便利なものは、だいたい面倒も連れてくる
掲示板は、思っていたより早く店に馴染んだ。
朝、開店前。
まだ客のいない食堂には、厨房から食器を重ねる音が聞こえていた。窓から差し込む朝の光が、壁に取り付けられた掲示板を照らしている。
真理子はその前に立ち、昨日までに貼られた紙を一枚ずつ確認していた。
「これ期限切れてる」
隣にいたセラが覗き込む。
「外します?」
「うん」
「こっちは?」
「成立済みって聞いたから外していい」
セラが紙を剥がして重ねていく。その横で真理子は、残った掲示の期限と内容を確かめていた。
「管理人みたい」
香織が横から言うと真理子が答える。
「誰かやらないとぐちゃぐちゃになるから」
そこへ真紀が新しい紙を持ってきた。
「これ貼っていい?」
真理子が見る。
「何?」
「薪をまとめて売りたい人募集」
「誰が?」
「うち」
真理子が顔を上げる。
「なんで?」
「まとめて買ったら少し安くなるって」
香織が笑う。
「店まで掲示板使うんだ」
「便利じゃん」
真理子は紙に目を落とし、内容を一通り確認した。しばらく考えてから、小さく頷く。
「まあ、これはいい」
「もう普通に使いこなしてるね」
恵が笑いながら言うと真紀が続ける。
「作ったんだから使うでしょ」
*
掲示板のおかげで、店に来る人も少し変わった。
食事をしに来る人。
仕事を探しに来る人。
誰かを探しに来る人。
開店して間もない時間でも、掲示板の前には時折人が立っていた。紙を一枚ずつ読んでいる者もいれば、目当ての情報が見つからず、すぐに帰っていく者もいる。
「掲示板だけ見て帰る人もいるね」
恵が言うと香織が答える。
「でもそのうち食べてくよ」
真理子が見る。
「なんで?」
「匂いするから」
恵が笑う。
「それはあるかも」
実際、掲示板だけ見に来た人が、そのまま席について、
「せっかくだから食べてくか」
となることも増えた。
厨房からは煮込みの香りが漂い、焼いた肉の匂いが入口近くまで届いている。掲示板を眺めていた客がふと厨房の方を見て、空いている席へ向かうこともあった。
真紀はそれを見て少し楽しそうだった。
「これ、入口側もっと見やすくしたいな」
真理子がすぐ言う。
「勝手に動かさないで」
「まだ何もしてない」
「昨日椅子動かした」
「あれは別」
「別じゃない」
恵はいつものやり取りを聞きながら、煮込みを混ぜた。
木べらで鍋の底をゆっくりとかき混ぜると、温かな湯気が顔にかかる。
掲示板ができても、厨房の仕事は変わらない。けれど、客席の様子は少しずつ変わってきていた。
*
数日後、最初の小さな問題が起きた。
昼過ぎ。
食事を終えた客がぽつぽつと帰り始め、店内が少し落ち着いてきた頃だった。
扉が勢いよく開き、一人の男がかなり怒った顔で店に入ってきた。
「この店の掲示板見て仕事受けたんだけど!」
大きな声が店内に響き、近くの客たちが一斉に顔を上げた。
香織がすぐに近づく。
「どうしました?」
男は掲示板を指さした。
「報酬が違う!」
店内が少し静かになった。
真理子がすぐ反応する。
「どの掲示です?」
男が紙を指す。
短期の荷運び。
報酬、期間、条件。
全部書いてある。
真理子は掲示板に近づき、紙に書かれた文字を上から順番に確認した。
「ここには、この金額って書いてありますね」
男が言う。
「そうだよ!」
「実際はいくらだったんです?」
「半分!」
香織が眉を寄せる。
恵も少しだけ不安になる。
「相手の人は?」
「もう帰った!」
真紀がゆっくり近づく。
「話は聞いた?」
「聞いたよ! でも向こうは、全部終わってないから半分だって!」
「終わってない?」
真理子が聞くと男が答える。
「途中で追加の荷物出してきたんだよ!」
男は身振りを交えながら、仕事の内容を説明し始めた。怒りで声が大きくなっているものの、話を聞いていくうちに状況が少しずつ見えてくる。
掲示には、最初から決められた量の荷物が書かれていた。
でも、現場で荷物が増えた。
男は「それは条件が違う」と断った。
依頼側は「全部やってない」として、報酬を減らした。
「それは揉めるね」
香織が言うと真理子も静かに頷く。
*
問題はそこからだった。
男が言った。
「この店に貼ってあったから信用したんだ!」
真理子の顔が少しだけ変わった。
恵は気づいた。
あ、これ真理子が最初に言ってたやつだ。
「店は取引の責任を負わない」
それを先に決めていた。
真理子は姿勢を崩さず、落ち着いた声で言った。
「掲示する時に、店は仲介しないって説明してます」
「でもここに貼ってあったんだぞ!」
男が言うと香織が少し口を開きかける。
真理子が先に言った。
「貼る前に内容は確認します。でも相手が約束を守るかまでは、私たちには分かりません」
男はまだ納得していない。
眉間に深い皺を寄せ、掲示板と真理子を交互に見ている。
恵は少し胸がざわついた。
言っていることは正しい。
でも、それだけで終わらせていいのか。
真紀も少し黙っている。
店内には気まずい空気が流れ、近くの客たちも会話を控えていた。
*
香織が男に聞いた。
「その人、またこの町来ます?」
「来ると思う」
「いつ?」
「数日後」
「じゃあ」
香織は少しだけ声を柔らかくした。
「もし良かったら、うちに来てもらう?話す場所くらいにはできるよ」
真理子が香織を見る。
香織が続ける。
「店が判断するんじゃなくて、二人で条件を確認する場所として」
真理子は少し考えた。
真紀も何も言わない。
男はしばらく黙っていた。
先ほどまでの勢いは少し収まり、香織の顔を見ながら考えている。
「……それなら」
と答えた。
*
男が帰ったあと、真理子が小さく息を吐いた。
扉が閉まると、店内にいつもの話し声が少しずつ戻ってきた。
香織が聞く。
「怒ってる?」
「何に?」
「勝手に話す場所にしたこと」
真理子は少し考える。
「別に」
「ほんと?」
「店が責任持つとは言ってないから」
香織が笑う。
「そこ大事なんだ」
「大事」
「でも、このままは良くないね」
真紀が言うと恵が聞く。
「掲示板?」
「うん」
「やめる?」
「いや」
真紀は首を振った。
「便利なのは間違いない」
真理子も頷いた。
「やめなくていい」
香織が驚く。
「真理子も?」
「問題が出たら、ルール直せばいいだけ」
恵は少し笑った。
なんだ結局、この二人は似ている。
片方はまずやる。
片方はまず決める。
違うようで、問題が出たらちゃんと直すところは同じだった。
*
その日の夜、四人とセラで掲示板のルールを見直した。
閉店後の食堂には、片付けを終えた食器が棚に収まり、厨房からはまだ少しだけ料理の香りが残っていた。
テーブルには紙と書くものが並べられ、セラも四人と一緒に座っている。
真理子が言う。
「追加条件が出た場合」
セラが紙に書く。
「報酬変更は、その場で双方確認。依頼内容が変わった時は、元の掲示条件とは別に考える」
「はい」
「難しくない?」
香織が言うと真理子が答える。
「必要」
「あと、揉めた人の掲示は一回止める?」
真紀が言うと真理子が見る。
「事実確認してから」
「それで」
「同じ人が何回も揉めたら?」
恵が聞くと真理子が答える。
「貼らない」
香織が少し笑った。
「意外と厳しい」
「普通」
恵と真紀が同時に、
「出た」
と言った。
セラが笑った。
*
セラは紙を書きながら、少し考えていた。
先ほどまで滑らかに動いていた手が止まり、書きかけの文字に視線を落としている。
恵が聞く。
「どうしたの?」
「いや」
セラは少し迷ってから言う。
「掲示板って、貼るだけだと思ってました」
「私も」
真紀が笑うと真理子が見る。
「あなたが言う?」
「だって最初はそうだったし」
セラは続ける。
「でも、置いたら置いたで、見る人も使う人もいて」
「うん」
「その人たちが困ったら、店にも来るんですね」
真理子が頷く。
「そういうこと」
セラは少しだけ真剣な顔になった。
「なんか」
「何?」
「仕事増えましたね」
香織が吹き出す。
「それね!」
*
数日後、問題になった二人は店で話をした。
昼の混雑を避けた時間だったため、客席には空いているテーブルがいくつもあった。
香織は間に入りすぎないように少し離れたところにいた。
真理子は最初の掲示内容だけ確認。
真紀は離れたところから様子を見る。
恵は料理を作る。
セラは水を運びながら、ちらちら見ていた。
二人はテーブルを挟んで向かい合い、最初こそ硬い表情をしていたが、掲示に書かれた条件を確認するうちに、少しずつ声が落ち着いていった。
話は思っていたよりあっさり終わった。
依頼側は、追加の荷物を最初の条件に含めて考えていた。
受けた側は、別の仕事だと思っていた。
結局、不足分の報酬を少し調整して払うことになった。
完全にどちらか一方が悪いという話でもなかった。
恵はそれを見て少し安心した。
二人が店を出る頃には、入ってきた時ほど険しい顔をしていなかった。
*
その日の夜、香織が言う。
「ちゃんと話せば何とかなるもんだね」
「話せばね」
真理子が言うと真紀が掲示板を見る。
「もう少し分かりやすくしよっか」
真理子も頷く。
「分類した方がいい」
「仕事」
「売買」
「探し物」
「その他」
「恋人募集は?」
香織が言うと全員が見る。
「何?」
「そのうち出るかなって」
真理子が即答した。
「貼らない」
「なんで!」
「面倒」
「即答!」
恵が笑う横でセラも笑っていた。
*
翌朝、掲示板は少し変わった。
種類ごとに貼る場所が分かれ、依頼条件も前より見やすくなった。
板には区切りが設けられ、仕事の募集や売買の紙がそれぞれまとまって並んでいる。
セラがそれを見て言う。
「前より分かりやすい」
「でしょ」
真紀が笑うと真理子が言う。
「最初からこうすればよかった」
「やってみないと分かんないじゃん」
「想像できた」
「全部は無理でしょ」
真理子が少しだけ笑った。
「まあね」
恵はその会話を聞きながら、店の扉を開けた。
朝の涼しい風が入り込み、外を歩く人々の声が聞こえてくる。
便利なものは便利なだけではない。
人が集まれば、話も増える。
仕事も増える。
問題も増える。
でも、問題が出るたびにやめるのではなく、少しずつ直していく。
それも店を続けるということなのかもしれない。
*
昼過ぎ、カイルが来た。
いつもの席。
でも今日は座る前に、また掲示板を見た。
恵は前にも同じ姿を見ていた。
カイルは掲示板の前に立ち、何枚かの紙に目を通している。食事に来た時とは違い、その表情は少し真剣だった。
「やっぱり何か探してる?」
カイルは少し黙った。
今日は前みたいに、すぐ否定しなかった。
「……ちょっと」
「仕事?」
「仕事っていうか」
恵が聞くとカイルは少し困った顔をした。
「ギルドのことです」
香織が遠くから反応した。
「なに?」
真理子が言う。
「まだ呼んでない」
「でも聞こえた」
カイルが少し笑った。
「今度、ちゃんと相談していいですか」
恵はすぐ頷いた。
「いいよ」
「今日でもいいよ!」
香織が言うとカイルが笑う。
「今日は飯食わせてください」
恵も笑った。
「じゃあ今日はご飯」
カイルはいつもの席に座った。
でも、恵はなんとなく分かった。
次に来る時、この子はいつものどうでもいい話ではなく、ちゃんと悩みを持って来るのだろう。




