祭りのあとに残るもの
祭りの翌日、恵はいつもよりずっと遅く目を覚ました。
身体が重い。腕も足も、昨日の疲れが抜けていない。寝返りを打つだけでも、あちこちの筋肉が痛んだ。
何より、今日は厨房に立ちたくなかった。
「……今日は休みたい」
布団の中でぽつりと呟くと、廊下の向こうから声がした。
「私も!」
香織だった。恵は思わず笑った。
「珍しいね」
「昨日、しゃべりすぎた!」
「そこ?」
「あと、立ちっぱなし!」
別の部屋から真理子の声も聞こえてきた。
「今日は午前休みにする?」
恵はすぐに返した。
「する!」
けれど、真紀の声だけが聞こえない。
嫌な予感がして、恵は重い身体を起こした。
*
一階へ降りると、真紀はすでに厨房にいた。
「……何してるの?」
「昨日の片づけ」
「休む話してたよ?」
「聞こえてた」
「じゃあ、なんでやってるの」
「気になるから」
恵はため息をついた。
「あなた、本当に止まれないね」
「でも、営業はしないよ」
「それならまあ……」
真紀は昨日使った串の箱や、空になった食材容器を整理していた。作業台には洗い終えた道具が並び、祭りの名残がまだあちこちに残っている。
少しして、真理子と香織も降りてきた。
香織は髪を適当にまとめ、いつもよりずっと気の抜けた格好をしている。
「今日は顔作らない」
真理子が言う。
「誰も見ないからいいんじゃない」
「そういう意味で言ったんじゃない」
老人はすでに起きていて、店の端でお茶を飲んでいた。
「昨日はよく働いたな」
恵は近くの椅子に腰を下ろした。
「もう二度とやりたくない」
「来年もやるでしょ」
真紀の言葉に、恵はじろりと睨み返した。
「今それ言わないで」
「私はやりたい!」
香織が笑顔で言うと、真理子が口を挟んだ。
「来年の話は売上を見てから」
恵はテーブルに突っ伏した。
「全員やる気あるじゃん……」
*
午前中は店を閉めることにした。
四人は遅い朝食を囲んだ。昨日残ったパンに、温め直したスープと少しだけ残った煮込み料理。
豪華な食事ではなかったが、今の恵にはそれで十分だった。
「こういうのでいいんだよ」
パンをちぎりながら言うと、香織も頷いた。
「今日は人に出さなくていいご飯がいい」
そのとき、真理子が帳面を持ってきた。
恵は露骨に嫌な顔をした。
「今?」
「今」
「食べながら?」
「数字を見るだけ」
真紀はすぐに身を乗り出した。
「昨日、どれくらいだった?」
「かなり良かった」
香織が笑う。
「それ、昨日も言ってた」
「昨日はざっくり。今日はちゃんと」
真理子は帳面を開き、売上と仕入れの数字を確認していく。
通常営業の売上、予約分、肉串の売上。食材費に追加で買ったパンの代金、手伝いに入ったカイルへの賃金。
恵は数字が並ぶ紙を見ているだけで、頭が痛くなりそうだった。
「よくそんなの朝から見られるね」
「朝だから見るの」
「私は無理」
「知ってる」
真紀が待ちきれない様子で尋ねた。
「で?」
真理子は最後の計算を終え、顔を上げた。
「昨日は、かなり利益が残った」
「やったじゃん!」
香織が声を上げる。
けれど、真理子はすぐに続けた。
「でも、通常営業と同じ感覚で見ないでね」
「なんで?」
真紀が尋ねる。
「祭りだから」
「一日だけの数字ってこと?」
「そう。昨日売れたからって、今日も同じように売れるとは限らない」
恵は頷いた。
「それはそうだよね」
香織が笑顔で尋ねる。
「じゃあ、祭りは成功ってことでいい?」
真理子は帳面を閉じ、少しだけ笑った。
「成功」
「やった!」
香織が両手を上げた。
一方、真紀はすでに別のことを考えているようだった。
真理子がすぐに気づく。
「来年の改善案、考えないで」
「まだ何も言ってない」
「顔に出てる」
*
昼近くになり、店の前から声がした。
「今日、休みですか?」
聞き覚えのある声に恵が顔を上げ、扉を開けると、そこにはカイルが立っていた。
「今日は午前休み」
「やっぱり」
「どうしたの?」
「昨日の賃金をもらいに来ました」
奥から真理子が声をかける。
「用意してあるよ」
カイルが店に入ると、香織が笑顔で迎えた。
「昨日はありがとね」
「いや、俺も楽しかったです」
恵が笑う。
「本当に?」
「途中、ちょっと後悔しましたけど」
「どこで?」
「全部です」
四人が声を上げて笑った。
真理子が用意していた小さな袋を渡すと、カイルは中を確かめて少し驚いた顔をした。
「……多くないですか?」
「決めた分だよ」
「でも、飯も食べましたよ」
「それ込み」
カイルは少し困ったように笑った。
「本当にちゃんとしてるんですね」
真理子が首を傾げる。
「何が?」
「こういうの」
「働いてもらったんだから、払うだけでしょ」
「普通ですよね」
カイルが言うと、真理子は当然のように頷いた。
「普通」
恵と香織と真紀が、同時に真理子を見た。
真理子は眉を寄せる。
「何?」
「また普通って言った」
「普通でしょ」
香織が笑うと、カイルもつられて笑った。
「この店の普通、基準が高いんですよ」
真理子は本気で分かっていない顔をしていた。
*
賃金を受け取ったあとも、カイルはしばらく店に残っていた。
「今日、仕事ないの?」
恵が尋ねる。
「午後からです」
「じゃあ、今は暇?」
香織が聞くと、カイルは嫌そうな顔をした。
「その聞き方、仕事を振るやつですよね」
「店の前だけ掃いて」
「ほら!」
真紀が笑うと、恵もつられて笑った。
「無理ならいいよ」
カイルはため息をついた。
「……ほうき、どこですか」
香織が嬉しそうに言う。
「息子だ」
「違いますって!」
*
午後から店を開けた。
祭りの翌日だから、さすがに客は少ないだろう。
恵はそう思っていた。
ところが、開店してすぐに一組の客が入り、そのあとも二組、三組と続いた。
その中には、昨日見かけた顔もあった。
「昨日、串焼きを買ったんだけど」
香織がすぐに反応する。
「あ、ありがとうございます!」
「店の料理も食べてみようと思って」
真紀と真理子が、一瞬顔を見合わせた。
恵もその会話を聞いていた。
これか、と思った。
祭りで一度買ってくれた人が、次は店に食べに来てくれる。
以前、真紀が話していたことだった。
香織はいつもどおり、楽しそうに客を案内している。
「今日は店の中なんで、ゆっくり食べていってください」
客は笑いながら席についた。
恵は厨房へ戻り、煮込みの鍋をかき混ぜた。
少しだけ嬉しかった。
*
それは、その客だけではなかった。
昨日、肉串を買ってくれた人。予約で来ていた商人。市場で香織と知り合った人。
何人かが、今度は普通の客として店を訪れた。
「思ったより残ったね」
真理子が小声で言うと、真紀も頷いた。
「ね」
香織は嬉しそうだった。
「みんな、気に入ってくれたんだよ」
恵は鍋から立ち上る湯気を眺めながら笑った。
祭りの日はあれほど忙しく、何度も嫌になった。目の前の料理を出すだけで精いっぱいで、ほかのことを考える余裕なんてなかった。
けれど、あの一日が今日につながっている。
そう思うと、昨日の疲れも少しだけ報われた気がした。
*
それから数日が過ぎた。
店は祭り前より、少しだけ忙しくなっていた。
毎日満席になるほどではない。それでも、明らかに客は増えている。
新しい顔もあれば、久しぶりに来る常連の姿もあった。
そして、香織の知り合いはさらに増えていた。
「今日は誰?」
真理子が尋ねると、香織は首を傾げた。
「誰が?」
「さっき話してた人」
「ああ、旅商人さん」
「いつ知り合ったの?」
「昨日」
「どこで?」
「市場」
「また?」
「またって何?」
真紀が笑った。
「もう市場の人、ほとんど知り合いじゃない?」
香織は少し考えた。
「半分くらい?」
真理子が真顔になる。
「怖い」
「何が?」
恵は思わず笑った。
*
その頃から、店では少し変わったことも起き始めていた。
客同士が話すようになったのだ。
最初は、冒険者同士が同じ依頼について話していた。街道の状態や魔物の情報、危険な場所の話。
やがて商人と冒険者が話すようになり、荷物の護衛や売れる品の情報が飛び交うようになった。
市場の人間と旅人が、宿や仕入れ先、町の噂について話していることもある。
恵は料理を運びながら、そんな光景を目にすることが増えた。
「この店、情報が集まるな」
ある日、煮込みを食べていたカイルが言った。
「そうなの?」
「はい」
カイルは店内を見渡した。
「あの人、この町に来たばかりの商人ですよ」
「へえ」
「向こうの人は、北の方から来た冒険者です」
「知り合い?」
「俺は違いますけど」
「じゃあ、なんで知ってるの?」
「ここで話してるからです」
恵は客席に目を向けた。
ちょうど香織が、二人の客と楽しそうに話しているところだった。
「こっちの人、北の方に詳しいんだって!」
「え、そうなの?」
「じゃあ、ちょっと聞きたいんだけど」
二人はすぐに話し始めた。
恵は思った。
原因は、あれだ。
*
閉店後、真理子が香織に尋ねた。
「香織」
「何?」
「知らない人同士、勝手につないでる?」
「勝手じゃないよ」
「じゃあ、何?」
「話が合いそうだなって思ったら、紹介してるだけ」
真紀が笑った。
「それ、勝手じゃん」
「でも、仲良くなってるよ?」
「結果論」
真理子が言うと、香織は少し考えた。
「でもさ」
三人が顔を上げる。
「この人とこの人、話したらいいのにって思うとき、ない?」
恵は少し考えた。
「あるけど」
「じゃあ、話してもらえばいいじゃん」
真理子が首を振る。
「普通はそこまでやらないのよ」
「なんで?」
「なんでって……」
真理子が言葉に詰まると、真紀が笑った。
「説明できないんだ」
「そういう問題じゃない」
恵も笑った。
香織にはきっと、人と人の間にある壁が、ほかの人よりずっと薄く見えているのだろう。
だから、初めて会った人同士でも自然につなげられる。
本人にとっては、それもきっと普通のことなのだ。
*
数日後、役所の男がまた店を訪れた。
すっかり顔を覚えた香織は、当然のように声をかける。
「今日は一人?」
「今日は一人だ」
「いつもの煮込み?」
男が少し眉を上げた。
「いつから、いつものになった?」
「三回目くらいから?」
男は小さく笑った。
「では、それで」
香織が厨房へ注文を伝え、恵は煮込みを器によそった。
柔らかく煮えた肉と野菜から湯気が立ち、温かな香りが広がる。
料理を運んでしばらくすると、男が食事の手を止め、店内を眺めていた。
客席では、冒険者と商人、町の人たちがそれぞれ話をしている。
「面白い店になったな」
男が呟いた。
香織が顔を上げる。
「前と違う?」
「違うな」
少し離れた席でお茶を飲んでいた老人も、その会話を聞いていた。
男は店内を見渡しながら続けた。
「前は、飯を食う場所だった」
真紀が尋ねる。
「今は?」
男は少し考えた。
「人が集まる場所だな」
恵はその言葉を聞いて、嬉しくなった。
老人も静かに笑っていた。
*
その日の夜、四人は二階で遅い夕食を食べていた。
一日の営業を終えたあとの食卓には、どこかほっとした空気が流れている。
「なんか、店っぽくなってきたね」
香織が言うと、真理子が答えた。
「最初から店だけど」
「そうじゃなくて」
「分かってる」
真紀は食事を続けながら笑った。
「でも、最初の頃とは全然違うよね」
「そうだね。お客さんも増えたし」
恵が頷くと、香織が嬉しそうに言った。
「知り合いもいっぱいできた!」
「あなたは作りすぎ」
真理子の言葉に、三人が笑った。
「でもさ、最初はこんなふうになると思わなかったよね」
恵が言うと、真紀も頷いた。
「とりあえず食べていくために始めた店だったもんね」
「それが今じゃ、知らない人同士が仲良くなる場所だもん」
香織は満足そうに笑った。
恵は三人の顔を見渡した。
異世界に来たばかりの頃、自分たちには何もなかった。
仕事も、家も、知り合いも。
今は店がある。暮らす場所があり、常連客がいる。市場には知り合いも増えた。
そして、息子みたいな冒険者までいる。
まだ元の世界へ帰る方法は分からない。
それでも、ここで生きていく形だけは、少しずつでき始めていた。




