第十六話 独占欲の塊
三兄弟との短い――ルカにとっては長すぎる――顔合わせを強制的に切り上げた後、ルカはアメリアを伴って王城の奥深くへと歩みを進めた。豪奢な絨毯が敷き詰められた長い回廊は、獣人の国の中心部でありながら、しんと静まり返っている。すれ違う使用人たちはルカの姿を認めるなり壁際に寄り、床に額を擦り付けるようにして平伏した。アメリアは、その異様な光景に肩を強張らせながら、歩を進めていた。その静寂な回廊の途中で、ふとアメリアの足が止まった。
彼女の視線の先にあったのは、壁一面を覆うほどに巨大な一枚の肖像画だった。緻密な油彩で描かれていたのは、五人の家族の姿。前方には、まだ幼い三人のこどもたち。そして後方には、そのこどもたちを見守るようにして立つ二人の大人――当時の皇帝と、皇妃の姿だ。こどもたちの容姿を見れば、それが誰かはアメリアにもすぐに分かった。優しげな笑みを浮かべる金髪の少年は、先ほど会った第二皇子シリウスだろう。生真面目な顔をして真っ直ぐ前を見据えている銀黒の髪の少年は、第三皇子のレオン。そして、その中央に立つ、透き通るような銀糸の髪と青い瞳を持つ少年が。
「……ルカ」
「アメリアお嬢様?」
「素敵な肖像画だわ。ルカ、貴方はお父様似なのね」
厳格な顔で立っているのは、前皇帝だろう。今のルカの面影と重なる程似ていた。
アメリアは家族のつながりを微笑ましく思い、ベール越しに肖像画の中の幼いルカを見つめた。絵の中の彼は、無表情だった。まだあどけないこどもであるはずなのに、その瞳にはこどもらしい無邪気さは微塵もなく、どこか大人びた、酷く張り詰めた冷たい空気を纏っているように見えた。その姿は、アメリアの記憶の底にある光景と重なった。あの日、冷たい雨の降る路地裏で保護した時の、牙を剥き出しにして周囲を警戒し、神経を極限まで研ぎ澄ませていた哀れな仔犬の姿と。
……そうよね。ルカは、この大きな帝国の『第一皇子』として生まれたのだもの。きっと、幼い頃から次期皇帝としての重荷をその小さな肩に背負わされ、周囲の大人の思惑に神経をすり減らしていたに違いない。だから、あんなにも冷たく、感情を殺したような顔をして絵に収まっているのだ。可哀想なルカ。どれほど苦しく、大変な幼少期を過ごしていたのだろう。
幼い彼の抱えていたであろう見えない苦悩を思い、アメリアの胸は締め付けられるように痛んだ。アメリアが底なしの庇護欲で胸を痛めていることなど露知らず、隣に立つルカの内心は、彼女の推測とは全く異なる、恐ろしいほどに冷え切ったものだった。ルカの青い瞳は、自身の幼い姿ではなく、後方に立つ一人の女性――慈愛の瞳でこどもたちに微笑みかける、金髪で赤い瞳の獣人の姿を静かに見つめていた。
……母親だ。シリウスは、彼女の容姿を色濃く受け継いでいる。
記憶の底に、わずかに残る声がある。彼女が『ルキウス』という堅苦しい名ではなく、『ルカ』と呼び、自分を慈しんでくれていた記憶。彼女は、四男であるノアを産んですぐにこの世を去ってしまったと聞く。だが、肖像画の中で微笑む美しい実の母親を見ても、隣に立つかつての兄弟たちを見ても、あるいは感情を殺して立つ幼い己自身を見ても。今のルカの心には何の感情の波も、懐かしさすら湧き起こることはなかった。
彼らはただの『過去』だ。僕の心を動かすものではない。今の僕にとって、一番は。僕の命も、魂も、過去も未来もすべて捧げるべき存在は――隣で僕を見上げてくれる『アメリア』、ただ一人なのだから。
「アメリアお嬢様。行きましょう。貴女が休むための部屋は、もうすぐです」
ルカは過去の家族の肖像から一切の未練なく視線を外すと、アメリアの背中を優しく促した。
やがて二人が辿り着いたのは、王城の最奥部にある特別な一室だった。重厚な扉をルカが開け放つと、アメリアは思わず息を呑んだ。
広い。そして、あまりにも豪奢だった。天井には星空のように煌めく巨大なシャンデリアが吊るされ、足元には毛足の長い純白の絨毯。配置されている家具はどれも素人目に見ても国宝級の最高級品であり、窓際から差し込む光が、部屋中に散りばめられた美しい装飾品を照らし出している。人間の王女ですら嫉妬して狂いそうなほどの、贅を尽くした極上の空間。そこは紛れもなく、帝国の『皇妃』を迎えるためだけに用意された聖域だった。
「る、ルカ……こんな素敵な部屋、私には勿体ないわ……っ!」
アメリアは戸惑いながら後ずさりをした。
「私は、ルカが新しい環境に慣れるのを支えるための、ただの付き人なのだから……もっと小さくていいの。余っている従者の部屋はあるかしら?」
ルカは笑みの裏側で、スッと冷たい暗い光を瞳に宿す。
――従者の部屋?冗談じゃない。
貴女のような美しい人が、どうして位の低い従者の部屋などに行かなければならないのか。貴女が座るべきは僕の隣であり、休むべきはこの城で最も美しく、最も警護の行き届いたこの場所でなければならない。
だが、ここで怒りを露わにすれば彼女を怯えさせるだけだ。ルカはスッと悲しげに瞳を伏せ、洗練された『傷ついた弟』の顔を作った。
「アメリアお嬢様。僕は、そのような軽薄な男に見えますか?」
「えっ?そういうことを言ってるのではなくて……」
「僕は、『国を挙げて彼女を最高の賓客として遇すること』を条件に、この国へ戻って来たのです。それを初日から破るような真似をすれば、僕の皇子としての威厳に関わります。だからお嬢様には、どうか僕の顔を立てると思って、この部屋でゆっくり休んでいてほしいのです」
皇子としての威厳。そう言われてしまえば、ルカを『立派な皇子』にすると誓ったアメリアが断れるはずもなかった。
「……ルカがそこまで言うのなら、分かったわ。使わせてもらうわね」
「ありがとうございます。さあ、もう窮屈なものは外しましょう」
ルカは有無を言わさぬ自然な動作で、アメリアの頭をすっぽりと覆っていたベールをそっと取り外した。そして、彼女の細い肩から、ダボダボの重い外套を滑り落とさせる。パァッと、アメリアの視界が明るくなった。拘束衣のような重装備から解放されたアメリアは「ふう」と小さく息を吐き、柔らかなハニーブロンドの髪を揺らした。陽光に照らされた彼女の白く滑らかな肌と、花が綻ぶような無防備な笑顔。誰の目にも晒したくない、自分だけの極上の美しさ。それがついに自らが用意した鳥籠の中にすっぽりと収まったことに、ルカの胸の奥でドス黒い歓喜のマグマが沸き立った。これでいい。この部屋にいれば、もう誰の視線も彼女を汚すことはない。ルカが密かな達成感に浸っていた、まさにその時だった。
「家族の肖像画、素敵だったわね。私、弟さんたちのお名前、ちゃんと覚えたわ。シリウス第二殿下、レオン第三殿下、ノア第四殿下、ね」
アメリアが、ふふっと得意げに笑いながら、唐突にそんなことを言ったのだ。
ピシリ。
ルカの顔に貼り付いていた余裕の笑みが、一瞬にして凍りついた。
「……!い、いつ、それを……?!」
鼓動が跳ね上がる。
僕はそんなこと、一言も教えていない。先ほどの馬車の前での顔合わせでも、従者の長は『獣人語』で彼らの名を紹介しただけだった。彼女は獣人語を理解できないはずだ。僕という『翻訳者』を介さなければ分からないはずなのに。では、どうして?
何よりも、ルカの胸を激しく焼き焦がしたのは、アメリアのその美しく桜色の唇が、あろうことか『自分以外の雄の名前』を三つも紡ぎ出したという事実だった。
「さっきの肖像画の額縁の下に、金色のプレートが貼ってあったじゃない?そこに書いてあったのよ」
ルカの焦燥感など露知らず、アメリアはさも楽しそうに種明かしをした。
「ルカが貸してくれた初級編の本、会話にはあんまり参考にならないと思っていたのだけれど……『文字』の形と読み方を覚える知識としては、とても役に立ったわ!ほら、私、お勉強は得意な方でしょう?」
アメリアは胸を張り、得意げな顔を向けてきた。彼女はただ、ルカの役に立つために、一生懸命に慣れない獣人の文字を少しずつ解読し、記憶していただけなのだ。ルカが自分を外界から切り離すために渡した『役に立たないはずの単語帳』を、持ち前の真面目さと聡明さで『アルファベットの解読表』としてフル活用してしまったのである。
ルカは、アメリアから見えない位置でギリリッと強く奥歯を噛み締めた。
あんな本、与えなければよかった。
言語の壁という名の分厚い檻を、彼女自身の賢さが内側から削り始めている。今この瞬間ほど、愛しい彼女の真面目さと聡明さを疎ましく、そして忌々しく思ったことはなかった。
だが、そんなルカの深い後悔と焦燥の念をよそに、アメリアは嬉しそうに言葉を続けた。
「第二皇子殿下は、ルカのお母様にそっくりだったわね!第三皇子殿下は、真面目な男の子って感じね。隣に飾られた第四皇子殿下の肖像画も、とても可愛らしくて素敵だったわ」
アメリアの口から、無邪気に他の雄たちの品評が紡がれていく。ルカの腹の底で、ドス黒い殺意と嫉妬がマグマのように煮え滾った。
やめろ。気安く他の男の顔を思い出すな。彼らなど、ただの過去の亡霊だというのに……どうして彼女の美しい視界に、入り込もうとするのだ。
ルカが激しい怒りに理性を吹き飛ばしそうになった、その時。アメリアはふっと眉尻を下げて、優しい声で呟いた。
「ルカは、皇子様としてのお勉強で疲れていたのかしら?笑ったらとっても可愛いでしょうに、少し残念ね」
その言葉に、ルカの中で暴れ狂おうとしていた獣が、ピタリと動きを止めた。
……ああ。彼女の瞳には、シリウスの華やかさも、レオンの真面目さも、別に異性としての魅力には映っていないのだ。彼女が一番気にかけているのは、やはり『僕』のことらしい。ルカは、白く鬱血するほど強く握りしめていた拳を解き、ふっと息を吐き出した。そして、すぐさま頭を切り替える。この彼女の『純粋な庇護欲』を最大限に利用して、二度と他の男へ意識を向けさせないための鎖をかけるのだ。ルカはゆっくりとアメリアに歩み寄ると、彼女の小さな両手を、自身の手でそっと包み込んだ。
「……僕が、可愛かったですか?」
「ええ!もちろんよ。あんな風に、感情を無くしたような冷たいお顔をして……なんだか、少し胸が痛くなっちゃったわ。ルカには、ずっと笑っていてほしいもの」
アメリアが心底心配そうにルカの青い瞳を覗き込む。ルカは、かつて路地裏で見せたのと同じ、傷ついた仔犬のような儚い表情を作って見せた。
「……あの城での僕は、笑うことすら忘れるほど、孤独で、怯えていたのかもしれません。皇子としての重圧と、誰にも心を許せない冷たい壁の中で……僕は、感情を殺すことでしか自分を守れなかった」
「ルカ……」
「でも……貴女が、あの日路地裏で僕を拾ってくれて、温かいスープをくれて、頭を撫でてくれた。貴女が、僕に『笑顔』を教えてくれたんです」
ルカはアメリアの手に自らの頬を擦り寄せ、熱を帯びた声で切々と訴えかけた。その完璧な『可哀想な生い立ち』と『貴女だけが特別』という言葉のコンボに、アメリアの母性本能は完全にノックアウトされていた。
……そうよね。ルカの本当の笑顔を引き出せたのは、お姉ちゃんである私なんだわ。彼にはやっぱり、私というお姉ちゃんがいなきゃ不安なのね。
「だから……アメリアお嬢様。お願いです」
すっかり気を良くし、使命感に燃えるアメリアに対し、ルカはとどめを刺すように甘く、そして仄暗い呪縛の言葉を落とした。
「どうか、僕の前で……僕以外の男の話は、しないでください。たとえそれが血の繋がった兄弟であろうと、貴女のその美しい唇から他の男の名前が出るだけで……僕は不安で、狂いそうになるくらい、嫉妬してしまうんです」
「えっ……?」
突然の独占欲の露呈に、アメリアは目を丸くした。しかし、ルカの瞳があまりにも切実で、捨てられるのを恐れる子どものように潤んでいたため、彼女はそれを『男としての執着』ではなく、『寂しがり屋の弟のヤキモチ』として完全に誤解してしまった。
「……もう。ルカったら、本当に甘えん坊のお姉ちゃんっ子なんだから」
アメリアはふふっと微笑むと、繋がれた手をそっと引き抜き、代わりにルカの銀髪を優しく撫でた。
「分かったわ。貴方が寂しくなるなら、もう他のお話はしないようにするわね」
「……はい。ずっと、僕だけを見ていてくださいね」
ルカは極上の笑みを浮かべ、彼女の手首にそっと唇を落とした。言語の壁が少し削られたところで、どうということはない。彼女の心さえこうして『僕だけのもの』に縛り付けておけば、他の雄など永遠に彼女の世界には入り込めないのだから。
豪華絢爛な鳥籠の中で、ルカは満足げに、静かに尻尾を揺らした。
――しかし。
ルカが密かな勝利の美酒に酔いしれていた、次の瞬間だった。
「ああ、でも」
「……でも?」
アメリアがふと何かを思い出したように、ぽんと手を打った。ルカは嫌な予感を覚えながら、首を傾げる。
「ご挨拶はさせてちょうだいね!」
「……ごあいさつ?」
「ええ!だって、これから暫くお邪魔するんですもの!ルカのご家族に挨拶をしなくちゃ!」
ルカの家族。それはつまり、あの忌々しい三兄弟に会いに行くということだ。ピシリ、と。ルカの完璧な笑顔に、今日何度目か分からない亀裂が走った。たった今、「他の男の話はしないでください」と念を押して、しっかりと頷いてくれたばかりではないか。それなのに、なぜ自ら他の雄のテリトリーへ乗り込もうとするのか。
ルカの喉の奥から、グルル、と本能的な不機嫌な唸り声が漏れ出しそうになる。ルカはそれを必死に呑み込み、顔の筋肉を引き攣らせながらなんとか言葉を絞り出した。
「……彼らとは、入り口で挨拶をしました。あれで十分でしょう」
「ルカは挨拶をしたかもしれないけれど、私はまだなのよ」
アメリアは少しむっとしたように腰に手を当て、お姉ちゃんとしての顔つきでルカを窘めた。
「お世話になるのに、ご挨拶の一つもしないなんて。私を『礼儀知らずな人間』にさせないでちょうだい」
――礼儀知らずな人間で結構。
ルカは内心で即座に毒づいた。むしろ、向こうから『礼儀知らずな無礼な女だ』と忌み嫌われ、二度と顔を見たくないと思われるくらいの方がよっぽど良かった。他の雄どもに好印象を与えるなど、もっての外である。
……いっそのこと、もう無理やりにでも『事』を進めてしまおうか。嫉妬に狂いそうな頭が、欲望に舵を切ろうとする。だが、まだ時期尚早である。皇帝不在の中で政務を取り仕切る長老たちを説得し、名実共にアメリアが皇妃だと認められなければ、意味がない。
それに、この生真面目で礼儀正しいお嬢様が、一度言い出したら聞かないことはルカが一番よく知っていた。ルカは深く、重たい溜め息を吐き出した。
「……城には野蛮な獣人もいて、危険です。貴女を危険な目に遭わせたくはありません。行くというなら、僕も必ず付いていきます」
「そ、そう?挨拶するだけなのに……」
「そういった一瞬の隙が危険なのです。ここは僕の庇護下とはいえ、何が起こるか分かりませんから」
真剣な瞳で切々と危険性を説くルカに丸め込まれ、アメリアは「そう、なのね。わかったわ」とルカの同行を許可した。
「少し休憩もできたから、早速行きましょうか!」
アメリアが明るい声で言い、部屋のドアの取っ手を掴もうとした瞬間。ガシッ、と。ルカは素早くアメリアの細い手首を掴み、その動きを制止した。
「……ルカ?」
「アメリアお嬢様。まさか、そのままで行く訳ではないですよね?」
「だめ、かしら?」
「いけません。これを着てください」
ルカは部屋の隅に置かれていた、先ほど脱いだばかりの分厚いベールとダボダボの外套を取り出した。アメリアは信じられないものを見るような、ひどく困った顔でルカを見つめた。
「お城の中なのに?それ、とっても重くて息苦しいのだけれど……」
「言ったでしょう。城の中には、野蛮な獣人も居ると。人間に対して嫌悪感を抱く者もいます。貴女のその美しい姿を晒すのは危険すぎる。すべては、貴女を守るためなのです」
「うう……」
またしても『貴女を守るため』というもっともらしい呪文を唱えられ、アメリアは渋々ながらもベールを被り、重たい外套を身に付けた。再び、彼女の美しい金髪も、しなやかな身体のラインも、そのすべてが分厚い布の下に隠される。
「ふう……これでいいわね?」
「……ええ」
「さ、ルカ。行きましょう?」
ベールの隙間から僅かに見える、アメリアの桃色の唇が楽しげに弧を描く。
――ああ。本当は、その唇すらも、誰にも見えないようにすべて隠してしまいたいのに。
ルカは心の底でドス黒い不満を渦巻かせながら、極めて重たい足取りで、彼女と共に『第二皇子シリウス』の部屋へと向かうのだった。
つづく




