帰れないと分かっても、店は普通に開けます
帰る方法は、まだ見つからない。
そのことを改めて確認した翌朝も、恵はいつもの時間に目を覚ました。
薄いカーテンの向こうから朝の光が差し込み、部屋の中を淡く照らしている。窓の外では鳥が鳴き、遠くから荷車の車輪が石畳を転がる音が聞こえてきた。
恵はしばらく天井を見つめていた。
昨日、四人で話したことを思い出す。
元の世界に残してきた家族のこと。まだ調べられていない王都の書庫のこと。そして、これからの生活のこと。
帰れるかどうかは分からない。
それでも、昨日までと同じように朝は来る。
「……よし」
恵は小さく声を出して起き上がった。
顔を洗い、着替えを済ませて一階へ降りると、厨房から包丁の音が聞こえてきた。
真紀が作業台に野菜を並べ、朝の準備を進めていた。大きな鍋には水が張られ、仕入れた食材を置く場所も空けてある。
「おはよう」
「おはよ」
「早いね」
「仕入れ来るから」
昨日、あんな話をしたばかりなのに、会話はいつもどおりだった。
真紀は何事もなかったように作業を続けている。
その姿を見ていると、恵はなんだかおかしくなって、少し笑った。
「何?」
真紀が顔を上げる。
「いや」
「なに?」
「普通だなと思って」
「何が?」
「私たち」
真紀は少し考えてから、当然のように答えた。
「今日も店開けるんだから、普通でしょ」
「そうだよね」
恵は笑いながら、隣の作業台に立った。
*
少しして、真理子が降りてきた。
手にはいつもの帳面を持ち、何かを確認しながら厨房へ入ってくる。
その後ろから香織も姿を見せた。髪はまだ少し乱れていて、片手で寝癖を押さえている。
「おはよー」
真理子は帳面を開いた。
「昨日の仕入れ、確認するよ」
香織が椅子に座る。
「朝ご飯先にしない?」
「食べながらでいい」
「また?」
恵が笑った。
真理子は数字を確認し、香織は眠そうに目をこすっている。真紀はその横で朝食の準備を進めていた。
昨日と何も変わらない光景だった。
「何笑ってんの?」
香織が尋ねる。
「なんでもない」
「変なの」
真理子が帳面に目を落とした。
「今日、パン少し多めに来るから」
真紀が尋ねる。
「なんで?」
「昨日の客数見て増やした」
「さすが」
香織が顔を上げた。
「じゃあ私、市場行ったときに追加しなくていい?」
三人が香織を見ると香織は一瞬止まった。
「……しないよ?」
真理子が頷く。
「成長した」
「だから私だって学習するって!」
こうして言い合いながら始まる朝が、今日は少しだけありがたく感じられた。
*
開店前、セラがやってきた。
「おはようございます!」
「おはよう」
恵が答えると、セラはいつものように荷物を置き、仕事の準備を始めた。
「今日は予約が入ってますよね?」
「うん。お昼に四人」
「分かりました。先に席を整えておきます」
セラは客席へ向かい、テーブルの位置や食器を確認し始めた。
最初の頃は、何をするにも四人の誰かに尋ねていた。
それが今では、必要な仕事を自分で見つけて動いている。
真紀がその様子を見ながら言った。
「もう安心して任せられるね」
真理子も頷く。
「確認もちゃんとするし」
香織が笑った。
「うちの優秀な新人だからね」
セラが振り返る。
「聞こえてますよ!」
「褒めてるんだよ!」
恵は笑いながら、開店の準備を続けた。
*
店を開けると、常連や旅人、商人、冒険者たちが次々にやってきた。
厨房から煮込みの香りが漂い始める頃には、客席にもいつもの賑わいが戻っていた。木の椅子を引く音や食器の触れ合う音に、人々の話し声が重なっている。
カイルも少し遅れて姿を見せた。
「おはようございます」
香織が顔を上げる。
「今日遅いじゃん」
「依頼帰りです」
「ちゃんと寝た?」
「寝ました」
恵が厨房から尋ねる。
「ご飯食べた?」
カイルが笑った。
「今食べに来たんですよ」
「そっか」
セラが小声で言う。
「本当に息子みたいですね」
「聞こえてますよ」
カイルが振り返ると、香織が楽しそうに笑った。
「もう諦めなよ」
「何をですか」
カイルは呆れたように肩を落とし、いつもの席に座った。
*
昼前になると、店内はさらに賑やかになった。
恵は料理を運びながら、以前より客同士の会話が増えたことに気づいた。
「北の道、まだ使える?」
「ああ。でも雨が降ったから荷車はきついぞ」
「じゃあ東回った方がいいか」
少し離れた席では、別の話が始まっている。
「護衛探してるって?」
「三日後に出たいんだけどな」
「なら向こうの席の連中、昨日依頼終わったって言ってたぞ」
さらに奥のテーブルからも声が聞こえた。
「この前言ってた職人、見つかった?」
「見つかった。ここの客に教えてもらった」
恵は空になった皿を下げながら、客席を見渡した。
店なのに、店じゃないみたいだ。
食事をして、人と会って、仕事が決まって、情報が行き交っている。
最初はそれぞれ別のテーブルで食事をしていた客たちが、いつの間にか互いに声をかけ合うようになっていた。
そして、その中心には大抵、香織がいる。
「あ、それならあっちの人に聞いてみたら?」
また誰かと誰かをつないでいた。
紹介された客同士が早速話し始めるのを見て、香織は満足そうに笑っている。
真理子がその様子を眺めた。
「またやってる」
「もう止めても無理じゃない?」
「止める気はないけど」
「じゃあいいじゃん」
「ただ、増えすぎると面倒」
恵には、その意味がまだよく分からなかった。
人が仲良くなり、仕事が見つかる。
それは悪いことではないように思えた。
*
午後、昼の忙しさが落ち着いた頃だった。
真紀が客席の端で立ち止まっていた。
食器を下げるでもなく、壁をじっと見つめている。
恵が声をかける。
「何してるの?」
「考えてる」
「何を?」
真紀は壁を指さした。
「ここ、空いてるじゃん」
「空いてるね」
「掲示板置けないかな」
恵が首を傾げる。
「掲示板?」
「うん」
その言葉に真理子が反応した。
「何を貼るの?」
「仕事の募集とか」
香織も近づいてくる。
「いいじゃん!」
「今、客同士でずっと聞いて回ってるでしょ」
真紀が言うと恵は客席を見た。
確かに、ほぼ毎日のように似た会話を耳にしている。
誰かを探している人。
仕事を頼みたい人。
使わなくなった物を譲りたい人。
「だったら、最初から書いて貼っとけばよくない?」
「絶対便利!」
香織が笑いながら言うと真理子は黙っていた。
腕を組み、真紀が指した壁と客席を交互に見ている。
「何?」
真紀が尋ねると、真理子は言った。
「誰でも勝手に貼るの?」
「いいんじゃない?」
「駄目」
即答だった。
香織が首を傾げる。
「なんで?」
「絶対揉めるから」
「まだ置いてもないのに?」
真紀達は笑っているのに真理子はまったく笑わなかった。
「だから置く前に決めるの」
恵は、また始まったと思った。
真紀が新しいことを思いつき、真理子が問題点を探し始める。
最近では、すっかり見慣れた光景だった。
*
真理子は紙を持ってきて、作業台の端に広げた。
「まず」
真紀が嫌そうな顔をする。
「もうルール作るの?」
「作る」
「まだ板もないよ」
「だから今」
香織が笑った。
「好きだねえ」
「好きでやってるんじゃない」
「じゃあ何?」
「後から面倒になるのが嫌」
恵は頷いた。
ものすごく真理子らしい。
「で?」
真紀が尋ねると真理子は紙に書き始めた。
「貼る前に店が内容を確認する。募集の期限と連絡先は必須。決まったら外す。取引は本人同士でやってもらう」
「そこまでいる?」
真理子が顔を上げる。
「いる」
「なんで?」
「この店に貼ってあったから信用したって言われたら?」
香織が少し黙った。
「……ありそう」
「でしょ。うちは紹介する場所を用意するだけ。取引の保証まではできない」
恵にも、ようやく分かった。
人がつながるのは、いいことばかりではない。
誰かと誰かが仕事をして、もしうまくいかなかったら、そのきっかけを作った店にも話が戻ってくるかもしれない。
「じゃあ、怪しいのは貼らない?」
恵が言うと、真理子が頷いた。
「内容がおかしいものは断る。でも、全部が安全かどうかまでは判断できないから、そこは本人たちに確認してもらう」
「それならいいじゃん」
真紀が笑うと、真理子は壁を指さした。
「あと場所」
「ここ」
「料理運ぶ邪魔にならない?」
「ならない」
「本当に?」
「ならない」
真理子も壁を見た。
客席から厨房までの通路を目で追い、少し考える。
「……まあ、そこなら」
真紀が笑った。
「ほら」
「そこだけはね」
*
翌日、真紀は本当に板を用意した。
厚みのある木の板で、表面には木目が残っている。壁に取り付けられたばかりの板は、何も貼られていないせいか、客席の中で少し目立っていた。
恵が感心する。
「早いね」
「思いついたから」
真理子が板を確かめた。
「ちゃんと固定した?」
「したよ」
「何貼るの?」
香織が尋ねると、真紀が答える。
「まだない」
香織はすぐに客席を見回した。
恵は嫌な予感がした。
「何するの?」
「募集してくる」
真理子が言う。
「勝手に貼らせないで!」
「分かってるって!」
香織はさっそく客席へ向かった。
「ねえ、誰か仕事の募集とか探し物ない?」
真理子が顔を覆う。
「始め方が雑」
恵は笑った。
*
最初に貼られたのは、荷物の運搬を手伝ってくれる人の募集だった。
次に、古い家具を譲りたいという話。
その次は、短期の護衛依頼。
真理子は持ち込まれた内容を一つずつ確認した。
「期間は?」
「三日」
「報酬は?」
「これくらい」
「これじゃ分からない」
「じゃあ、いくらって書けば?」
「決まってる額」
「細かいな」
「後で揉めるから」
依頼を持ってきた男は少し面倒そうだったが、真理子に言われたとおり、条件を書き直した。
店の名前を使って勝手に約束をすることも、店が代わりに金銭を預かることもできない。
連絡や詳しい相談は、依頼した本人と希望者の間で行ってもらう。
その説明を聞いた男は、最後には納得して帰っていった。
板に紙を貼る。
たったそれだけのことだった。
けれど、何もなかった木の板に文字の書かれた紙が増えると、通りかかった客たちが足を止めるようになった。
*
翌日、最初の紙が一枚なくなっていた。
恵が気づく。
「あれ、一枚減ってる」
香織が嬉しそうに答えた。
「決まったって!」
「もう?」
「家具のやつ」
「早いね」
真理子が尋ねる。
「ちゃんと本人同士で確認した?」
「したって」
真紀は少し満足そうだった。
「やっぱ便利じゃん」
真理子が言う。
「まだ一件」
「でも便利だったでしょ」
「一件」
真紀は笑った。
*
その数日後には、掲示板に十枚近い紙が並んでいた。
仕事の募集、売買、探し物、手伝いの依頼。
紙の大きさも文字の書き方もばらばらで、中には「一緒に遠方へ行く仲間募集」と書かれたものまである。
「増えましたね」
セラが掲示板を眺めながら言うと恵も頷く。
「ね」
「食事より先に、あっちを見るお客さんもいますよ」
「それはどうなんだろうね」
真紀は少し離れたところから板を見ていた。
「いい感じ」
真理子がすぐに言う。
「貼る場所増やすのはまだ駄目」
「まだ言ってない」
「顔に出てる」
香織が笑った。
「増やしたいんだ」
「そのうちね」
恵も少し面白くなってきた。
店を始めた頃は、料理を作って客に食べてもらう。それだけだと思っていた。
今は食事に来た人が誰かと出会い、仕事の話をして、また別の人を連れてくる。
掲示板を見に来たついでに、食事をしていく客もいた。
自分たちが考えた以上の使い方を、客たちが少しずつ見つけている。
この店には、料理を出すこと以外にもできることがあるらしい。
*
その日の夕方、セラが一枚の紙を持って真理子のところへやってきた。
「知り合いが仕事を探してるんです」
「ここに貼りたいの?」
「はい。いいですか?」
真理子が内容を確認する。
「本人が来てからね」
「分かりました」
「あと、希望する仕事と条件をもう少し詳しく書いてもらって」
「聞いてきます」
セラは頷き、紙を大切そうにしまった。
恵はそのやり取りを見ていた。
セラも、もうただ仕事を教わるだけの新人ではなくなっている。
店で覚えたことを自分で考えて使い、知り合いのために動こうとしている。
香織が嬉しそうに言った。
「セラもすっかり頼もしくなったね」
「まだまだですよ」
「そんなことないって!」
セラは少し照れたように笑った。
*
閉店間際、カイルが掲示板の前に立っていた。
いつもなら食事を終えると、少し話をして帰っていく。
けれど今日は、珍しく長い時間、貼られた紙を眺めていた。
客席の片付けをしていた恵が声をかける。
「何か探してるの?」
カイルは少し間を置いた。
「いや」
「仕事?」
「違います」
香織も近づいてくる。
「じゃあ何?」
「何でもないですって」
真理子が少し離れたところから言った。
「聞かれたくないなら放っときな」
香織が口を尖らせる。
「気になるじゃん」
「本当に何でもないです」
カイルはそう言って、掲示板から離れた。
恵はその背中を見送った。
いつもなら、もう少し軽く言い返してくる。
けれど今日は、どこか様子が違っていた。
「何かあるのかな」
恵が呟くと、真紀もカイルの方を見た。
「あるかもね」
「聞いてみようか?」
香織が言うと、真理子が即答した。
「本人が話すまで待ちな」
香織は少しだけ不満そうだったが、それ以上は何も言わなかった。
恵も、その方がいいと思った。
*
客が帰り、静かになった店内で、真紀が掲示板を眺めていた。
「これ、面白くなりそう」
真理子が答える。
「面倒にもなりそう」
香織が笑った。
「どっちもじゃない?」
恵も、なんとなくそんな気がした。
人が集まれば、情報も集まる。
仕事が見つかることもあれば、思いがけない問題が起きることもあるだろう。
何より、あのカイルが何を考えていたのかも気になる。
恵は掲示板に並んだ紙を見つめた。
最初は、ただ食事をするための場所だった。
それが今では、誰かが何かを探しに来る場所にもなっている。
店をやるって、ご飯を作るだけじゃないらしい。




