教えた子がミスしたら、誰の責任なんだろう
セラがニナに仕事を教え始めて、一週間。
店の中は、少しずつ変わっていた。
水を運ぶ人が増え、皿を下げる人が増えた。厨房から料理が出れば、声をかけられる前に誰かが取りに来る。
そして何より、セラが以前より周りを見るようになった。
「四番、もうお皿下げていいよ。二番の水も少なくなってる」
「はい」
「それ終わったら、厨房にこれ持っていってね」
「分かりました」
ニナは食器を片付けると、次の仕事へ向かった。
恵は料理を皿に盛りながら、その様子を眺めていた。
最初は何をすればいいのか分からず、四人の動きを目で追っていたセラが、今では誰かに次の仕事を伝えている。
香織が厨房の入り口から小声で言った。
「育ったね」
「ね」
恵も小声で返す。
「まだ一週間だけどね」
帳面を確認していた真理子が言うと、香織が笑った。
「また厳しい」
「事実でしょ」
恵は笑いながら、出来上がった料理を受け渡し台に置いた。
*
ニナも少しずつ仕事に慣れてきていた。
最初は何をするにも「これで合っていますか?」と確認していたが、今では水差しを見て自分から補充に向かうようになった。
客が食べ終われば様子を見て皿を下げ、厨房から料理が出れば受け取りに行く。
まだ迷うことはあるものの、仕事の流れが少しずつ身についているようだった。
「もう結構できますよ」
セラが嬉しそうに言うと、真理子が顔を上げた。
「何が?」
「水と片付けと、料理を運ぶのと」
「注文は?」
「まだ一人では難しいです」
「じゃあ、今はそこまでだね」
セラが少し口を尖らせた。
「でも最初よりはずっとできるようになりました」
「それはそうだね」
恵が笑う。
「少しずつ覚えていけばいいんじゃない?」
セラは少し照れたように笑い、客席へ戻っていった。
*
その日の昼も、店は賑わっていた。
厨房では肉の焼ける香ばしい匂いが漂い、客席からは食器の触れ合う音や楽しそうな話し声が聞こえてくる。
恵は料理を作り、真紀は焼き台を担当しながら全体の動きを見ていた。真理子は会計を中心に、必要に応じて客席を手伝い、香織は案内や注文を受けている。
セラは客席全体を見ながらニナを気にかけ、ニナは料理を運び、皿を下げ、水を補充していた。
以前ほど、忙しさに店全体が振り回されることはない。
人が増え、役割が少しずつ定まってきたからだろう。
そしてカイルは、今日も客として座っていた。
「最近、全然呼ばれないな」
恵が顔を上げる。
「何が?」
「荷物運んだり、皿下げたり」
香織が笑った。
「人増えたからね」
カイルは少し嬉しそうに頷く。
「やっと普通の客になれた」
すると、真紀が厨房から声をかけた。
「カイル、帰りに薪だけ運んでくれる?」
カイルが机に突っ伏した。
「言ったそばから!」
店内に笑い声が広がった。
*
問題が起きたのは、昼のピークが少し落ち着いた頃だった。
客席の片付けが進み、厨房でも次の仕込みに取りかかろうとしていたとき、香織が予約の帳面を持って厨房へ顔を出した。
「明日の十二人の予約、料理の内容をもう一回確認しておきたいんだけど」
その言葉に、セラが顔を上げた。
「あれ?」
ニナも動きを止める。
恵が振り返った。
「どうしたの?」
「明日、ですか?」
ニナが小さく尋ねた。
「そうだよ。明日のお昼」
香織が答えると、ニナの表情が変わった。
「……今日だと思ってました」
一瞬、誰も意味が分からなかった。
真理子が帳面から顔を上げる。
「何を?」
「十二人の予約です。今日、厨房に伝えたの……」
セラも何かを思い出したように固まった。
恵は作業台に並んだ食材を見た。
いつもより多く用意した肉や野菜。大きな鍋に仕込んだ料理。
確かに今日は、団体予約があると聞いて仕込みを増やしていた。
「ちょっと待って。予約は明日なの?」
「うん。今日の午前中に受けた予約で、明日のお昼に十二人」
香織が帳面を開く。
そこには確かに、明日の日付が書かれていた。
*
話を整理すると、こういうことだった。
今日の午前中、香織が翌日の十二人の予約を受けた。
日付、時間、人数、料理の内容を確認し、予約の帳面にも記入していた。
その後、香織はセラに予約が入ったことを伝えた。
セラはニナに、厨房へ連絡するよう頼んだ。
けれど、そのとき日付を伝え忘れていた。
ニナは今日入った予約を今日の予約だと思い込み、確認しないまま厨房へ伝えた。
そして恵と真紀も、団体予約が入ったことは聞いたものの、予約の帳面と日付を照らし合わせなかった。
結果として、今日の昼に十二人分の追加注文があるものとして、仕込みを進めてしまったのだった。
「……なるほどね」
真紀が作業台を見渡した。
恵も改めて食材を確認する。
十二人分となれば、決して少ない量ではない。
追加の仕込みが必要だとは分かっていた。
ただ、それが今日の予約だということを疑わなかった。
「私も予約表を見てないね」
恵が言うと、真紀も頷いた。
「私も。今日の団体予約だと思ってた」
真理子は帳面を閉じた。
「まず、何がどれだけ余るか確認しよう」
*
「すみません」
ニナが青ざめた顔で頭を下げた。
するとセラもすぐに言った。
「私です。私がちゃんと日付を伝えなかったから」
ニナが首を振る。
「でも、私も確認しませんでした」
「私が言ってれば……」
「私が聞けばよかったです」
二人が互いに自分のせいだと言い始めたところで、真紀が声をかけた。
「一回止めよう」
二人が黙る。
「謝るのは後でもできるから、先に食材を確認しよう。今できることがあるでしょ」
恵も頷いた。
誰が悪かったのかを考えることは必要だ。
けれど、今ここで謝り続けても、余った食材が減るわけではない。
まずは状況を整理しなければならなかった。
*
「何が余る?」
真理子が尋ねると、恵は仕込みの内容を確認した。
「肉と野菜は明日に回せるものもあるね。煮込みも一部は使えそう」
「スープは?」
「それはちょっと難しいかな」
「パンは明日の納品を減らせるか聞いてくる」
香織が答えると、真理子は帳面に書き込んだ。
「じゃあ、全部が損失になるわけじゃないね」
真紀の言葉に恵が頷く。
「うん。でも、いくらかは無駄になっちゃうね」
「とりあえず、減らせる損失は減らそう」
四人はそれぞれ動き始めた。
*
香織はパン屋へ向かい、明日の納品量を減らせるか確認した。
恵と真紀は余った食材を整理し、今日使うものと明日に回せるものを分けていく。
真理子は仕入れと使用量を確認し、損失がどの程度になるか計算していた。
セラとニナも、指示された仕事を一つずつこなしていた。
食器を運び、客席を整え、必要なものを補充する。
けれど、いつもなら何かと話しているセラが、今日はほとんど口を開かなかった。
ニナも同じだった。
恵は二人の様子が少し気になったが、今は声をかけずに仕事を続けた。
*
閉店後、真理子が数字を確認した。
帳面を広げ、今日使った食材と翌日に回せるもの、無駄になったものを照らし合わせていく。
「思ったよりは抑えられたね」
セラが顔を上げた。
「損失ですか?」
「うん。でもゼロじゃない」
真理子は計算した金額を伝えた。
店の経営を揺るがすほどの額ではない。
それでも、無視できる数字ではなかった。
ニナが小さく息を飲んだ。
「……私の賃金から引いてください」
「しない」
真理子が即答するとニナが驚いて顔を上げる。
「でも、私が間違えたので」
「しないよ」
するとセラも口を開いた。
「じゃあ、私の分から……」
「それもしない」
真理子が少し強く言うと、二人は黙った。
*
真理子は帳面を閉じ、二人に向き直った。
「ミスするたびに給料から引かれる店で働きたい?」
ニナは答えられなかった。
「お皿を割ったら? 注文を間違えたら? 仕入れを一つ多く頼んだら?」
「……」
「もちろん、何をしてもいいって話じゃないよ。でも、仕事で起きた損失を何でも従業員の給料から引けばいいわけじゃない」
セラが小さく言った。
「でも今回は、金額も……」
「だからこそ、ちゃんと原因を確認するんでしょ」
真理子は二人を見た。
「今回のことは反省してほしい。でも、給料から引いて終わりにしたら、何を直せばいいのか分からないままだよ」
恵はその言葉を聞きながら、少し感心していた。
損失が出たことと、その責任をどう考えるか。
真理子は最初から、それを分けて考えているようだった。
*
真紀が椅子を引いた。
「じゃあ、今回の一番の問題って何だと思う?」
ニナがすぐに答えた。
「私が日付を確認しなかったことです」
セラも続ける。
「私がちゃんと伝えなかったことです」
「それもあるね」
真紀は頷いた。
「でも、一人が日付を聞き間違えたり、伝え忘れたりしただけで、十二人分の仕込みが進んじゃったことも問題だと思う」
真理子も頷く。
恵にも、その意味が分かってきた。
セラが伝える。
ニナが受け取る。
厨房へ連絡する。
恵と真紀が仕込みを始める。
その間、誰も予約の帳面と照らし合わせなかった。
「私も、日付を確認しなかった」
恵が言うと、セラがすぐに顔を上げた。
「でも、恵さんは……」
「でもじゃないよ。仕込みをしたのは私たちだし」
真紀も頷いた。
「私も確認してないからね」
香織が口を開く。
「そもそも予約を受けたのは私なのに、厨房へ直接確認してなかった」
「私も、予約と仕入れ予定を照合する仕組みを作ってなかった」
真理子も続けた。
ニナが困ったように四人を見た。
「でも、間違えたのは私です」
「うん。そこは違わないよ」
真紀ははっきり答えた。
「ニナが日付を確認しなかったのは、ニナのミス。セラが日付を伝え忘れたのも、セラのミス」
二人は黙って聞いていた。
「でも、そのミスを途中で止められなかったのは、店の仕組みの問題でもあるんだよ」
真理子が頷いた。
「そういうこと」
*
「私の教え方が悪かったんだと思います」
セラが小さく言った。
真理子が尋ねる。
「何を教えてなかった?」
「予約の日付を必ず確認することです」
「それは次から教えればいいね」
「でも……」
「セラ」
真理子は少しだけ声を柔らかくした。
「あなたが伝え忘れたことと、ニナが確認しなかったことと、店の確認方法が足りなかったことは、全部別の問題なの」
セラは黙っている。
「全部自分の責任にしたら、何を直せばいいか分からなくなるよ」
恵は、なるほど、と思った。
真理子は数字だけではなく、こういうことまで整理するのが得意なのだ。
一つの大きな失敗として片付けるのではなく、原因を分けて考える。
そうすれば、次に何を変えるべきかが見えてくる。
*
香織がニナに尋ねた。
「ちなみに、どうして今日だと思ったの?」
ニナは少し考えてから答えた。
「セラさんに、十二人分増えるから厨房に伝えてって言われて……今日のことだと思いました」
「私、日付を言ってなかった……」
「うん。私も聞かなかったです」
ニナが俯くと、香織は頷いた。
「じゃあ、次は日付も一緒に確認しようね」
「はい」
セラも小さく頷いた。
けれど、その表情はまだ硬かった。
恵は少し考えてから声をかけた。
「セラ、教えた子が失敗すると、自分のせいだって思うよね」
セラが顔を上げた。
「……はい」
「分かるよ」
「恵さんも?」
恵は少し笑った。
「子ども育ててたら、何回も思ったよ。私がちゃんと教えなかったからかなとか、もっと言っておけばよかったかなとか」
セラは黙って聞いていた。
「でも、どれだけ教えても、本人がやるときは本人がやるしかないんだよね」
その言葉に、香織も頷いた。
「子ども六人いるとね。同じこと六人に言っても、六人とも違うことするんだよ」
セラが顔を上げた。
「そうなんですか?」
「そう! 一人はすぐできるし、一人は何回言っても忘れるし、一人は勝手に別のやり方見つけるし」
真紀が笑った。
「大変そう」
「大変だよ。でも、だからって全部私のせいでも、全部子どものせいでもないじゃん」
香織はセラとニナを見た。
「教えるって、相手を自分の思い通りに動かすことじゃないと思うんだよね」
恵も頷いた。
「そうだね。できなかったら、どうしたら分かりやすいか考えるしかないもんね」
セラはしばらく黙っていたが、やがて少しだけ表情を緩めた。
*
真理子が新しい紙を取り出した。
「で、次からのやり方だけど」
香織が笑う。
「出た」
「直すよ」
真紀が身を乗り出した。
「どうする?」
「予約は一枚の用紙にまとめる。日付、時間、人数、料理、受付した人。それから厨房の確認欄と、仕入れの確認欄」
セラが紙を覗き込む。
「確認欄?」
「うん。予約を受けたら、まず責任者が内容を確認する。それから厨房に用紙を渡して、仕込みを担当する人が日付と内容を確認して印をつける」
「仕入れも?」
「必要なものがあれば、仕入れを確認した人が印をつける」
真紀が少し考えた。
「確認する人が多すぎると、逆に面倒にならない?」
「だから担当を決めるの。誰でもいいから確認して、じゃ意味ないでしょ」
「なるほどね」
真理子はさらに書き加えた。
「予約の変更があったら、いつ、何を変更したか分かるようにする。口頭だけで終わらせない」
セラとニナは真剣な表情で紙を見つめていた。
「急にちゃんとした店みたい」
香織が言うと、真理子が顔を上げた。
「今まで何だと思ってたの?」
「ちゃんとした店だけど!」
「なら言わない」
真紀が吹き出した。
セラも少し笑い、ニナもようやく表情を緩めた。
*
その後、実際に予約用紙を使いながら、全員で確認の流れを確かめた。
予約を受けたら、内容を記録する。
責任者が確認し、厨房へ用紙を渡す。
厨房では仕込みを始める前に日付と人数、料理を確認する。
必要な仕入れがあれば、その内容も照らし合わせる。
「これなら、誰かが伝え忘れても気づけるね」
恵が言うと、真紀が頷いた。
「うん。少なくとも、今日みたいに仕込みが終わってから気づくことは減ると思う」
セラが小さく言った。
「私、これなら教えやすいです」
「でしょ」
真理子は少し満足そうだった。
「教える人によって説明が変わるのも減らせるからね」
ニナも頷いた。
「私も、何を確認したらいいか分かります」
恵は二人を見ながら、こういうことなのかもしれないと思った。
誰か一人が全部覚えていなくても、仕事が回るようにする。
そのための仕組みを作るのも、自分たちの仕事なのだ。
*
帰る前、ニナがもう一度四人の前に来た。
「今日はすみませんでした」
真紀が答える。
「次から気をつけようね」
真理子も頷いた。
「でも、次も間違えることはあると思うよ」
ニナが少し驚いた顔をする。
「だから、間違いに気づけるようにするの。今日作った紙も、そのためだから」
「……はい」
セラもその言葉をしっかり聞いていた。
二人が帰ったあと、恵が真理子に声をかけた。
「今日すごかったね」
「何が?」
「原因の整理。私だったら、あんなに分けて考えられないかも」
真理子は不思議そうな顔をした。
「普通でしょ」
恵と香織と真紀が、ほとんど同時に口を開いた。
「出た」
真理子が嫌そうな顔をする。
「何よ」
「いや、真理子の普通はたまに普通じゃないから」
香織が笑うと、恵もつられて笑った。
*
翌朝、セラはニナより少し早く店に来ていた。
昨日作った予約用紙を手に取り、記入する項目を一つずつ確認している。
恵が厨房から声をかけた。
「おはよう。早いね」
「おはようございます」
「緊張してる?」
「ちょっと」
「昨日のこと?」
セラは頷いた。
「私、教えるの向いてないのかなって思いました」
恵は少し考えた。
「昨日だけで?」
「だって、ちゃんと教えられてなかったし……」
「じゃあ私なんて、何回向いてないことになるんだろう」
セラが吹き出した。
「それは……」
「何?」
「言えません」
「言ってるのと同じだからね」
恵が笑うと、セラも少し笑った。
そのとき、入り口の扉が開いた。
「おはようございます」
ニナだった。
セラは昨日より少し真面目な顔になって、ニナを迎えた。
「おはよう」
ニナもどこか緊張している。
セラは新しい予約用紙を見せた。
「昨日のことで、やり方が変わったから」
「はい」
「一緒に確認しよう」
ニナが頷く。
二人は用紙を広げ、日付、時間、人数、料理の内容を一つずつ声に出して確認し始めた。
恵は厨房からその様子を眺めていた。
昨日の失敗が消えるわけではない。
それでも、二人は今日も並んで仕事を始めている。
恵はその姿を見ながら、店も人も、こうして少しずつ育っていくのだと思った。




