教える側になると、自分の癖がよく分かる
掲示板が少しずつ町に馴染み始めた頃、店でも新しい変化が起きていた。
「人、増やさない?」
朝の仕込み中、香織が何気なく言った。
恵は厨房で野菜を切っていた。包丁がまな板を叩く規則正しい音が響き、隣では真紀が仕入れた食材を確認している。
「私も思ってた」
真紀がすぐに反応すると、真理子も帳面から顔を上げた。
「何人?」
「一人。昼だけ」
香織の答えに、真理子は少し考えた。
「今ならありかな」
恵が手を止める。
「本当に?」
「客数も増えてるし、昼の忙しい時間だけなら人件費もそこまで増えないと思う」
真紀も頷いた。
「セラもだいぶ仕事に慣れてきたからね」
少し離れたところで皿を並べていたセラが顔を上げた。
「え?」
四人が振り返ると、セラは自分を指さした。
「私ですか?」
「そう」
香織が笑うと、セラは困ったように眉を下げた。
「まだ全然ですよ」
「最初の頃とは全然違うよ」
真理子が言うと、真紀も頷く。
「じゃあ、次の子に教えてみる?」
セラの手が止まった。
持っていた皿をそっと作業台に置き、真紀の顔を見つめる。
「私が?」
「うん」
「教えるんですか?」
「そうだよ」
セラは四人を順番に見た。
誰も冗談を言っている様子はない。
「無理です」
恵が笑った。
「早いね」
「だって、私まだ教わってる側ですよ」
真理子が答える。
「それはずっとそうじゃない?」
「え?」
「私たちだって、今でも誰かに聞くことあるでしょ」
香織も頷いた。
「分かんないことなんて普通にあるよ」
「全部分かってから教えるなんて無理だよ」
真紀がさらりと言うと、セラは少し考え込んだ。
それでも、まだ不安そうだった。
恵はそんなセラを見ながら、自分たちが店を始めた頃のことを思い出した。
最初から何でもできたわけではない。
分からないことがあれば誰かに聞き、失敗すればやり方を変えた。
今でも、それは変わらない。
「全部教えなくていいんじゃない?」
恵が言うと、セラが顔を上げた。
「最初にやってもらう仕事だけでいいと思うよ」
「それなら……」
「分からなかったら私たちに聞けばいいし、困ったら代わるから」
セラは少し黙ってから、小さく頷いた。
「……やってみます」
「決まり!」
香織が嬉しそうに手を叩く。
すると真理子がすぐに言った。
「まだ採用してないけどね」
「そうだった!」
*
求人は店の掲示板に貼ることにした。
今度は、自分たちの店の募集だった。
真紀が用意した紙には、勤務する時間や仕事内容、賃金などが書かれている。
セラがそれを眺めながら言った。
「こういうのも、ここに貼るんですね」
「せっかくあるしね」
真紀が答える横で、真理子が内容を確認し始めた。
「時間」
「書いてある」
「賃金」
「書いてある」
「仕事内容」
「書いてある」
「休み」
「書いてある」
真紀が得意そうに笑う。
「完璧じゃん」
「自分たちで決めたルールだからね」
香織が笑った。
「こうして見ると便利だね」
「今のところはね」
真理子の返事に、真紀が振り返る。
「またそういうこと言う」
恵は笑いながら掲示板を見た。
作ったときには、まさか自分たちが求人を出すことになるとは思っていなかった。
*
募集を貼って三日後、二人の応募があった。
一人目は十代後半くらいの男の子だった。
元気で声も大きく、よくしゃべる。緊張した様子もほとんどなく、香織が話しかけると楽しそうに答えた。
「接客は好き?」
「好きです! 人と話すの得意なんで!」
「それはいいね。忙しい時間でも大丈夫そう?」
「はい! 動くのも得意です!」
受け答えは明るく、香織とはすぐに打ち解けていた。
二人目も同じくらいの年頃の女の子だった。
こちらは静かで、少し緊張しているようだった。
背筋を伸ばして座り、質問されるたびに一度考えてから答える。
恵が仕事内容を説明すると、女の子は真剣な表情で聞いていた。
「お昼の忙しい時間に、接客や片付けを手伝ってもらいたいと思ってるの」
「はい」
「最初はセラが教えるから、分からないことがあったら聞いてね」
女の子は頷き、少し考えてから質問した。
「お皿を片付けるときは、一度に何枚まで持ってもいいですか?」
「最初は無理せず、持てる分だけでいいよ」
「分かりました。置く場所も決まっていますか?」
「決まってるよ。そこも教えるね」
その後も、女の子はいくつか質問をした。
どこに何を置くのか。
注文を受けたときは誰に伝えるのか。
自分で判断できないことがあったら、誰に聞けばいいのか。
一つ質問しては答えを聞き、納得すると次の質問をする。
面接を終え、二人が帰ったあと、五人は客席のテーブルを囲んだ。
「どうだった?」
香織が尋ねると、真理子が答えた。
「私は二人目かな」
「一人目の子もよかったよね。明るいし、接客向いてそう」
香織が言うと、真紀も頷いた。
「そうだね。でも今回は二人目かな」
「なんで?」
「昼の忙しい時間に入ってもらうからね。分からないことをそのままにしない子の方が、最初は教えやすいと思う」
真理子も頷く。
「勝手に判断されると、かえって仕事が増えることもあるし」
「なるほどね」
香織は納得したようだった。
そのとき、セラが小さく手を挙げた。
「あの、私も二人目の人がいいです」
四人がセラを見る。
「なんで?」
香織が尋ねると、セラは少し考えてから答えた。
「分からないことを聞いてくれるからです」
恵は少し嬉しくなった。
セラ自身も、仕事を覚え始めた頃は何度も質問していた。
分からないまま進めるより、確認してから動くことを大切にしてきた。
「それに、私もまだ教えるのが初めてなので……質問してもらえる方が、何を説明したらいいか分かりそうです」
真理子が笑った。
「ちゃんと理由あるじゃん」
セラは少し照れた。
「たまたまです」
「そういうのが大事なんだよ」
真紀が言うと、セラは嬉しそうに笑った。
その後も勤務時間や仕事内容を確認し、五人は二人目の女の子を採用することで意見が一致した。
*
翌日、採用を伝えるために女の子に店へ来てもらった。
「ぜひ、うちで働いてほしいんだけど」
恵がそう伝えると、女の子は一瞬驚いた顔をしたあと、嬉しそうに頭を下げた。
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
隣にいたセラも、慌てて姿勢を正した。
「私、セラです。よろしくお願いします」
「ニナです。よろしくお願いします」
二人は少しぎこちなく笑い合った。
「仕事は私が教えることになってるんだけど……」
セラはそこで少し言葉に詰まった。
「私もまだ覚えてる途中なので、分からないことがあったら一緒に聞きましょう」
ニナは頷いた。
「はい。よろしくお願いします」
その様子を見て、恵はこれからの店が少し楽しみになった。
*
ニナが働き始めた。
初日の朝、セラはその横について店の中を案内していた。
開店前の食堂にはまだ客の姿はなく、整えられたテーブルの間を二人で歩いていく。
セラは教える順番を頭の中で確認しているようだった。
「まず、テーブルの水差しなんだけど」
「はい」
「減ってたら補充してね」
ニナが尋ねる。
「どのくらい減ったらですか?」
セラが止まった。
「……半分くらい?」
ニナは真剣に頷いた。
「分かりました」
セラは水差しを見つめた。
恵が厨房から少し笑うとセラが振り返る。
「何ですか」
「いや、私たちも最初はそうだったなと思って」
「私、ずっと感覚でやってました」
真理子が帳面から顔を上げる。
「教えると気づくでしょ」
セラは困ったように笑った。
「難しいです」
「自分でやる方が簡単だからね」
真紀の言葉に、セラは頷いた。
*
次は皿の片付けだった。
セラはテーブルに置かれた食器を示しながら説明を始めた。
「食べ終わったら下げるんだけど、お客さんが話してる途中なら、急いで下げなくてもいいからね」
「はい」
「でも混んでたら、早めに下げたいときもあるし……」
ニナが少し困った顔をする。
「どっちですか?」
セラが止まった。
香織が横で笑いをこらえている。
「笑わないでください」
「ごめんごめん」
セラは少し考えた。
「じゃあ、最初は空いたお皿があったら、お客さんに下げてもいいか聞いてみて。迷ったら私に聞いて」
「分かりました」
ニナが頷くと、セラはほっとしたように息を吐いた。
恵にも、その難しさが少し分かった。
自分では当たり前にやっていることでも、誰かに説明しようとすると急に言葉が足りなくなる。
慣れている人にとっての「そのときによる」は、初めて仕事をする人には一番困る答えなのかもしれない。
*
昼になると、店内は少しずつ混み始めた。
客が増えるにつれて厨房から料理を仕上げる音が響き、焼いた肉の香ばしい匂いが広がっていく。
ニナは一生懸命だった。
けれど、やはり動きはまだ遅い。
水を運ぶ。
皿を下げる。
注文を伝える。
一つ終わるたびに、次に何をするのか確認していた。
セラはその横で何度も声をかけた。
「そこに置いてね」
「次はこっち」
「大丈夫。分からなかったら聞いて」
香織が少し離れたところから二人を見る。
「いいじゃん」
真理子も頷いた。
恵は料理を作りながら、少し嬉しくなった。
少し前まで、仕事の順番を確認しながら動いていたのはセラ自身だった。
今はそのセラが、ニナの様子を見ながら声をかけている。
*
けれど、昼のピークに入ると少しずつ余裕がなくなった。
客席からの声が重なり、下げる食器も増えていく。
水の補充を頼まれたニナが水差しを手に取ったところへ、別の席から食器を下げてほしいと声がかかった。
「あ、そっち先に……いや、待って」
セラも判断に迷った。
ニナは水差しを持ったまま立ち止まり、セラも次に何を頼むべきか分からなくなる。
その様子に気づいた真紀が声をかけた。
「セラ、一個ずつ!」
セラははっとして、ニナに向き直った。
「まず四番の水をお願い。戻ってきたら次を伝えるね」
「はい!」
ニナが動き出すと、セラも残った仕事に取りかかった。
止まっていた二人の動きが、再び流れ始めた。
恵はその様子を見ながら、少し前の自分たちを思い出していた。
仕事が一気に重なると、全部を同時に片付けたくなる。
けれど、慌てたところで手は二本しかない。
一つずつ終わらせた方が、結局は早いこともある。
セラもそれに気づいたらしく、今度はニナが戻ってくるのを待ってから次の仕事を伝えていた。
*
昼のピークが終わると、店内はようやく落ち着きを取り戻した。
ニナは椅子に座り、申し訳なさそうにセラを見上げた。
「すみません」
「何が?」
「遅くて」
セラはすぐに答えた。
「最初はそんなもんだよ」
恵が思わずセラを見る。
少し前、同じ言葉をセラ自身が言われていた。
香織も気づいたらしく、少し笑っている。
セラはニナに水を渡した。
「私も最初、何していいか分かんなかったから」
ニナが少し安心した顔をする。
「本当ですか?」
「うん」
真紀が遠くから口を挟んだ。
「恵のこと怖いと思ってたしね」
セラが慌てる。
「それは言わなくていいです!」
恵が笑った。
「怖かったの?」
「忙しいときだけです!」
「そうなんだ」
「恵さん、たまに急に仕切るから……」
香織が吹き出した。
「分かる!」
「ちょっと、二人とも!」
恵が抗議すると、店内に笑い声が広がった。
ニナもようやく肩の力が抜けたようで、小さく笑っていた。
*
閉店後、ニナが帰ると、セラは椅子に座って背もたれに体を預けた。
「疲れた……」
「仕事量、そんな変わってないよ」
香織が笑いながら言うとセラが顔を上げる。
「違いますよ」
「何が?」
「自分の仕事だけやる方が楽です」
真理子が少し笑った。
「それはそう」
セラは机に突っ伏した。
「ちゃんと教えられてるか、ずっと気になるんです」
「どうだった?」
恵が尋ねると、セラは少し考えた。
「分かんないです」
「楽しかった?」
「……ちょっと」
「じゃあ、よかったじゃん」
セラが顔を上げる。
「そんな簡単でいいんですか?」
「最初から完璧に教えられる人なんて、なかなかいないと思うよ」
セラは今日の仕事を思い返しているようだった。
*
真理子が紙を持ってきた。
「せっかくだから」
セラが嫌な顔をする。
「何ですか」
「教えること、書いておこう」
「今から?」
「忘れないうちに」
「また始まった」
香織が笑う横で、真理子は気にせず書き始めた。
水の補充。
皿の片付け。
注文の伝え方。
会計はまだ担当しないこと。
困ったときに誰に聞くか。
混雑時に優先する仕事。
「こういうのあると楽だね」
恵が言うと、セラも紙を覗き込んだ。
「確かに」
真紀が横から言う。
「でも全部書くと読まなくなるよ」
真理子が顔を上げる。
「じゃあ、最初に必要な分だけ」
「それでいいと思う」
セラは少し驚いたようだった。
「皆さんも、こうやって決めてたんですか?」
四人が一瞬黙った。
恵が少し笑う。
「いや、最初はかなり適当だったよね」
香織も頷いた。
「やりながら決めてた」
「必要になったら変えてたしね」
真紀が言うと、真理子がため息をついた。
「だから今、書いてるの」
セラが少し笑った。
*
帰る前、セラは新しく作った紙を何度も見ていた。
仕事の手順が短い言葉でまとめられた紙には、今日気づいたことも少しだけ書き足されている。
「どうしたの?」
恵が尋ねると、セラは顔を上げた。
「自分が誰かに教えるのって、もっと仕事ができるようになってからだと思ってました」
恵は片付けの手を止めた。
「でも今日、ちゃんと教えてたよ」
「途中でぐちゃぐちゃになりました」
「なったね」
「否定しないんですね」
「でも途中で気づいて、ちゃんと立て直せたじゃん。それで十分じゃない?」
恵が言うとセラは少し黙った。
「……そうですかね」
「そうだよ。私たちだって、今でも失敗するし」
セラが少し笑う。
「恵さんが言うと説得力ありますね」
恵はその表情を見て、すぐに意味が分かった。
「私の『一回全員黙って』のこと?」
「はい」
「忘れてよ」
「無理です」
二人は顔を見合わせて笑った。
*
翌日、ニナがやってきた。
開店前の食堂には朝の光が差し込み、整えられたテーブルの上で水差しがきらりと光っている。
セラは昨日作った紙を手に、ニナを迎えた。
「おはよう」
「おはようございます」
「今日は、まず水の補充からお願いね。分からなかったら聞いて」
「はい」
セラは少し考えてから付け加えた。
「私も分からなかったら、みんなに聞くから」
ニナが小さく笑う。
「はい」
二人は並んで客席へ向かった。
恵は厨房からその姿を眺めていた。
店は少しずつ変わっている。
最初は四人しかいなかった。
そこにセラが加わり、今はそのセラがニナに仕事を教えている。
自分たちがすべての仕事を直接教えなくても、店のやり方が少しずつ人から人へ渡り始めていた。
恵はその様子を見ながら、なんだか嬉しくなった。
四人で始めた小さな食堂に、また一人、新しい仲間が増えた。




