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世話焼き令嬢は拾った獣人に全てを奪われる  作者: 柊原 ゆず


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第十八話 猛毒の花に触れる


 第二皇子シリウスの執務室を後にした二人は、そのまま第三皇子レオンの執務室へと向かった。先ほどと同じように、アメリアが礼儀正しくノックをしようと手を上げた瞬間。ルカはまたしてもその手をヒョイと避け、重厚な木製のドアを乱暴に、バンッ!と音を立てて開け放った。


「ひいぃっ!?」


 部屋の奥から、情けない悲鳴が上がった。

 天井まで届きそうな本棚と、山のように積まれた書類の山。その奥のデスクで、分厚い書類の束をぎゅっと胸に抱きしめ、肩をびくっと跳ねさせている青年がいた。頭頂部が黒で、毛先に向かって銀色にグラデーションしている不思議な髪色と、エメラルドの瞳。生真面目そうで、少し神経質な面持ちの男――第三皇子、レオンだ。


「あ、ああ、兄上……!?な、何か御用でしょうか……?」


 ルカの姿を認めるなり、レオンの頭にある立派な獣の耳はぺたりと平伏するように下がり、背後の尻尾は完全に股の間に巻き込まれて見えなくなっていた。強大な『真の王』の覇気を前に、獣としての本能が完全な服従と恐怖を示しているのだ。そのあまりのビクビクとした怯えように、ルカの背後にいたアメリアは申し訳なさに胸を痛め、慌ててルカの前に出た。


「第三皇子殿下。ご挨拶をと思い、伺いました。ノックもせずに開けてしまって、大変申し訳ありません」

「……」


 アメリアが深く頭を下げる間も、ルカは背筋をピンと伸ばしたまま、レオンを上から下まで射殺さんばかりの冷え冷えとした眼差しで威嚇し続けている。その態度の悪さに、アメリアはお姉ちゃんとしての顔つきになり、ルカの腕をツンツンと突いた。


「ルカ、貴方もちゃんと謝るのよ」

「……アメリアお嬢様。部屋の外の気配にすら気付かない方が未熟なのです。僕が謝る必要など、どこにもありません」

「もう、ルカったら……!ルカの分も謝ります。本当に申し訳ありませんでした」


 アメリアが再び頭を下げると、レオンは慌てふためき、ブンブンと首を横に振った。


「い、いえ!僕は大丈夫ですから、どうか頭を上げてください!でないと僕が、殺されます……っ」

「え?」

「あっ、いえ!……な、なんでもないです。……そ、それで、挨拶……ですか」


 レオンは引き攣った愛想笑いを浮かべ、恐る恐るアメリアに視線を向けた。分厚いベールと外套に包まれた奇妙な姿。しかし、その布越しからでも伝わってくる、陽だまりのような温かい気配。アメリアはベールの中でふわりと微笑むと、美しいカーテシーを披露した。


「はい!アメリア・ルーベンスと申します。暫くの間、お世話になります。よろしくお願いいたしますわ」


 ……暫くの間?

 その言葉を聞いて、レオンは内心で首を傾げた。

 このルーベンス嬢は、いずれこの国を離れて自分の故郷へ帰るつもりでいるというのか?

 レオンは、アメリアの背後で仁王立ちしているルカをチラリと盗み見た。アメリアの腰にガッチリと手を回し、同じ部屋にいるだけの自分にさえ、喉笛を食いちぎらんばかりの猛烈な牽制と独占欲を放ち続けているあの男が。あの絶対的な覇王が、一度手中に収めた獲物を、そうやすやすと手放して国へ帰すと思っているのだろうか。

 ――いや、絶対に帰さないだろう。この人は、一生この鳥籠から出ることはできない。

 しかし、生真面目で常識人であるレオンは、その残酷な事実を口にして指摘するような真似はしなかった。恐ろしい逆鱗に自ら首を突っ込むほど、彼は愚かではなかったからだ。


「……僕は第三皇子のレオンです。あまりお近づきになることはないと思いますが、よろしくお願いいたします」


 レオンは、深入りを避けるように、極めて他人行儀に、そして少し冷たく聞こえるようにお辞儀をした。しかし、アメリアはその他人行儀な態度を気にする様子もなく、部屋に入った時から気になっていたことを真っ直ぐに口にした。


「あの……殿下、お疲れですか?」

「……え?」

「目の下に、酷い隈ができていらっしゃいます。それに、お部屋には書類がたくさん……。もしかして、ルカがいない間の政務を、殿下がずっと一人でこなされていたのですか?」


 その指摘に、レオンは呆気にとられた。彼が夜を徹して国の政務を回してきたことに、城の獣人たちは誰も触れようとしなかった。ルカが帰還する前はシリウスが次期皇帝と噂され、レオンは日陰の存在であったからだ。重ねて、実力主義の獣人社会において、書類などの仕事が重要視されることはない。彼を表立って蔑ろにする者はいないが、敬意を表す者も少なかった。

 しかし、見ず知らずの人間の娘が、一目見ただけで自分の疲労を見抜き、真っ直ぐに仕事ぶりを労ってくれたのだ。


「……え、ええ。上のシリウス兄上は外交は得意ですが実務は苦手でして……僕が書類上の仕事を請け負っているのです」

「まあ、そうだったのですね。毎日遅くまで、本当にお疲れ様です」


 アメリアは心底労うように眉を下げた後、何かを思い出したようにポンと手を打った。


「そうだわ!『星見草のハーブティー』はご存じですか?疲労回復にとても良いと言われているお茶なのです。念のために持参していたのですが、丁度良かったです!今度、殿下にも差し上げますね!」


 にこり、と。

 分厚いベール越しにでもはっきりとわかる、春の陽だまりのような温かな微笑み。損得勘定も、身分への媚びも一切ない、純粋な『労わり』と『善意』。張り詰めた氷のような帝国で、義務感だけで生きてきたレオンの胸の奥底が。

 トクン……ッ!

 かつて経験したことのない、甘い音を立てて高鳴った。レオンの生真面目な顔が、ポッと朱に染まる。全身の血が巡り、僅かに頬が熱を持っていくのが自分でもわかった。

 ――しかし。その微かな、けれど決定的な『心拍数の上昇』を。獣の王の異常な聴覚が、聞き逃すはずもなかった。


「る、ルカ……!?」


 グイッ!

 アメリアの身体が、乱暴な力でルカの背後へと引き寄せられ、完全に隠された。ルカの全身から放たれる殺気が、先ほどまでの威圧とは比べ物にならないほどに膨れ上がる。部屋の温度が急激に下がり、書類の束がバサバサと風圧で揺れた。

 ……僕の愛しい人に、なんて熱を持った目を向けているんだ。殺す。その緑の眼球を抉り出し、二度と彼女の姿を映せないようにしてやる。


「……仕事の邪魔をしてしまったようですね。僕たちはもう帰ります」


 ルカの声は、絶対零度の冷気を孕んでいた。それは『帰る』という報告ではなく、『これ以上彼女に接触すれば命はない』という最後通告だった。アメリアはルカの背中から顔を出そうとしたが、ルカはそれを許さず、彼女の腰をきつく抱き寄せたまま、無理やり踵を返した。


「え、あ……、兄上の心遣いに、感謝いたします……」


 レオンはガタガタと震えながら、恐怖に顔を引き攣らせて深く頭を下げた。

 バタンッ!!

 乱暴に閉められた扉。

 一人残された執務室で、レオンはへたりと椅子に崩れ落ちた。ルカから放たれた絶対的な殺気に当てられ、レオンの背中は冷や汗でぐっしょりと濡れ、身体は未だにガタガタと小刻みに震えていた。一歩間違えれば、本当に首を刎ねられていたかもしれない。それほどの純粋な殺意を浴びたというのに。

 しかし。彼のエメラルドの瞳には、まだ先ほどのアメリアの陽だまりのような微笑みが、はっきりと焼き付いて離れなかった。分厚いベールに阻まれて、その顔の全てを拝むことは叶わなかった。だが、薄布の隙間から僅かに覗いた、綺麗な弧を描く形の良い桃色の唇。耳に心地よく響く、春風のように優し気な声色。何より、誰からも顧みられることのなかった自分の苦労を真っ直ぐに労わり、初めて自分を心から気遣ってくれた、ただ一人のか弱き人間。


「……『今度差し上げますね』……か」


 静かな部屋に、レオンの熱を帯びた呟きが吸い込まれる。

 彼女は、兄上のものだ。絶対君主が己のすべてを懸けて囲い込んでいる、決して触れてはならない、猛毒の華。少しでも触れようとすれば、自らの命が散ることは火を見るより明らかだ。

 その恐ろしさを、頭では誰よりもよく分かっているはずなのに。ドクン、ドクンと、レオンの胸の奥で高鳴る心臓の音が止まらない。あのタイミングで兄上が彼女を連れて出て行ってくれて本当に良かったとすらも思えてくる。でなければ、レオンは熱に浮かされたまま、彼女に触れようと手を伸ばし、殺されていただろう。恐怖に怯える理性とは裏腹に、無意識のうちに芽生えた『雌を求める獣の本能』が、彼の心の奥底に密かに、しかし確実に深く根を張り始めていた。






 一方その頃。

 レオンの執務室から半ば強引にアメリアを連れ出したルカは、王城の広い回廊を大股で歩きながら、ギリリと奥歯を噛み締めていた。

 ……冗談じゃない。僕が隣でこれだけ明確に牽制してやっているというのに、なぜこの人は次から次へと他の雄に隙を見せるのか。

 シリウスには愛称で呼びかけ、レオンには労いの言葉と『次』を約束するようなお茶の差し入れまで。これ以上、他の雄と接触させるわけにはいかない。

 ルカはとうとう我慢できなくなり、ピタリと足を止めてアメリアの方へ振り返った。


「……アメリアお嬢様。末の弟は、まだこどもです。挨拶になど行く必要はありません」


 ルカの口から発せられたのは、ついに隠しきれなくなった明確な『抗議』だった。これまでは『危険だから』と言いくるめてきたが、今のルカの声音は、ただただ他の男の元へ行かせたくないという、雄としての苛立ちが滲み出ている。しかし、アメリアにはその真意など伝わるはずもない。


「まあ。第四皇子殿下にだけ挨拶に行かないというのは、不義理よ!」


 アメリアは少しむっとしたように腰に手を当てて、お姉ちゃんとしての正論をぶつけてきた。


「それに、まだ小さいこどもなら尚更じゃない。突然知らないお兄様が帰ってきて、不安に思っているかもしれないわ」

「……」

「ルカ、長旅で疲れてしまったのね?大丈夫よ、休んでいてちょうだい。私一人でも行くわ」


 ――アメリアお嬢様が、一人で?

 ルカの背筋が、ゾクリと凍りついた。

 僕が隣で睨みを利かせ、あれほど重装備で隠している今の状態ですら、いとも簡単に他の雄を惹きつけてしまうというのに。もし、僕の目の届かないところで彼女が一人であの兄弟たちの元へ行ったら。優しく微笑みかけられ、温かい言葉をかけられたら。他の雄たちがどんな勘違いをし、どんな目で彼女を見るか、想像しただけで発狂しそうだった。……それこそ、僕の身がもたない。


「……僕も、行きます」


 ルカは深い深呼吸を一つして、まるでひどく苦い薬を飲み込んだような顔で妥協した。


「ルカ、拗ねているのね?」


 そんなルカの苦悩など露知らず、アメリアはベールの下でクスクスと笑った。彼女の目には、ルカが『弟への挨拶を面倒くさがって駄々をこねている』ようにしか見えていないのだ。


「大丈夫、これで最後だから。お部屋に戻ったら、たくさん『よしよし』してあげるわ」


 まるで駄々をこねる子供をあやすような、極上の甘やかしの提案。普段なら「子供扱いするな」と憤るところだが、アメリアの無防備な『ご褒美』に、ルカの中で暴れ狂っていた獣がピクリと反応した。

 ……部屋に戻ったら、たくさんよしよしして、甘やかしてくれる。

 それはつまり、あの誰にも邪魔されない豪奢な密室で、彼女の温もりを独占できるということだ。


「……約束、ですよ」


 ルカは氷のような青い瞳をスッと細め、その言葉だけは絶対に逃がさないとばかりに、低く、ねっとりとした声で念を押した。


「もちろん!」


 アメリアは無邪気に頷き、足取りも軽く歩き出す。ルカはその後ろ姿を見つめながら、これから最後の一人に会いに行くという圧倒的な不快感を、その後に待っている『極上のご褒美』への期待で必死に塗りつぶし、重い足を引きずるようにして付いていくのだった。


つづく

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