店の外まで、勝手に変わり始める
セラが入ってから、店は少しだけ楽になった。
本当に少しだけ。
「水お願い!」
「はい!」
「四番片付け!」
「やります!」
「パン追加!」
「持っていきます!」
恵は厨房で煮込みを皿に盛りながら、思わず笑った。
「一人いるだけで全然違うね」
真紀が頷く。
「違う」
会計を終えた真理子が、帳面に数字を書き込みながら言った。
「だから人件費には意味があるの」
香織が笑う。
「誰も無駄って言ってないじゃん」
「真紀が最初、人増やすより四人で回せるって言ってた」
真紀が振り返った。
「最初は回せたじゃん」
「今は?」
「無理」
「素直」
セラが客席から戻ってきた。
「三番、水追加です」
「ありがとう」
恵が答えると、セラはそのまま香織のところへ向かった。
もう誰に何を聞けばいいのか、かなり分かってきている。
働き始めてまだそれほど経っていない。それでも店の中では、ちゃんと五人目になり始めていた。
*
その日の昼、カイルが店にやってきた。
セラが手際よく食器を運んでいるのを見るなり、感心したように言う。
「完全に慣れてる」
「少しだけ」
セラが照れたように笑うと、香織が横から口を挟んだ。
「あなたより店員っぽいよ」
「本物の店員ですからね!」
恵も笑った。
「あなたもかなり店員っぽいけど」
「俺は客です」
真紀が厨房から声をかける。
「その箱だけ運んで」
「ほら!」
カイルの抗議に、店内から笑い声が上がった。
結局、カイルは文句を言いながらも箱を運んでくれた。
*
昼のピークが終わった頃、入口に見慣れない男が立っていた。
旅慣れた様子の服装で、肩には使い込まれた鞄を提げている。店内を見回す目つきは、客というより何かを確かめに来た人のようだった。
香織がすぐに近づく。
「いらっしゃいませ」
男は少し迷ったように店内を見た。
「食事じゃないんだ」
「じゃあ何です?」
「店主と話したい」
真紀が厨房から顔を出した。
「私?」
男は少し驚いた。
「……あんたが?」
「そうだけど」
「この店の?」
「うん」
男は真紀を見てから、恵、真理子、香織、セラへと視線を移した。奥にいる老人にも目を向け、ますます分からないという顔をする。
「誰が店主なんだ?」
真紀がもう一度答えた。
「私」
香織が笑う。
「一応ね」
「一応って何」
「経営判断はこの人」
真理子が補足すると、恵も頷いた。
「そうだね」
男はしばらく四人を見比べていたが、やがて諦めたように息を吐いた。
「……まあいい」
真紀が笑う。
「で、何?」
男は少し姿勢を正した。
「肉の仕入れについて話をしたい」
真理子がすぐに顔を上げた。
香織も反応し、真紀は少しだけ目を細める。
「どういう話?」
「うちから買わないか」
*
男は少し離れた場所で商いをしており、肉や乾物、保存のきく食材などを扱っているらしい。
話を聞くことになり、空いているテーブルに腰を下ろした。
「この店、最近客が増えてるだろ」
「まあ」
真紀が答える。
「祭りでも売れた」
真理子が男を見たが、彼は構わず続けた。
「だから、定期で入れたい」
香織がすぐに尋ねる。
「なんでうち?」
男は笑った。
「売れる店に卸したいのは普通だろ」
「なるほど」
香織が頷く横で、真理子はすでに紙を取り出していた。
「値段は?」
男が少し言葉を詰まらせる。
「いきなりそこか」
「大事なので」
「量による」
「最低量は?」
「これくらい」
「納品は?」
「週に二度」
「品質にばらつきは?」
「多少はある」
「どの程度?」
質問が重なるにつれ、男の顔つきが少しずつ真剣になっていった。
真紀は持参された肉を見せてもらった。
包みを開くと、切り分けられた赤身の肉が並んでいる。真紀は一切れを手に取り、厚みや脂の入り方を確かめた。
恵も横から覗き込む。
「今のより少し固そうだけど、煮込みならいけそう」
真理子が尋ねた。
「焼く方は?」
「試さないと分かんない」
男は少し驚いた。
「買う前に試すのか?」
真紀が即答する。
「そりゃそうでしょ」
「普通は値段で決める店も多いぞ」
「うちは味も見る」
恵も頷いた。
「毎日出すものだからね」
男は少し黙り、それから小さく頷いた。
*
その日の営業後、商人から試しに買った肉を調理し、みんなで味を確かめることになった。
参加するのは四人とセラ、それに老人だ。
厨房では真紀が肉を焼き、恵が別の鍋で煮込みを作っている。熱した鉄板に肉を置くと、じゅっと音がして香ばしい匂いが立ち上った。
焼き上がった肉は表面にきれいな焼き色がついていたが、切ってみると少し弾力が強い。
恵は一口食べ、ゆっくり噛んだ。
「焼くとちょっと固い」
真紀が尋ねる。
「煮込みは?」
恵は鍋から取り分けた肉を口に運んだ。
長く煮込んだ肉は繊維がほぐれ、煮汁の味もしっかり染みている。
「悪くない」
「煮込み用ならあり」
真紀が言うと、真理子が帳面を見ながら口を開いた。
「今より安い」
「どれくらい?」
真理子が数字を見せると、真紀は少し考えた。
「じゃあ煮込みだけ変える?」
恵も頷く。
「それなら味もそんなに変わらない」
老人が肉を食べながら言った。
「昔は肉なんて全部同じところから買っとったぞ」
「それで問題なかったなら、それはそれでいいんです」
真理子が答えると、老人は首を傾げた。
「今は違うのか?」
真紀が説明する。
「料理によって向いてる肉違うから」
「そんなもんか」
「そんなもん」
セラは二種類の肉を食べ比べながら、少し感心したように言った。
「私、焼いた肉の違いは何となく分かるんですけど、煮込みだとあまり分からないです」
恵が笑う。
「美味しければいいよ」
「そうなんですね」
「でも作る側は知ってた方がいい」
「なるほど」
真理子が値段を書き込み、真紀が仕入れの量を考えている。
セラはその様子を眺めていた。
「こうやって決めてるんですね」
真紀が首を傾げる。
「普通じゃない?」
セラが少し笑った。
「皆さん、本当によく普通って言いますね」
恵も笑った。
言われてみれば、確かにそうだった。
*
数日後、新しい仕入れ先から煮込み用の肉が届いた。
量は注文どおりで、状態にも大きなばらつきはない。試しに仕込んだ煮込みも、これまでと変わらない味に仕上がった。
真理子は納品された量と金額を確認し、満足そうに頷いた。
「これなら続けられる」
「煮込みはこれでいいね」
真紀の言葉に、恵も頷く。
「味も問題ない」
香織が笑った。
「じゃあいいことばっかりじゃん」
「まだ」
真理子が答える。
「何?」
「今の肉屋さんとの関係もある」
香織が少し驚いた。
「そこ?」
「全部切り替えるわけじゃないでしょ」
「焼く方は今までの方がいい」
真紀が言うと、香織が笑った。
「じゃあ両方から買えばいいじゃん」
「それでいく」
真理子が頷く。
「簡単」
「簡単に言うな」
恵は笑った。
でも、本当にそうやって店は少しずつ変わっていく。
何か一つを全部変えるのではなく、いいものは残して、使えるものを増やしていく。
恵はそれが、この店らしいと思った。
*
それから、変化は店の外にも出始めた。
最初はパン屋だった。
ある日、香織が仕入れに行くと、店主に声をかけられたらしい。
「最近、食堂で出すパンの大きさ決まってるんだって?」
「うん」
「毎回同じなのか?」
「だいたい」
「じゃあ、こっちで同じ大きさにして渡そうか?」
香織はその場で返事をしなかった。
珍しく。
「真理子に聞いてくる」
そう言って店に戻ってきた香織から話を聞き、真理子は感動したような顔をした。
「成長した」
香織が怒る。
「私だって学習するよ!」
*
次は肉屋だった。
決まった量を定期的に買うようになったことで、店側も用意する量を考えやすくなったらしい。
「この曜日に、これくらい」
そんなやり取りが、少しずつ当たり前になっていく。
さらに香織が知り合った別の商人まで、
「うちもそうしてみようかな」
と言い始めた。
恵には最初、何がそんなに珍しいのか分からなかった。
決まった日に必要な量を頼み、足りなければ調整する。
家でも似たようなことはしてきた。
冷蔵庫の中身を確認して、家族が何を食べるか考え、足りないものを買いに行く。
毎日料理をしていれば、自然と身につくことだった。
だから本人には、特別なことには思えなかった。
*
ある日の昼、役所の男がやってきた。
いつもの煮込みを注文する常連客だ。
最近では注文を聞く前に、香織が分かってしまう。
「いつもの?」
「……もう否定しない」
男は苦笑しながら席に着いた。
やがて料理が運ばれてくると、湯気の立つ煮込みを食べながら店内を見回した。
セラが食器を運び、香織が客と話している。真理子は帳面を確認し、真紀は厨房と客席の様子を見ながら次の作業を考えていた。
恵は厨房で料理を作っている。
「聞いたぞ」
男が言うと、香織が聞き返した。
「何を?」
「市場で、定期の仕入れが増えてるらしいな」
真理子が顔を上げた。
「うちの話?」
「お前たちが始めたせいで、他の店も真似してる」
四人が顔を見合わせた。
「いいんじゃない?」
真紀が言うと、男は笑った。
「それだけか?」
「便利ならやればいいじゃん」
「自分たちだけのやり方にしようとは思わないのか?」
真理子が首を傾げた。
「なんで?」
男は少し驚いた。
恵も質問の意味がよく分からなかった。
仕入れが便利になれば、商人も店も助かる。
自分たちだけが得をする必要はないと思う。
「みんな楽になるならよくない?」
香織が答えると、男は四人を順番に見た。
しばらく何も言わず、それから呆れたように笑った。
「……本当に変わってるな」
恵も笑う。
「よく言われるようになりました」
「自覚はあるんだな」
「そういう意味じゃないです」
香織が吹き出し、真紀も笑った。
男は首を振りながら、残りの煮込みを口に運んだ。
*
その日の夜、セラが帰ったあと、四人は店で夕食を食べていた。
昼間の賑わいが嘘のように、店内には穏やかな静けさが戻っていた。
「私たち、何か変なことしてる?」
恵が尋ねると、真理子が答えた。
「してないと思う」
「普通に店やってるだけ」
香織と真紀も頷く。
「だよね」
恵は少し考えた。
でも、町の人から見れば違うらしい。
必要な量を決める。値段を見る。味を確かめる。
役割を決めて、困ったら人に頼る。
客と話し、売れたものを残して、売れないものを変える。
恵にとっては、どれも誰かが今までの人生でやってきたことだった。
「でもさ」
恵が口を開くと、三人が顔を上げた。
「私たちが普通だと思ってることって、たぶん四人とも違うんだね」
香織が首を傾げる。
「どういうこと?」
恵は笑った。
「私には、人とあんなに話すの普通じゃないし」
香織を見る。
「私は普通だけど」
「でしょ?」
次に真理子を見た。
「数字あんなにずっと見るのも普通じゃない」
「普通だけど」
「でしょ?」
最後に真紀を見る。
「店入って五分で動線見るのも普通じゃない」
「見るでしょ」
三人が笑った。
恵は最後に自分の手を見た。
「私も何かあるのかな」
香織が即答する。
「あるでしょ」
「いっぱいあるじゃん」
真紀もそう言うと、恵は少し驚いた。
「何?」
三人が同時に考え込んだ。
恵が笑う。
「すぐ出ないじゃん」
「いや、ありすぎて」
香織が言うと、真理子が続けた。
「毎日飯作って、家回して、子ども二人育てて」
「冷蔵庫見ただけで何作るか決めるじゃん」
真紀が言うと、恵は首を傾げた。
「それは普通でしょ?」
三人が恵を見る。
そして同時に言った。
「ほら」
恵はしばらく意味が分からなかった。
でも少しして、四人で笑った。
*
その夜、二階へ上がる前に、恵は暗くなった店内を振り返った。
窓から差し込む月明かりが、磨かれたテーブルの端を淡く照らしている。昼間は人でいっぱいだった客席も、今は静まり返っていた。
店を始めたとき、自分たちは何も持っていないと思っていた。
お金も、家も、仕事も。
この世界で使える知識さえ、ほとんどないと思っていた。
でも、本当は何もなかったわけではない。
持ってきたものが、目に見えなかっただけ。
何十年も、それぞれ違う場所で、普通だと思って積み重ねてきたもの。
それが今、少しずつ店の外にまで広がり始めていた。




