が嬉しそうに答える。
男はそれ以上、店のやり方について何も言わなかった。
納得したのかどうかは分からない。
それでも、今日もこうして食事をしに来てくれた。
恵はそれだけで、少し嬉しくなった。
*
午後、掲示板の前でカイルが後輩と話していた。
掲示板には新しい依頼がいくつか貼られ、紙の端が人の行き来で生まれる風に小さく揺れている。
「これ、お前が中心になってやってみたら?」
後輩が紙を見る。
「俺がですか?」
「うん。段取りも自分で考えてみろ」
「先輩は?」
「一緒に行くけど、今回はなるべく口出さないようにする」
後輩が少し疑わしそうな顔をした。
「本当ですか?」
カイルが眉を寄せる。
「……危なかったら止める」
「それはお願いします」
後輩が真面目な顔で頷いた。
恵は離れたところからその様子を見て、思わず笑った。
カイルがこちらを見る。
「何ですか」
「何でもないよ」
「絶対何かありますよね」
「ないない」
カイルは不満そうだったが、後輩は楽しそうに掲示板を眺めていた。
*
恵は店内を見渡した。
昔から通う常連がいて、初めて訪れる旅人がいる。セラとニナが客席を行き来し、掲示板の前ではカイルたちが次の仕事について話していた。
老人が一人で守ってきた店は、今ではずいぶん賑やかになった。
それぞれに、この店への思いがあるのだろう。
けれど、誰か一人のためだけの店にはしたくない。
そのとき、入り口の扉が開いた。
旅装の若い二人組が、少し遠慮がちに店内を覗き込む。
恵は自然と笑顔になった。
「いらっしゃいませ」
恵の声に、香織も顔を上げた。
「お好きな席へどうぞ」
初めて訪れた二人は、ほっとしたように笑って店の中へ入ってきた。
恵はその姿を見ながら、老人が一人で守ってきた頃の店を思った。
昔から通ってくれる人がいるのは、ありがたいことだ。その人たちが積み重ねてきた時間も、老人との思い出も、大切にしたい。
けれど、これから初めて訪れる人にとっても、同じように居心地のいい場所であってほしい。
店の形が変われば、守るべきものも少しずつ変わっていく。
昔の良さを残すことと、新しいやり方を取り入れることは、きっと両立できる。
誰か一人だけの特別な場所ではなく、訪れる誰もが大切にされる場所。
恵は、これからもそんな店を四人で作っていきたいと思った。




