頼られるようになったのに、嬉しくないらしい
カイルが「今度、ちゃんと相談していいですか」と言った翌日、彼は来なかった。
その次の日も来なかった。
昼の忙しい時間が過ぎ、客足が落ち着く頃になると、香織は時折入口へ目を向けていた。
「今日も来ないね」
真理子が帳面から顔を上げないまま答えた。
「仕事でしょ」
「でも相談あるって言ってたじゃん」
「相談する日までは約束してない」
「気にならない?」
「なるけど、本人が話すって言うまで待つ」
香織が少し口を尖らせる。
「冷たい」
「勝手に聞き出す方が嫌でしょ」
恵は二人の会話を聞きながら、煮込みを混ぜた。
鍋の中では具材がゆっくりと煮え、温かな湯気が立ち上っている。木べらを動かすたびに、柔らかくなった野菜が肉と一緒に揺れた。
たぶん、真理子の言う通りなのだと思う。
相談したいと口にするところまでは来た。
でも、だからといってすぐ話せるとは限らない。
自分だって、そういう時はあった。
話したい。でも、何をどう話せばいいのか自分でも分からない時。
そんな時は、誰かに急かされるよりも、自分の中で言葉になるのを待ってもらえる方がありがたかった。
恵は鍋の火加減を確かめ、もう一度ゆっくりとかき混ぜた。
*
四日目、カイルは来た。
いつもの時間よりずっと遅かった。
店の客もほとんど帰ったあとで、客席には片付けの終わったテーブルが並んでいた。
扉が開く音に恵が顔を上げると、入口にカイルが立っていた。
いつもより少し疲れた顔をしている。
「おかえり」
カイルが少し笑う。
「ただいま……じゃないです」
香織がすぐ反応する。
「もうそれでいいじゃん」
「よくないです」
でも、いつもより声に元気がない。
恵が聞いた。
「ご飯食べる?」
「食べます」
「いつもの?」
「はい」
そこはいつも通りだった。
恵は少し安心した。
*
料理を出しても、今日はすぐには食べなかった。
カイルは目の前に置かれた器を見つめ、しばらく立ち上る湯気を眺めていた。
煮込まれた肉と野菜の香りが漂っているのに、いつものようにすぐ匙を手に取ろうとしない。
香織が珍しく何も言わない。
真理子も帳面を閉じただけ。
真紀は厨房の片付けをしながら、こちらを気にしている。
セラも客席を拭いていた。
「冷めるよ」
恵が言うとカイルが少し笑う。
「そうですね」
ようやく匙を取り、一口食べる。
それから普通に食べ始めた。
食器の触れ合う小さな音が、静かな店内に響く。
恵は何も聞かなかった。
食べ終わるまで、誰も相談の話をしなかった。
*
食事が終わったあと、カイルが水を飲む。
器をテーブルに置くと、しばらく手元を見つめていた。
そして、ぽつりと言った。
「俺」
香織と真理子が見る。
「最近、ギルドで立ち位置変わってきてるみたいで」
恵が椅子に座る。
「立ち位置?」
カイルは頷いた。
「俺、自分ではそんなつもりなかったんですけど、いつの間にか、若手じゃなくなってたみたいです」
「そりゃそうじゃない?」
香織が言うとカイルが見る。
「そんな軽く」
「だってずっと仕事してるんでしょ?」
「してますけど」
「何か言われたの?」
真理子が聞くとカイルは少し黙った。
「新人を連れていけって」
恵が彼を見る。
「一緒に仕事するってこと?」
「最初はそうだと思ってたんです」
カイルは指で空になった器の縁を触った。
「でも、違って」
「何が?」
「俺が見る側なんです」
香織が少しだけ真面目な顔になる。
「教える側?」
「たぶん」
*
真紀が厨房から出てきた。
片付けていた布巾を置き、カイルの近くまで歩いてくる。
「嫌なの?」
カイルはすぐ答えなかった。
その沈黙が長かった。
「……分かんないです」
真理子が言う。
「嫌なら嫌でいいと思うけど」
「嫌っていうか」
カイルは困った顔をした。
「なんか、違うんですよ」
「何が?」
恵が聞くとカイルは言葉を探す。
「俺は……仕事受けて、行って、帰ってきて」
「うん」
「それで良かったんです」
誰かに褒められたいわけでもない。
偉くなりたいわけでもない。
もっと上へと思っていたわけでもない。
依頼を受ける。仲間と行く。終わらせる。帰ってくる。
報酬をもらう。
腹が減ったら、この店に来る。
その繰り返し。
それがカイルの冒険者としての生活だった。
「でも最近、俺が誰と組むかじゃなくて、誰を俺につけるかって話されるんです」
恵はその違いが少しだけ分かった。
自分が仕事をする側から、誰かの仕事まで考えなければならない側へ。
本人が望んだわけでもないのに、周囲の見方が変わり始めているのだ。
*
真理子が聞いた。
「それって昇格?」
「まだです」
「じゃあ試されてる?」
「たぶん」
「嫌なら断れないの?」
カイルは少し眉を寄せた。
「断れます」
「じゃあ断れば?」
香織が真理子を見る。
「早いって」
「だって選べるなら」
カイルは首を振った。
「そこが分かんないんです」
真理子も言葉を止めた。カイルは続ける。
「断りたいのかも、分かんない」
恵は、ああ、と思った。
この子は答えが欲しいわけではない。
まだ、質問すらちゃんと決まっていない。
自分が何に困っているのか、どうしたいのか。それを誰かに説明できるほど、気持ちが整理されていないのだろう。
*
「嬉しくないの?」
香織が聞くと、カイルは少し考えた。
「ギルドの人には、そう言われました」
「何て?」
「信用されてるって」
「実際そうなんじゃない?」
「そうなんでしょうけど」
「嬉しくない?」
カイルがまた黙る。
そして、小さく言った。
「嬉しくない自分が、ちょっと嫌です」
四人が静かになった。
恵は、そこだったのか、と思った。
評価された、任された、信用された。
普通なら喜ぶもの。
だから、喜べない自分がおかしい気がする。
カイルはそう思っているらしい。
俯いた彼の表情には、困惑だけでなく、自分自身への苛立ちのようなものも滲んでいた。
*
真紀が椅子を引いて座った。
木の脚が床を擦り、小さな音を立てる。
「別に嬉しくなくてもよくない?」
カイルが顔を上げる。
「え?」
「信用されたことは嬉しくても、やらされる仕事は嫌とかあるでしょ」
カイルが少し目を瞬くと真紀は続ける。
「私だって店うまくいって、二号店出しませんかって言われたけど断ったし」
香織が笑う。
「王都のね」
「評価されたのは嬉しいよ」
「うん」
「でも店出したいかは別」
カイルが黙って聞いていると、真紀が続けた。
「一緒にしなくてよくない?」
恵は少し納得した。
褒められたこと、任されたこと、やりたいこと。
確かに全部同じではない。
誰かから評価されたからといって、その先に用意された道まで望んでいるとは限らないのだ。
*
でも、カイルの顔はまだ晴れなかった。
真理子が聞く。
「それだけじゃない?」
カイルが見る。
「何かまだあるでしょ」
「……」
「後輩を見ること自体が嫌?」
「分かんないです」
「責任?」
カイルが少しだけ反応した。
真理子はそれを見逃さなかった。
「そこ?」
カイルは目を逸らした。
「冒険者って......危ない仕事なんで」
誰も口を挟まなかった。
「自分のことなら」
カイルは自分の手を見る。
何度も武器を握り、依頼をこなしてきた手だった。
「自分の判断で、自分が怪我するなら、まだ納得できます」
香織の顔から笑みが消える。
「でも新人連れてくなら、俺が帰るだけじゃ駄目になる」
恵は胸の奥が少し重くなった。
*
「この前一緒に行ったやつが、勝手に前に出たんです」
恵が聞く。
「怪我した?」
「してないです……今回は」
その言葉で十分だった。
「俺が止めました」
カイルは静かに話す。
「別に大したことじゃないです」
「でも」
「もし俺が見てなかったらって思ったら」
そこで言葉が止まった。
カイルはテーブルに落としていた視線を上げず、指先を軽く握り込んだ。
恵は何も言えなかった。
料理の出来や配膳の手順なら、やり直しながら教えられることも多い。
でも、カイルが話しているのは、一度の判断で命を失うかもしれない現場だった。
その重さを、恵も少しだけ想像した。
*
香織がゆっくり聞いた。
「その子は?」
「怒りました」
「あなたが?」
「はい」
「どんな感じで?」
カイルが少し気まずそうな顔をする。
「二度と勝手に前出るなって」
香織が頷く。
「それだけ?」
「あと……」
「あと?」
「死にたいなら一人でやれって」
四人が一瞬止まる。
カイルが顔を覆った。
「言いすぎたのは分かってます」
恵が思わず笑いそうになる。
でも、笑うところではない。
香織が言う。
「後輩、何て?」
「謝りました」
「あなたは?」
「謝ってないです」
真理子が聞く。
「なんで?」
「言ってること自体は間違ってないから」
真紀が少し笑った。
「頑固だね」
「真紀さんに言われたくないです」
香織が吹き出すと恵も少し笑った。
空気がほんの少しだけ軽くなる。
カイルも顔を上げ、気まずそうに笑っていた。
*
恵はカイルに聞いた。
「その子のこと嫌い?」
「別に」
「面倒?」
「面倒です」
即答だった。
「そこは早い」
香織が笑うとカイルも少し笑う。
「でも……怪我してほしくはないです」
それも即答だった。
恵はなんとなく、それで十分な気がした。
面倒だと思っていても、怪我をしてほしくない。
責任を負うことに戸惑っていても、目の前の後輩を放っておけない。
カイルの中には、もうそういう気持ちがあるのだろう。
でも、答えにはしなかった。
「そっか」
*
セラは少し離れたところで、ずっと聞いていた。
拭き終わったテーブルの横に立ち、手に持った布巾を畳んでいる。
真理子が気づく。
「片付け終わった?」
セラが少し慌てる。
「はい」
「じゃあ今日は上がっていいよ」
「あ……はい」
でも、セラは少し迷ってカイルを見る。
「私、まだ教える側じゃないですけど」
恵たちもセラを見る。
「最近、できること増えたから、新しいこと任されることが増えて、嬉しいです」
カイルは静かに聞く。
「でも間違えたら、前より迷惑かける人も増えるなって思う時あります」
恵が少し驚いた。
セラは以前なら、こんなことを自分から言わなかった。
仕事を教わる時も、分からないことがあれば確認し、言われたことを一つずつ覚えようとしていた。
そのセラが今は、自分に任される仕事の意味まで考えるようになっている。
「だから、ちょっとだけ分かります」
カイルが少し笑った。
「ちょっとだけ?」
「命かかってないので」
「ですよね」
「でも怖いのは怖いです」
カイルはしばらくセラを見ていた。
「そうですか」
その表情は、さっきまでより少し柔らかくなっていた。
*
その日は結論を出さなかった。
真理子も具体的な解決策を言わなかった。
香織も「こうすればいい」とは言わなかった。
真紀も一度やってみろとは言わなかった。
恵も背中を押さなかった。
カイルが帰る時、香織が聞いた。
「ちょっとは楽になった?」
カイルは考えた。
「分かんないです」
「そっか」
カイルは扉を開ける前に、少しだけ振り返った。
「でも自分が何で嫌なのかは、ちょっと分かった気がします」
「じゃあ今日はそれでいいんじゃない?」
恵が言うとカイルは少し笑った。
「はい」
そして帰っていった。
*
店の扉が閉まる。
外へ続く足音が遠ざかり、食堂には夜の静けさが戻ってきた。
「心配」
香織が言うと真理子が答える。
「分かる」
「でも何も言わなくてよかった?」
「今答え出しても、あの子の答えじゃないでしょ」
真紀が頷く。
「だね」
恵はさっきまでカイルが座っていた席を見る。
いつも煮込みを食べて、四人に振り回されて、
「俺、客ですよね?」
と笑っている。
だから気づかなかった。
この世界で、彼もちゃんと時間を重ねていた。
ずっと若い冒険者だと思っていた。
でも、もう誰かから見れば先輩だった。
誰かから見れば、頼る相手だった。
そして本人だけが、その変化にまだ追いついていない。
恵は少しだけ思った。
大人になるって、一回で終わるものじゃないのかもしれない。
五十を過ぎても、二十を過ぎても。
立つ場所が変わるたび、また自分を決め直す。
その繰り返しなのかもしれなかった。




