正しいことを言っても、伝わるとは限らない
ニナの予約ミスから数日。
店はまた、いつもの調子に戻っていた。
新しく作った予約用紙も、思ったよりちゃんと機能している。
「明後日、八人」
香織が紙を持ってくると、セラが受け取った。
「日付、時間、人数」
ニナも隣から用紙を覗き込む。
「確認しました。厨房に渡します」
「はい」
恵が受け取って内容を確認し、所定の欄に印をつける。
真理子が少し離れたところから、その様子を見ていた。
「ちゃんとしてる」
香織が言うと、真理子が答える。
「最初からこうしてればよかった」
真紀が口を挟んだ。
「失敗したからできたんでしょ」
「失敗しなくてもできた」
「後からなら何とでも言える」
「最初に私が言ったら、絶対細かいって言ったでしょ」
真紀が少し考える。
「言うね」
香織が吹き出した。
「そこは否定しないんだ」
「実際、言うと思うから」
真理子は呆れた顔で帳面に視線を戻した。
*
セラも少しずつ、ニナへの接し方が変わっていた。
以前は何をするにも横について見ていたが、今は「そこお願い」と伝えたあと、少し離れるようになった。
ニナが自分で判断する時間を作っているのだ。
水差しの残量を確かめ、客席を見渡し、次に何をするか考える。セラはその様子を見守り、間違いそうになったときだけ声をかけていた。
恵はそれを見て感心していた。
「上手になったね」
セラが振り返る。
「何がです?」
「教えるの」
「まだ全然です」
「でも前より見てない」
セラが少し笑った。
「見ないようにしてます」
「なんで?」
「見てると全部言いたくなるから」
香織が近くで聞いていた。
「分かる」
「あなたは言う前に手を出すでしょ」
真理子が言うと、香織が振り返った。
「私?」
「人の会話にもすぐ入るし」
「それは違うじゃん」
「似たようなものでしょ」
「違うって!」
恵が笑うと、セラもつられて笑った。
*
その日の夕方、カイルが店に来た。
恵は一目で何かあったと分かった。
いつもなら扉を開けるなり「腹減った」とか「今日は疲れた」とか、何かしら声を上げる。
今日は無言だった。
いつもの席に腰を下ろし、肩から下げていた荷物を足元に置く。
香織が近づいた。
「いつもの?」
「はい」
それだけだった。
恵は煮込みを用意した。
大盛りにして、パンも少しだけ多く添える。温かい煮込みからは湯気が立ち、肉と野菜の香りが厨房に広がった。
真理子が見る。
「それ追加?」
恵が小声で言う。
「今日はいいじゃん」
真理子はカイルを見る。
そして何も言わなかった。
*
カイルは黙って食べた。
いつもよりずっと遅かった。
パンをちぎって煮込みにつけ、しばらく皿を見つめてから口へ運ぶ。
恵は厨房から何度も気になって見てしまう。
セラも気づいているようだった。
ニナだけは、まだいつもの常連だと思っているらしい。
「お水足しますか?」
カイルが少し驚いて顔を上げた。
「お願いします」
ニナが水を足す。
「ありがとうございます」
カイルが答えると、恵は少しだけ安心した。
普通に返事はする。
でも、やっぱりいつもと違う。
*
閉店が近づいた頃、客が減った。
店内に残る客もまばらになり、外から差し込む夕方の光がテーブルの端を照らしている。
カイルはまだ座っていた。
真理子が帳面を閉じる。
香織はもう、聞きたくて仕方ない顔をしていた。
恵が先に言った。
「今日は話す?」
カイルが少し笑った。
「顔に出てました?」
香織が即答する。
「めちゃくちゃ」
真理子が言う。
「香織は黙って」
「まだ何も言ってない」
真紀が椅子を持ってくる。
セラも片付けをしながら、少し離れたところで耳を傾けていた。
カイルは一度、大きく息を吐いた。
「やらかしました」
恵が聞く。
「怪我?」
「ないです」
四人の空気が少しだけ緩む。
「じゃあ何?」
真紀が聞くと、カイルはしばらく黙ってから答えた。
「後輩と喧嘩しました」
*
香織が少し意外そうにする。
「前に、勝手に飛び出した子?」
「はい」
恵は以前、カイルが後輩を叱ったときの話を思い出した。危険を顧みず前へ出てしまった、あの新人だ。
「また何かした?」
カイルは首を振る。
「今回はしてないです」
真理子が聞く。
「じゃあ何で喧嘩?」
「俺が言いすぎました」
香織が少し笑う。
「前も言ってたね」
「今回は本当に」
カイルは頭を抱える。
「もう一緒に仕事したくないって言われました」
四人が少し黙った。
*
話を聞くと、その日は三人で町の外の依頼へ出たらしい。
カイルと、以前勝手に前へ出た後輩、それからもう一人の経験の浅い冒険者。
仕事自体はそれほど難しくなかった。
だからカイルは、少し任せてみることにした。
以前のように勝手に前へ出ることはなかった。むしろ、後輩は何かをする前に必ず周囲を確認するようになっていた。
「自分で考えて動けって言ったんです」
真紀が頷く。
「うん」
「そしたら」
カイルは少し嫌そうな顔をする。
「遅くて」
「何が?」
「判断が」
「危なかった?」
「いや」
「じゃあ?」
カイルは言葉を止めた。
「……俺なら、もっと早い」
真理子が少しだけ眉を上げた。
*
道を選ぶ。
周囲を確認する。
危険がないか見る。
役割を決める。
後輩たちは一つずつ考え、話し合い、確認していた。
そのたびに、カイルには遅く見えた。
「で」
香織が聞く。
「口出した?」
「しました」
「どのくらい?」
カイルが目を逸らす。
「結構」
真理子が言う。
「任せてないじゃん」
カイルが嫌そうな顔をする。
「分かってますよ」
真紀が少し笑った。
「今ならね」
カイルはさらに嫌そうな顔になった。
*
最初は「そこじゃない」だった。
次に「周り見ろ」「先に確認しろ」「なんでそっち行くんだ」「それじゃ遅い」。
後輩たちが何かを決めるたび、カイルは口を出してしまったらしい。
そして最後に、後輩が言った。
『だったら全部自分でやればいいじゃないですか』
香織が少し顔をしかめる。
「それは刺さるね」
カイルが机に伏せる。
「刺さりました」
「何て返したの?」
恵が聞くと、カイルはしばらく言わなかった。
四人が待つ。
香織がじっと見ると、カイルが観念した。
「……それができるならやってるって」
真紀が吹き出すと、カイルが顔を上げる。
「笑わないでください!」
「ごめん」
全然ごめんと思っていない顔だった。
*
「何を教えたかったの?」
真理子が聞くと、カイルが少し考える。
「自分で判断すること」
「で、自分で判断したら?」
「遅かった」
「間違ってた?」
カイルが黙る。
真理子がもう一度聞く。
「間違ってた?」
「……全部じゃないです」
「危険だった?」
「そこまでじゃない」
「じゃあ、遅いこと自体が問題だったわけじゃないんじゃない?」
カイルが何も言えなくなる。
恵は少しだけ胸が痛くなった。
正論だ。
でも、今のこの子にはかなり刺さる。
香織が真理子を見る。
「ちょっと優しく」
「これでも優しい」
カイルが小さく言った。
「大丈夫です」
*
真紀がカイルを見る。
「あなたさ」
「はい」
「一人でやるの得意なんじゃない?」
カイルが少し考える。
「まあ」
「だから、人が自分より遅いの待てないんじゃない?」
カイルは黙った。
「私もある」
真理子がすぐに反応した。
「あるね」
真紀が少し嫌そうにする。
「即答しないで」
「事実だから」
香織が笑うと、恵も少し笑った。
真紀は続ける。
「私も店で、見えたら先にやっちゃうから」
セラが少し離れたところから小さく頷いていた。
たぶん何度も見ている。
真紀はセラに目を向けた。
「セラが入って、今度はニナも入って。人が増えたら、全部自分でやってちゃ駄目なんだよね」
真紀は少し笑った。
「自分でやった方が早いことなんて、いっぱいあるけどさ。でも、それやってたらずっと自分しかできない」
*
セラが思わず口を開いた。
「それ、分かります」
四人が見ると、セラは少し迷ってからカイルを見た。
「私も最近思いました。教えるの、最初すごく遅く感じるんです」
「はい」
「自分でやったらすぐ終わるのに」
「……分かります」
セラは少し笑う。
「でも、自分でやったらニナはずっとできないんですよね」
カイルが黙った。
恵は少し不思議だった。
セラはまだ教える側になったばかり。
でも、だからこそ今のカイルに一番近いのかもしれない。
同じように戸惑い、同じように自分の仕事との違いを感じている。
経験の長さではなく、今まさに経験していることだから伝わる言葉もあるのだろう。
*
「その後輩、何ができないの?」
香織が聞くと、カイルは考える。
「経験が少ない」
「それはできないこと?」
「いや」
「じゃあ何が苦手?」
カイルは少しずつ答える。
「判断が遅いし、周りを見るのも遅い」
そこでカイルが言葉を止めた。
「でも、危ないところには気づくんです」
香織が頷く。
「じゃあ悪くないじゃん」
「ただ遅い」
「あなたと比べて?」
「……はい」
香織が少しだけ笑った。
「自分と同じ速度求めてたんだ」
カイルはもう、完全に否定できない顔になっていた。
*
恵は少し考える。
自分も昔、子どもに何度も思った。
自分でやった方が早い。
洗濯物、片付け、料理、出かける前の準備。
待っていると時間がかかる。
雑になることもあるし、やり直したくなることもある。
でも、全部やってしまえばその日は早い。
その代わり、次の日も、その次の日も、また自分がやることになる。
「待つのって」
恵が言うと、カイルが見る。
「結構、仕事なんだよね」
「仕事?」
「うん。何もしないで待ってるように見えるけど、本当は口出したいのを我慢してるから」
香織が笑った。
「それ分かる」
「六人いたら待ってられない時もいっぱいあったでしょ」
「いっぱいあったよ」
*
カイルが静かに言った。
「でも、本当に間違えそうな時は?」
恵はすぐには答えなかった。
「止める」
真紀が答えると、カイルが見る。
「どこまで?」
「危ないなら止める」
「危なくないなら?」
「やらせる」
「失敗しそうでも?」
真紀は少し考えた。
「取り返せるなら」
真理子が口を開いた。
「失敗の大きさを決めておけばいいんじゃない?」
カイルが首を傾げる。
「大きさ?」
「ここまでは任せる。ここからは確認する。これ以上は危険だから止める。そういう線引き」
真理子は店の予約用紙を見る。
「うちも今、それに近いことやってるでしょ」
セラが頷いた。
「予約は?」
「必ず責任者に確認します」
「仕入れの変更は?」
「真紀さんか真理子さんに確認します」
「じゃあ、ニナに任せている仕事は?」
「水の補充と片付けと、料理を運ぶことです」
「そういうこと。今できる仕事を任せて、まだ難しいことは確認する。慣れてきたら任せる範囲を増やせばいい」
カイルが少しだけ考え込んだ。
*
「全部任せるか、全部自分でやるかじゃなくていいんじゃない?」
カイルは香織を見る。
「今のその子に任せられるところだけ任せれば」
「でも、ギルドからは育てろって」
「一日で育たないでしょ」
香織が笑う。
「人なんだから」
その言葉に、カイルが少しだけ笑った。
「皆さん、店の話してるのに」
恵が答える。
「意外と同じなのかもね」
「冒険者ですよ?」
「人に何か教えるところは同じじゃない?」
カイルは少し考えた。
「そうなのかな」
「少なくともあなたが今困ってるの、魔物じゃなくて人だから」
真理子が言うと、カイルが一瞬止まる。
香織が吹き出した。
恵も笑った。
「確かに」
カイルまで少し笑った。
*
ただ、問題は残っている。
「で、後輩とはどうするの?」
真紀が聞くと、カイルの顔がまた少し曇る。
「謝った方がいいですよね」
香織が答える。
「謝りたい?」
「言いすぎたのは」
「ならそこは謝れば?」
「でも」
カイルは少し眉を寄せる。
「仕事のやり方まで全部俺が悪かったって言うのは違う気がして」
真理子がすぐ答える。
「じゃあ言わなきゃいい」
カイルが見る。
「謝るって、全部自分が悪かったって意味じゃないでしょ」
恵はその言葉に少し納得する。
「言い方は悪かった」
「でも危険な時に止める必要はある」
「待てなかったのは自分の課題」
「判断が遅いのは後輩の課題」
真理子が一つずつ分けていく。
カイルは少し笑った。
「また分ける」
真理子が見る。
「何」
「いや」
「必要だから分けてるだけ」
香織が笑う。
「それが得意なの」
真理子が少し嫌そうな顔をする。
*
その日も答えは完全には出なかった。
カイルは帰る前、少しだけいつもの顔に戻っていた。
恵が聞く。
「明日、話す?」
「ギルドで会うので」
「怖い?」
カイルは少し考える。
「ちょっと」
香織が言う。
「喧嘩した後って気まずいよね」
「はい」
「でも話すんでしょ?」
「……話します」
恵は笑った。
「じゃあ大丈夫」
カイルが少しだけ笑う。
「恵さん、その大丈夫かなり適当ですよね」
「そう?」
「そうです」
*
カイルが帰ったあと、セラがぽつりと言った。
「私も気をつけよ」
恵が見る。
「何を?」
「ニナに」
セラは少し考える。
「私ができることを、同じ速さでできると思わないように」
真理子が言う。
「それは大事」
真紀も少し黙っていた。
香織が見る。
「あなたもね」
「何が?」
「人があなたと同じ速度で店を見られると思わない」
真紀が少し不満そうにする。
「思ってないよ」
真理子が言う。
「思ってる時ある」
「ない」
恵が笑う。
「あると思う」
「恵まで?」
四人とセラが笑った。
*
翌日の昼。
カイルは一人では来なかった。
昨日話していた後輩と一緒だった。
二人の間にはまだ少しだけぎこちなさが残っている。店に入ってきても、いつものように大きな声で話すことはなかった。
香織がそれを見て何か言おうとした。
真理子が袖を引いた。
「聞かない」
香織が小声で返す。
「分かってる」
二人は同じ席に座った。
恵は厨房からそっと見る。
カイルが後輩に品書きを見せている。
「ここの煮込み美味いぞ」
後輩が少しだけ笑った。
「いつも食べてるやつですか?」
「なんで知ってる」
「ギルドで有名です」
カイルが嫌そうな顔をした。
恵は思わず笑った。
話したのだろう。
ちゃんと仲直りできたのかは、まだ分からない。
でも同じ店には来られた。
それなら今日は、それでいい。
*
香織が注文を取りに近づくと、カイルが品書きを後輩に渡した。
「今日、こいつの分も俺が払います」
後輩がすぐに顔を上げる。
「いや、自分で払えます」
「いいから」
「なんでですか」
カイルが少し気まずそうに答えた。
「……昨日、言いすぎたから」
後輩は驚いたように目を見開いた。
少しの間、二人とも何も言わなかった。
香織も黙って待っている。
やがて後輩が、少しだけ笑った。
「じゃあ、大盛りにしていいですか?」
カイルが顔を上げる。
「普通でいいだろ!」
香織が吹き出した。
厨房で聞いていた恵も、思わず笑ってしまう。
カイルはまだ少し不満そうだったが、後輩は楽しそうに品書きを眺めていた。
恵は二人を見ながら、少しだけ嬉しくなった。
昨日は喧嘩した二人が、今日は同じテーブルで笑っている。
カイルはまだ、後輩との距離の取り方を探しているのだろう。
それでも、こうして一緒に食事ができるのなら。
今日のところは、それで十分なのだと思った。




