第十七話 特等席で喜劇を見る
過保護な外套と、顔をすっぽりと隠す分厚いベール。人間の国の王女すら着ないような重装備を再び身にまとわされたアメリアは、ルカにエスコートされながら王城の長い回廊を歩いていた。やがて二人が辿り着いたのは、第二皇子シリウスの執務室だった。
「ここね。よし……」
アメリアは深呼吸をすると、礼儀正しく扉をノックしようと小さな手を上げた。しかし、その手が木の板に触れるより早く。ルカがアメリアの腕を制し、空いた手でノックもせずに乱暴に扉を開け放ったのだ。
「ちょっと、ルカ……?!」
およそ皇子らしからぬ――ましてや『完璧な執事』らしからぬ野蛮な振る舞いに、アメリアは目を丸くして彼を見上げた。
だが、扉の向こうにいた部屋の主は、少しも驚いた様子を見せなかった。
豪奢なマホガニーのデスクの奥。深紅のベルベット張りの椅子に深く腰掛け、優雅に脚を組んでいた第二皇子シリウスは、二人の姿を認めるなり、スッと立ち上がった。ルカと同じ立派な犬耳と、柔らかな金髪が窓からの光を反射してキラキラと輝いている。
「待っていましたよ。ルキウス兄上。……それから、人間のお嬢さん?」
シリウスは、アメリアにも分かる流暢な『公用語』でそう声をかけた。そして、分厚いベールに覆われたアメリアと視線を合わせるように、少しだけ背を屈める。皇族らしい気品に満ちた、甘く優しげな笑みを浮かべた。その華やかで親しみやすい態度に、アメリアがホッと表情を和らげかけた――その瞬間。ルカがすかさずアメリアの前に立ち塞がり、彼女を庇うようにしてシリウスを睨みつけた。
『何故、俺たちが来ることを知っていた?答えろ』
ルカの口から発せられたのは、地を這うような低い獣人語だった。部屋の空気が一瞬にして凍りつき、びりびりと肌を刺すような『王の威圧』が放たれる。しかし、シリウスはその圧倒的なオーラを正面から浴びても、怯えるどころか余裕の笑みを崩さなかった。
『私の従者が教えてくれたのですよ。兄上と、「素敵なお嬢さん」がわざわざ私に会いに来てくれるとね』
シリウスは獣人語でそう応えながら、面白そうに目を細めた。バチバチと火花を散らす、雄同士の獣人語による剣呑なやり取りが繰り広げられていた。しかし、その言葉を一切理解できないアメリアは、二人の間で困惑し、オロオロと視線を彷徨わせていた。
「ルカ……?あの、どうかしたの……?」
彼女の不安げな様子を先に察知したのは、シリウスの方だった。
「おっと、失礼。久々の再会なもので、つい兄弟で話が盛り上がってしまいました」
シリウスは人当たりの良い公用語へと瞬時に切り替えると、アメリアに向かってふわりと微笑んだ。
「お嬢さん。よろしければ、お名前を伺っても?」
「あ……失礼いたしました、第二皇子殿下」
アメリアはルカの背中から少しだけ顔を出し、淑女の嗜みとして美しいカーテシーを披露した。分厚い外套を着ていても、その所作の美しさは隠しきれない。
「私は、アメリア・ルーベンスと申します。ルカ……いえ、ルキウス殿下の付き人として、暫くお世話になるつもりです。よろしくお願いいたしますわ」
――その言葉を聞いた瞬間。
「……付き人?」
シリウスは、思わず目を丸くして素っ頓狂な声を上げた。
付き人、だと?この娘は、自分が何を言っているのか分かっているのか?
シリウスの獣の嗅覚は、部屋に入ってきた瞬間から『異常な事態』を正確に嗅ぎ取っていた。アメリアの身体からは、むせ返るほどに濃厚なルカの匂いが立ち上っているのだ。それはただ傍にいたから移ったというレベルではない。肌の奥底まで染み込むように、文字通り『舐め回すように』全身にこびりついた、雄の強烈なマーキングの匂い。
おまけに、これほどまで過剰に肌を隠す衣服を着せられているというのに。これのどこがただの『付き人』だというのか。どう見ても、独占欲に狂った獣に囲い込まれた『番』そのものではないか。
「……アメリアお嬢様。貴女は付き人などではなく、『僕の大切な人』です。ご自分を卑下するような真似はおやめください」
ルカが、すかさず不機嫌さを隠しきれない低い声で訂正を入れた。
「で、でもルカ……私、貴方のお世話をしに来たのだし……」
「っふ……っははは!!」
戸惑うアメリアの声を掻き消すように、シリウスの腹の底からの笑い声が執務室に響き渡った。
「で、殿下……?」
「ははっ……!っふ、くくっ、失礼。いやあ、あまりにもお二人が『微笑ましくて』、つい頬が緩んでしまいましたよ」
シリウスは目尻に浮かんだ涙を拭いながら、たまらないといった様子でルカの顔を見遣った。
傑作だ。兄上はこれほどまでにこの娘を自分の色で染め上げ、誰の目にも触れさせまいと雁字搦めにしているというのに。当の娘本人は、兄上の真っ黒な執着に一切気付かず、呑気に『付き人』などと名乗っている!
シリウスは、この世で最も面白い喜劇を特等席で見ているような気分だった。
「アメリア嬢。私のことは、どうか『シル』とお呼びください。これから、仲良くしてくださいね」
シリウスはわざと甘く蕩けるような声色を作り、アメリアに向かって優雅に右手を差し出した。挨拶のキスを求める、貴族としての自然な振る舞いを装って。だが、その手がアメリアに届くことは、永遠になかった。
「え?ちょ、ちょっとルカ……!?」
ドンッ!と。
ルカの厚く逞しい胸板が、アメリアとシリウスの間に絶対的な壁として立ちはだかった。そして、シリウスの差し出された手を、ルカの大きな掌がガシッと掴み取ったのだ。
「ああ、是非とも『仲良く』しよう」
にっこり。
ルカの端正な顔には、極上の微笑みが浮かんでいた。しかし、その氷のように透き通った青い瞳の奥は、シリウスを今すぐ八つ裂きにして血祭りに上げんばかりの、底冷えするような殺意が渦巻いている。
ぎゅうううぅぅっ……!
笑顔のまま、ルカはシリウスの手を骨が砕けそうなほどの尋常ではない握力で握り潰した。
「……っ!」
シリウスの端正な顔が、一瞬だけ苦痛に歪む。ルカの腕力は、まともにやり合えば一瞬で腕を持っていかれるほどの規格外の力だ。
「……ええ。兄上と親しくできるなんて、光栄です」
シリウスは冷や汗を滲ませながらも、必死に笑みを崩さずに応えた。これ以上踏み込めば、本当に命がない。流石の彼でも、本能の警鐘には逆らえなかった。
「では、僕たちはこれで。アメリアお嬢様、行きましょう」
ルカはシリウスの手を乱暴に振り解くと、有無を言わさぬ力でアメリアの腰を抱き寄せ、無理やり回れ右をさせた。
「シル第二皇子殿下……それでは、また……!」
強引に連行されながらも、アメリアは律儀に振り返り、ベール越しにパタパタと手を振った。
「ええ。また、会えるといいですね」
シリウスが痛む右手をさすりながら、わざとらしく優雅に手を振り返す。
バタンッ!!
執務室の重厚な扉が、ルカの手によって叩きつけるように閉められた。
静寂が取り残された執務室。
一人残された第二皇子シリウスは、ルカに握り潰されそうになった右手を左手でゆっくりと擦りながら、ふっ、くくっ……と肩を震わせて笑い始めた。
「……はははっ!ああ、傑作だった」
やがて堪えきれなくなったように、誰もいない部屋に歓喜の笑い声を響かせる。ズキズキと熱を持つ右手の痛みなど気にも留めず、シリウスの赤い瞳は妖しく細められていた。
十数年ぶりに帰還した第一皇子ルキウス。今日久々に対峙した彼の、その身から放たれる威圧感と覇気は、まさに『皇帝』そのものだった。亡き父である前皇帝にも決して劣らない、いや、それ以上の底知れぬ力。シリウスの獣としての本能が、毛逆立つほどの恐怖と共に『真の皇帝の帰還』を肌で感じ取っていた。
だが、シリウスの腹の底で渦巻いているのは、畏怖よりも強烈な面白さだ。あの絶対的な覇者であるはずの兄上が、たった一つ、恐ろしいほどの弱点を抱え込んで帰ってきたのだから。
――異質だったのは、隣にいた人間の娘だ。兄上の瞳は、自分たち兄弟など一切見ていなかった。ただ彼女しか眼中にない。他者を虫ケラのように扱うであろう冷酷な男が、あのか弱き人間の一挙手一投足に心を砕き、彼女が他人に少し気を許しただけで骨を砕くほどの殺意を向けてくる。あれはもう、愛に狂った哀れな男だ。
新たに皇帝の座に就くであろう男を、あそこまで狂わせる女。それも、獣人ではなく非力な人間。一体どのような人物なのだろうか。声は可憐で、所作は美しかったが……あの過保護なベールと外套に阻まれて、その素顔を拝むことはできなかった。
「あんなにも頑なに隠されると……余計に暴いてみたくなるというのが、男の性というものですよ。兄上」
兄上は意地でも見せまいと、あの娘を鳥籠に閉じ込めて厳重に鍵をかけるだろう。だが、どんなに完璧な檻を作ろうとも、必ずどこかに隙は生まれるはずだ。必ず、あの『未来の皇妃様』の素顔を拝んでやろう。シリウスは深く椅子に腰掛け直すと、痛む右手を弄びながら、底知れず腹黒い笑みを口の端に浮かべるのだった。
一方、その頃。
回廊を足早に歩きながら、ルカの胸の奥では、業火のような嫉妬がドロドロと煮えたぎっていた。
『シル』……。彼女はさっき、あいつのことをそう呼んだ。出会ったばかりの、あんな腹黒い雄犬の愛称を、その美しい桜色の唇で。シリウスの気安く距離を詰めてくる態度にはらわたが煮えくり返りそうだったが、それ以上に、少し優しくされただけでコロッと気を許してしまうアメリアの無防備さが、ルカをひどく苛立たせていた。
僕以外の男に、そんな愛称を呼ぶ必要なんてどこにもないのに。今すぐこの場で彼女の唇を塞ぎ、僕の名前しか呼べないように牙を立ててやりたい衝動を、ルカはギリギリのところで必死に飲み込んでいた。
「さ、次!第三皇子殿下に会いにいきましょう!」
自分の無自覚な行動が、隣を歩く狂犬の理性をどれほど削り取っているのかなど露知らず。アメリアは分厚いベールの中で無邪気に微笑み、次の『お姉ちゃんとしての挨拶任務』へと思いを馳せているのだった。
……ああ、頭が痛い。
嬉々として足を進める愛しい主人を前に、ルカは誰にも見えないように、深く、重たい溜め息を吐き出すのだった。
つづく




