第二十話 『よしよし』
第四皇子ノアの部屋を後にしたルカは、アメリアの手首を強く握りしめたまま、王城の広い回廊を歩いていた。目指すのは、彼らを取り巻くすべてのものを排除できる唯一の安全地帯――『皇妃の部屋』。そこへの最短距離を、ルカは一切の迷いなく突き進んでいく。その後ろ姿からは、先ほどまでの『甘えん坊の弟』の面影など微塵もなく、触れれば氷結してしまいそうなほどの絶対零度の怒りが放たれていた。
「る、ルカ……?」
無言のまま乱暴に引っ張られるスピードに、アメリアは小走りでついていくのがやっとだった。いつもなら、彼女の歩幅に合わせてエスコートしてくれるはずの彼が、今は一度も振り返らない。分厚い外套とベールに包まれたアメリアは息を切らせながら、痛む腕を少しだけ引いた。
「ルカ……ちょっと、腕が、痛いわ……っ」
その小さな訴えに、ルカの足がピタリと止まる。そして、アメリアの手首を握っていた強い力が、ふっ、と緩められた。
「……すみません」
ルカは振り返ることなく、掠れた声でただ一言だけそう呟き、再び歩き出した。今度はアメリアが転ばない程度の速さに落としていたが、依然として彼から放たれる空気は重く、冷たいままだった。
……ルカ、どうしたのかしら。
ベールの下で、アメリアは不安げに眉を下げた。
十数年ぶりに、知り合いの誰もいない祖国へと帰還したのだ。その上、家族との再会で色々なプレッシャーを浴びて、心をすり減らしてしまったのかもしれないわ。私が我儘を言って、無理に兄弟のところへ連れ回してしまったせいだわ……。
アメリアは相変わらず見当違いな推測で胸を痛め、それ以上は何も言わず、されるがままにルカの大きな背中を追いかけた。
やがて、二人は『皇妃の部屋』へと辿り着いた。重厚な扉を開け、アメリアを中へ押し入れると、ルカはすぐさま扉を閉めた。
ガチャン!
厳重に内側から鍵をかけた。外界との繋がりを完全に断ち切るその音を聞いて、ルカはドアに背中を預け、ようやく、ひどく深い深い溜め息を吐き出した。ドロドロに煮え滾っていた腹の底が、自らが作り上げた完璧な密室の空気に触れて、少しずつ温度を下げていく。
「ルカ、お疲れ様。色々と気疲れさせてしまったわね。私の我儘に付き合ってくれて、ありがとう」
部屋の中央で、アメリアが息苦しかった分厚いベールを自ら外し、外套のフードを下ろした。パァッと、部屋の明かりに照らされた彼女のハニーブロンドの髪が揺れ、若草色の瞳がルカを真っ直ぐに見つめてくる。そして、春の陽だまりのような、慈愛に満ちた優しい笑みを浮かべた。
――ああ。今、この人の美しい笑顔は、僕だけのものだ。
その事実を実感した瞬間、ルカの胸の奥底で、怒りとも安堵ともつかない強烈な感情が込み上げ、視界が歪んだ。
他の誰の目にも触れさせていない。他の誰の声も届かない。この部屋にいる限り、彼女は完全に僕のものだ。
そう思うと、張り詰めていた狂気が少しだけ解け、泣きそうになるほどの愛おしさが込み上げてくる。
……違う。泣くのではない。僕は怒っているのだ。僕に向けるためのあの特別な眼差しを、あの甘い慈愛の声を、他の雄に――あんな生意気なガキにすら向けようとした彼女に、腹の底から怒り狂っているのだ。二度と、僕以外の誰にもあんな顔を見せないように、この身体に骨の髄まで僕の恐怖と快楽を刻み付けてやらないと。
「……ルカ、泣いているの?」
「……え?」
不意に、すぐ目の前でアメリアの甘い声がした。いつの間にか、アメリアは重い外套をすっかり脱ぎ捨てており、ルカの目の前まで歩み寄っていた。ビクリ、と思わず身体を強張らせたルカの顔に、彼女がそっと手を伸ばす。アメリアの温かく柔らかな指先が、ルカの目尻を優しく拭った。ルカ自身も気づかないうちに、彼の目尻には、感情の飽和による微かな涙が滲んでいたのだ。
「ふふっ。ルカったら、焼きもちを焼きすぎちゃったのね」
「……」
「弟さんたちとお話していたから、自分からお姉ちゃんを取られちゃうって思って、寂しくなっちゃったんでしょう?だからあんなに不機嫌だったのよね?」
アメリアは全てを見透かしたような、けれど決定的にピントのずれた『お姉ちゃん』の顔で微笑んだ。
「ルカ、大丈夫よ。お姉ちゃんは、いつでもルカが一番だから。……ほら、『よしよし』しましょ?」
そう言って、アメリアはルカの銀色の髪を、子供をあやすように優しく撫で始めた。
自分が限界まで嫉妬に狂い、理性を失いかけているというのに。彼女は未だに僕を『寂しがり屋の小さな弟』として扱い、無防備にその甘い匂いと体温を近づけてくる。
「っ……!」
「きゃっ!?」
――もう、限界だった。
ルカは堪らず、自分を撫でていたアメリアの身体を強く抱きしめた。そして、悲鳴を上げる彼女の腰と膝裏に腕を差し入れ、軽々と宙に持ち上げる。そのままベッドへと数歩で歩み寄り、アメリアの身体を広いシーツの上へと押し倒すように寝かせた。
「る、ルカ……!?」
「……アメリア、お嬢様……」
驚いて身を起こそうとするアメリアの胸元に、ルカは自らの顔を深く埋めた。そして、甘えるようにすりすりと、彼女の柔らかい膨らみに鼻先を押し付ける。
「うふふっ。もう、本当にルカは甘えんぼさんね。……よしよし、いい子よ」
力強くベッドに押し倒されたというのに、アメリアはそれを『寂しくて自分にしがみついてきた』のだと勘違いし、ベッドに横たわったまま、ルカの頭を優しく撫で続けた。彼女の温かく柔らかな手が、銀髪をゆっくりと梳いていく。
「アメリアお嬢様……もっと、『よしよし』、してくれますか……?」
ルカはアメリアの胸元に顔を埋めたまま、上目遣いで彼女を見つめた。氷のように透き通った青い瞳は、捨てられた仔犬のように潤み、絶対的な庇護を求めているように見える。
「ええ、もちろんよ」
すっかり『お姉さんモード』になっているアメリアは、その卑怯な懇願を容易く快諾してしまった。彼女のその言葉が、ルカに対する『すべての行為の許可証』であることも知らずに。ルカは満足げに瞳を細めると、今度は彼女の白い首筋へと顔を埋め、すんすんと鼻を鳴らして匂いを嗅いだ。
「んっ、……ふふ、ルカ、息がかかってくすぐったいわ」
クスクスと笑うアメリアの首筋からは、彼女自身の甘い匂いに混じって、ルカの濃厚な匂いが漂ってきた。覚醒期の間に、一晩中彼女を抱きしめ、首筋に吸い付き、マーキングを施した証。
……ああ。間違いなく、僕の匂いが付いている。誰がどう嗅いでも、この人は『僕のもの』だ。
その事実に深い安堵と支配欲を満たされながら、ルカは首筋にそっと唇を落とした。そして、ゆっくりと、彼女の身体の形をなぞるように舌を這わせながら、アメリアの着ているドレスの胸元のリボンへと手をかけるのだった。
つづく




