帰ってきたら、やっぱりここだった
王都から戻った翌朝、恵はいつもの厨房に立っていた。
窓から差し込む朝の光が、使い慣れた調理台を照らしている。棚には見慣れた食器が並び、鍋もまな板も、出かける前と変わらない場所にあった。
ほんの少し離れていただけなのに、不思議なくらい落ち着く。
最初は何がどこにあるのかも分からなかった厨房が、今ではすっかり自分の居場所になっていた。
「なんか落ち着くね」
恵が言うと、香織がすぐに頷いた。
「分かる!」
「結局ここが一番楽」
真紀は厨房を見回しながら、棚の中を確認していた。
香織が笑う。
「帰ってきて早速チェックしてる」
「だって気になるじゃん」
隣で準備をしていたセラも笑った。
「王都でもずっとお店見てたのに」
「観光」
「まだ言うんですか」
*
店を開けると、常連たちがいつもどおりやってきた。
入口の扉が開くたび、聞き慣れた声が店内に響く。
「お、戻ったか!」
「王都どうだった?」
「何食べた?」
「店出す話、またされた?」
香織は料理を運びながら、一人ずつ楽しそうに答えていった。
「楽しかったよ!」
「人がすごかった!」
「ご飯も美味しかった!」
「店は出さない!」
最後だけ妙に力が入っている。
「そこだけは確定」
真理子が言うと、真紀も頷いた。
「今はね」
真理子が振り返る。
「今は?」
「いや、何でもない」
*
王都で食べた料理も、歩いた市場も、見たことのない街並みも面白かった。
店の造りや料理の出し方も、自分たちの食堂とはずいぶん違っていた。
それでも帰ってきて、改めて思う。
自分たちの店は、自分たちの店だ。
王都の店ほど豪華ではないし、華やかな装飾があるわけでもない。
けれど、ここには四人で考え、少しずつ作ってきた形がある。
恵は煮込みを器に盛りながら、客席へ目を向けた。
いつもの席で食事を楽しむ常連たち。注文を聞いて回る香織と、料理を運ぶセラ。
厨房からは真紀が肉を焼く香ばしい匂いが漂ってくる。
この店が好きなんだな。
恵は、そんなことを思った。
*
昼過ぎ、役所の男がやってきた。
いつもの席に座り、いつもの煮込みを注文する。
香織が料理を運びながら声をかけた。
「王都行ってきましたよ」
男が少し笑う。
「知ってる」
「なんで?」
「王都の知り合いから話が来た」
香織が首を傾げる。
「何の?」
「貴族と普通に話した女がいたって」
香織が自分を指さした。
「私?」
「他に誰がいる」
近くにいた真理子が吹き出した。
恵も厨房から顔を出す。
「そんな話まで伝わるんですか?」
「向こうの知り合いが面白がって教えてきたんだ。王都の食堂で、貴族の女性とずいぶん楽しそうに話していたらしいな」
香織は本気で不思議そうだった。
「普通に話しただけだけど」
男は苦笑した。
「相手が誰でも変わらないんだな」
「だって、刺繍の話してただけですよ?」
「それができるのがお前のすごいところなんだろうな」
香織は少し考えたあと、笑った。
「褒められた?」
「たぶんな」
*
男は煮込みを食べ進めながら、別の話を始めた。
「そういえば、王都の件なんだが」
真理子が顔を上げる。
「また二号店ですか?」
「いや、違う」
「ならいいです」
「最後まで聞け」
男は呆れたように笑ってから続けた。
「お前たちの店のやり方を知りたいという話が出ている」
四人が顔を見合わせた。
「やり方?」
真紀が尋ねる。
「仕入れの管理や新人の教育、料理の量を揃える方法、客の回し方なんかだな。そういう店の運営について、詳しく聞いてみたいらしい」
恵は少し困った顔をした。
「そんな大したことしてないですけど」
男が深くため息をついた。
「まだ言うのか」
ちょうど食事に来ていたカイルが笑う。
「もう諦めた方がいいですよ」
セラも頷いた。
「皆さん、本気でそう思ってますから」
男は四人を順番に見た。
そして、少し笑った。
「分かった」
「何が?」
「お前たちに、自分たちが何をしているか説明させるのは無理だ」
真理子が言う。
「失礼ですね」
「事実だろう」
恵は否定できなかった。
*
それから、町の中でも少しずつ変化が見られるようになった。
料理の量を揃えるために、盛り付ける分量を決めた店。
食材の仕入れを定期的に頼むようになった店。
新人に仕事を教えるため、作業の手順を書き出し始めた店。
客席の動きを見直し、テーブルの配置を変えた店もあった。
香織が外で聞いてきた話を伝えるたび、四人はそれぞれ感想を口にした。
「へえ」
「いいんじゃない?」
「便利だよね」
自分たちが特別なことをしているという感覚は、相変わらずなかった。
ある日、その話を聞いたカイルが言った。
「それ、皆さんの影響ですよ」
真紀が首を傾げる。
「そうかな」
「そうですよ」
「でも、みんな自分で考えて変えたんでしょ?」
カイルは少し考えてから答えた。
「まあ、そうですけど」
「じゃあ、その人たちがすごいんじゃない?」
カイルは何か言いかけて、やめた。
「……もういいです」
香織が笑う。
「諦めた?」
「ちょっとだけ」
*
ある日の午後、昼の忙しさが落ち着いた頃だった。
老人が恵に声をかけた。
「お前さんたち」
「はい?」
「この世界に来て、どのくらいになる?」
恵は少し考えた。
老人には、ここで暮らし始めて間もない頃、自分たちが別の世界から来たことを打ち明けていた。
最初は驚いていたものの、老人は詳しく問い詰めることもなく、四人をそのまま受け入れてくれた。
それ以来、老人の方から元の世界について尋ねてくることは、ほとんどなかった。
「結構経ちましたね」
恵が答えると、老人は静かに頷いた。
「帰る方法は、見つかったのか?」
恵は言葉に詰まった。
そういえば、最近はその話をほとんどしていなかった。
最初の頃は、帰る方法がないか何度も話し合っていた。
けれど店を始めてからは、毎日の仕事に追われるようになった。
気づけば、帰る方法を探すことよりも、明日の仕込みや店の営業について考える時間の方がずっと長くなっていた。
「……まだです」
老人は恵の顔を見た。
「そうか」
それ以上、何も言わなかった。
*
その夜、四人は久しぶりに元の世界へ帰る方法について話した。
営業を終え、セラも帰ったあとの店内には、四人だけが残っていた。
香織が口を開く。
「そういえばさ」
「うん」
「私たち、帰れるのかな」
真紀は少しだけ黙った。
この世界に来た最初の日、帰り方が分からないことは何よりも大きな問題だった。
今も解決していないはずなのに、いつの間にかその問題を考える時間が減っていた。
「一回、ちゃんと調べようか」
真理子が言うと恵が頷く。
「そうだね」
「今まで聞いた話も、もう一回整理した方がいいかも」
真紀が言うと、香織が立ち上がった。
「じゃあ、調べよ」
*
まず、カイルに聞いてみることにした。
翌日、店にやってきたところを香織が捕まえる。
「ねえ、異世界から来た人って聞いたことある?」
カイルはしばらく考えた。
「ないですね」
「昔話とかでも?」
「あるかもしれないですけど、俺は知らないです」
「どこで調べられるかな?」
「王都の書庫とかですかね。古い記録が残ってるかもしれないですし」
四人が顔を見合わせた。
「また王都行く?」
香織が笑いながら聞くと真理子が答える。
「今度は遊びじゃないよ」
真紀が少し笑った。
「でも、ついでに遊ぶ?」
「調べてから」
恵は思った、王都へ行く理由が、また一つ増えた。
*
ただ、すぐに王都へ行くわけにもいかなかった。
店の営業もあるし、書庫で何を調べられるのかも分からない。
そこで四人は、まず身近なところから情報を集めることにした。
役所の男や老人、店に立ち寄る旅商人。
古い話に詳しい人や、各地を旅している冒険者にも尋ねた。
特に香織は、誰と話していても自然にその話題を持ち出した。
「昔、別の世界から来た人って聞いたことあります?」
相手が知らないと言えば礼を伝え、別の話を知っていそうな人がいれば紹介してもらう。
そうして何人にも聞いてみたものの、返ってくる答えは似たようなものだった。
聞いたことがない。
昔話にはあるかもしれない。
遠い土地には、不思議な伝承が残っているらしい。
けれど、実際に別の世界から来た人を知っている者はいなかった。
まして、元の世界へ帰ったという話は一つも見つからない。
真理子は集まった情報を帳面に書き留め、分かっていることと分かっていないことを整理していった。
*
数日後、四人は再び店に集まっていた。
真理子が帳面を閉じる。
「今のところ、帰る方法は見つからないね」
三人は黙って頷いた。
「王都の書庫はまだ調べてないし、他にも知らない場所はたくさんある」
真理子は続けた。
「だから帰れないって決まったわけじゃない。でも、いつ帰れるかも分からない」
恵はその言葉を聞きながら、静かに息を吐いた。
誰も泣かなかった。
誰も取り乱さなかった。
けれど、何とも思っていないわけではない。
四人とも、しばらく言葉を探していた。
*
最初に口を開いたのは香織だった。
「子どもたち、元気かな」
恵が頷く。
「元気だといいね」
「うち、六人いるんだけどさ」
香織は少し笑った。
「みんなで何とかしてるかな」
「してると思うよ」
真紀が答える。
「でも、気にはなるよね」
「なるよ。そりゃ」
香織は笑いながらも、少しだけ寂しそうだった。
恵も娘と息子の顔を思い浮かべた。
二人とも、もう大人になっている。
自分がいなくても生活できる年齢だ。
それでも、元気にしているのか、困ったことはないか、考え始めればきりがない。
王都で写真を撮りたいと言ったときも、家族と出かけた日のことを思い出した。
会いたい気持ちがなくなったわけではない。
ただ、今はどうすることもできない。
真紀がぽつりと言った。
「うちの息子も、元気にしてるかな」
「元気だといいね」
恵が答えると、真紀は静かに頷いた。
香織が真理子を見る。
「あなたも息子いるじゃん」
「いるよ」
「心配じゃない?」
真理子は少し考えた。
「心配だよ」
香織が意外そうな顔をする。
「そこは普通に答えるんだ」
「何だと思ってるの」
「いや、心配しても仕方ないとか言うかなって」
「心配したところで何も変わらないのは分かってる。でも、心配はするでしょ」
真理子が小さく笑うと香織も笑った。
「そうだよね」
*
しばらく、静かな時間が流れた。
恵は店の中を見回した。
この世界に来た最初の日、自分たちには何もなかった。
お金も、仕事も、家も。
知り合いも、帰る方法も。
それが今は、こうして店を持ち、毎日働いている。
老人がいて、セラがいる。
顔なじみの常連たちがいて、息子のようにからかわれる冒険者までいる。
そして何より、友人三人が一緒にいる。
元の世界へ帰りたい気持ちは、これからも消えないだろう。
それでも、ここでの生活を止めるわけにはいかない。
「帰る方法、見つかるかな」
恵が呟くと、真理子が答えた。
「分からない」
「そっか」
「でも、調べることはできるよ」
「王都の書庫も行ってみよう」
真紀が頷くと香織が笑う。
「また旅行だね」
「今度は調べ物」
「分かってるって」
恵は少し笑った。
帰れるかもしれない。
帰れないかもしれない。
どちらも、まだ分からない。
真紀が少し考えてから口を開いた。
「じゃあ」
三人が顔を向ける。
「明日も店開けよっか」
恵は笑った。
「そうだね」
「開けよ開けよ」
香織も頷く。
真理子が何気なく言った。
「仕込み、まだ終わってないけど」
三人が一斉に振り返った。
「今言う?」
真理子は当然のように答える。
「明日開けるなら必要でしょ」
真紀が立ち上がった。
「じゃあやろ」
恵も椅子から腰を上げる。
「はいはい」
香織が笑いながら袖をまくった。
「第二の人生、忙しいね」
「そうだね」
予定していた第二の人生とは、ずいぶん違う。
四人で旅行に出かけて、見知らぬ世界に迷い込み、気づけば食堂を経営している。
元の世界へ帰る方法は、まだ分からない。
それでも、明日の営業は待ってくれない。
恵はまな板を取り出し、いつもの場所に置いた。
真紀が食材を用意し、香織が隣で手伝い始める。真理子は明日の必要量を確認していた。
四人で交わす何気ない会話が、厨房に響く。
こんな生活になるなんて、誰が想像しただろう。
でも、悪くない。
むしろ、かなり面白い。
恵はそう思った。
そして翌朝、いつもの時間に四人は店の扉を開けた。




