王都から話が来ても、やらないものはやらない
店の外にまで、少しずつ影響が広がり始めた頃。
その話は、思っていたより早くやってきた。
きっかけは、いつもの役所の男だった。
昼過ぎ、男はいつもの煮込みを食べ終えても、席を立とうとしなかった。
普段なら食事を済ませると、そのまま帰っていく。けれど、その日は空になった皿を前に、何かを考えている様子だった。
「今日は、話がある」
香織がすぐに反応した。
「珍しいですね」
「いつも飯だけ食べに来てるみたいに言うな」
「だいたいそうじゃないですか」
男は少しだけ笑った。
真理子が帳面から顔を上げ、真紀も厨房から出てきた。
恵は何となく嫌な予感がした。
香織が空いている椅子を引く。
「じゃあ座ります?」
「もう座ってる」
「あ、そっか」
真理子が小さくため息をついた。
「で、話って?」
男は少し姿勢を正した。
「王都から、この店の話を聞きたいという者が来ている」
四人の動きが止まった。
最初に口を開いたのは香織だった。
「うち?」
「他にどこがある」
恵は思わず真紀を見た。
真紀は思っていたより落ち着いた顔をしている。
「何の話ですか?」
真理子が尋ねると、男は四人を見渡した。
「王都で店を出さないか、という話だ」
一瞬、誰も何も言わなかった。
恵は聞き間違えたのかと思った。
香織が目を丸くする。
「王都?」
「そうだ」
真紀が尋ねた。
「二号店ってこと?」
「そう考えてもらえばいい」
真理子はすぐに口を開いた。
「条件は?」
男が少し笑う。
「そこから聞くのか」
「大事なので」
真理子らしい。
恵は少しだけ安心した。
*
男が王都から聞いてきた話は、悪い条件ではなかった。
むしろ、かなり良かった。
出店先として考えられているのは、王都でも人通りの多い場所らしい。開店に必要な費用の一部を負担し、食材の調達や開店時の告知にも協力するという。
男は持参した紙を広げながら、聞いてきた内容を順番に説明した。
「すごくない?」
香織が言うと、恵も頷いた。
「すごいね」
王都がどんな場所なのか、恵にはまだよく分からない。それでも、これだけの支援を用意して店を出してほしいと言われるのは、簡単なことではないはずだった。
けれど、真理子は黙って紙を見ていた。
真紀も腕を組んだまま、何も言わない。
男が尋ねる。
「どうだ?」
香織と恵が二人を見た。
しばらくして、真紀が口を開いた。
「やらない」
男の手が止まった。
恵も少し驚いた。
「え?」
真理子だけは特に驚いた様子もなく、帳面を閉じた。
男が聞き返す。
「条件が不満か?」
「いや」
「ではなぜ」
真紀は店内を見回した。
セラが客席を片付け、香織が水差しを持ってテーブルを回っている。真理子の帳面が置かれた会計台の向こうには、恵が毎日使っている厨房があった。
奥では老人が、片付け終えた食器を棚に戻している。
少しずつ慣れてきた、いつもの店の風景だった。
「まだ無理だから」
男が眉を寄せる。
「無理?」
「この店だって、やっと回るようになってきたとこだし」
真理子が静かに頷いた。
真紀は続ける。
「今ここ抜けて、王都の店作ったら誰がこっち見るの?」
香織が少し考えた。
「私たち行ったり来たりすれば?」
「無理」
真理子が即答する。
香織が振り返った。
「早い」
「距離も分からない。人も足りない。仕入れも別、帳簿も別。店長を任せられる人もいない」
真紀が頷く。
「そういうこと」
男は少し意外そうな顔をした。
「人を雇えばいい」
真紀が答える。
「雇っただけじゃ店はできないでしょ」
その一言だけは、少し強かった。
恵は真紀の横顔を見た。
いつも冗談を言って、思いついたことをすぐ試そうとする。そんな真紀が、今は誰よりも慎重に店のことを考えていた。
この人は本当に、店を経営するということを分かっているんだな。
恵は改めてそう思った。
*
香織は少し考えてから尋ねた。
「でも王都って、そんなにすごい場所なんでしょ?」
男が頷く。
「この町とは比べものにならん。人も店も多いし、商売の規模も違う」
「へえ!」
香織の目が輝いた。
「楽しそう」
恵も少し思った。
一度くらい見てみたい。
見たことのない大きな街に、どんな店が並んでいるのだろう。市場には、この町では手に入らない食材もあるかもしれない。
けれど、そこで店を出すとなれば話は別だった。
男が真紀を見る。
「本当に断るのか?」
「断る」
「即答だな」
「できないものやっても仕方ないじゃん」
真理子も口を開いた。
「あと、今はこの店の数字を安定させる方が先です」
男が真理子を見る。
「今、儲かっているんだろう?」
「儲かってるから増やす、は危ないです」
男は少し黙った。
恵には、その感覚が何となく分かった。
家事も同じだった。
余裕がある日に、あれもこれもと予定を詰め込みすぎると、結局あとで苦しくなる。
できるときほど、やりすぎない。
長く続けるためには、それも大事なことだった。
*
男はしばらく四人を見ていた。
そして少し笑った。
「変わってるな」
香織が言う。
「また言われた」
「普通なら喜んで受ける話だ」
「普通でも無理なもんは無理」
真紀が言うと、真理子も続けた。
「今やったら、この店も王都も両方中途半端になります」
男はゆっくり頷いた。
「その言葉、伝えておく」
香織が少し残念そうに言う。
「王都、行ってみたかったな」
「旅行で行けばいいじゃん」
恵が言うと、香織の顔が明るくなった。
「それいい!」
真理子がすぐに口を挟む。
「店閉める日考えてから」
「やっぱ現実的だね」
「当たり前」
四人が笑うと、男も少しだけ笑っていた。
*
その日の夜、四人は店で夕食を食べながら、王都の話をしていた。
昼間の賑わいが嘘のように、店内には穏やかな静けさが戻っていた。
「でも本当にすごい話だよね」
香織が言うと、恵も頷いた。
「ね」
「王都に二号店だよ?」
「うん」
「ちょっとやってみたくならなかった?」
真紀は少しだけ考えた。
「ちょっとは」
真理子がすぐに顔を上げる。
「ちょっとは?」
「でも今じゃない」
「それならいい」
香織が笑った。
「真理子が奥さんみたい」
「やめて」
恵も笑う。
「いつかやりたくなるかもね」
真紀が頷いた。
「そのときは、ちゃんと準備してからね」
「条件が揃ってから」
真理子が付け加える。
「はいはい」
「返事が軽い」
いつもの会話だった。
王都に店を出すなんて、少し前の自分たちなら想像もしなかった話だ。
それなのに、今こうして四人で夕食を食べている時間は、何も変わらない。
恵には、そのことが何だか嬉しかった。
*
翌日、カイルが店にやってきた。
いつもの席に座り、いつもの煮込みを大盛りで注文する。
恵が料理を運ぶと、カイルが顔を上げた。
「王都の話、断ったんですよね?」
「知ってるの?」
「役所の人から聞きました」
香織が笑う。
「情報早いね」
「この町狭いんですよ」
カイルは少し不思議そうに四人を見た。
「もったいなくないですか?」
真紀が尋ねる。
「何が?」
「王都ですよ」
「うん」
「店出したら、もっと儲かるかもしれないのに」
真紀は少し笑った。
「かもしれないで店増やさないよ」
カイルが言葉に詰まる。
それを見た真理子が言った。
「今の店が崩れたら意味ないから」
恵も頷く。
香織は少し考えてから口を開いた。
「でも遊びには行きたい」
カイルが笑う。
「それは行けばいいじゃないですか」
「案内してよ」
「なんで俺が!?」
「行ったことあるんでしょ?」
「ありますけど!」
恵は思わず笑った。
本当にこの子は、何を言ってもちゃんと返してくれる。
*
それから数日。
王都の話は、店の常連たちにも広まっていった。
「断ったのか?」
「なんで?」
「王都だぞ?」
何人にも聞かれた。
そのたびに、四人の答えはだいたい同じだった。
「今は無理だから」
それだけ。
大きな夢がないわけではない。
向上心がないわけでもない。
ただ、今できることをちゃんとやりたい。
目の前の店を、もっと良くしていきたい。
四人が考えていたのは、そんなことだった。
*
そんな話が落ち着いた頃、香織が店の入口から勢いよく顔を出した。
「ねえ!」
厨房で野菜を切っていた恵が顔を上げる。
「何?」
「予約の問い合わせ!」
真理子がすぐに尋ねた。
「何人?」
香織が満面の笑みを浮かべる。
「五十!」
店の中が完全に止まった。
真紀が振り返る。
「五十?」
「うん!」
恵はゆっくり包丁を置いた。
「誰?」
香織はものすごく楽しそうに答えた。
「騎士団!」
沈黙。
真理子が目を閉じた。
「……王都の店断ったばっかりなのに?」
香織が頷く。
「そう!」
恵は調理台に手をついた。
「なんでそうなるの」
ちょうど食事をしていたカイルが、端の席から口を挟んだ。
「この店、もう王都行かなくても向こうから来るんじゃないですか?」
真紀が少し笑った。
「それなら楽じゃん」
真理子が睨む。
「楽ではない」
「全然楽じゃない!」
恵の叫び声を聞きながら、香織はまだ笑っている。
「でも五十人だよ?」
「だからだよ!」
店内に笑い声が広がった。
王都への二号店は断った。
店を増やす気も、今のところない。
それなのに、店の方は勝手にどんどん大きな話を連れてくる。
恵は何となく思った。
たぶんこの店は、自分たちが思っているよりも、ずっと遠くまで知られ始めている。




