第十五話 ヴォルフレイム帝国
ルーベンス伯爵家を出立してから数週間。
長旅の末、アメリアとルカを乗せた馬車は、ついに巨大な城壁に囲まれた帝都へと足を踏み入れた。はるか北の地に君臨する、獣人たちの絶対領域――『ヴォルフレイム帝国』。
「長旅でお疲れではありませんか、アメリアお嬢様」
「大丈夫よ。でも……本当にみんな、ルカと同じような耳や尻尾を持っているのね。なんだか不思議な感じ」
アメリアが微笑むと、向かいの席に座るルカは「ええ、ここは僕の同胞たちの国ですから」と、いつものように穏やかに微笑み返した。彼の肩には、伯爵家を出る際に急ぎ仕立てられた、第一皇子であることを示す豪奢なマントが羽織られている。ルカはもう、執事服を着ていなかった。執事服はもう小さくなり、予め大きなサイズで仕立てられていた、皇子としての高貴な服を身に纏っていた。高貴な装いは、息を呑むほど美しく成長した今のルカには恐ろしいほど似合っていた。
ルカったら、本当に立派になって……。あんなに小さくて泣き虫だったのに。
アメリアは感慨深く目を細め、ルカの銀髪を無意識に撫でようと手を伸ばしかけた。
しかし。
「――第一皇子、ルキウス殿下のご帰還であらせられる!!」
馬車の外から響き渡った近衛兵の甲高い声に、アメリアの手は空を切った。
その声を聞いた瞬間。
道ゆく全ての帝国臣民たちが、一斉に地面に膝をつき、深く頭を垂れたのだ。
賑やかだった大通りは一瞬にして水を打ったように静まり返り、何千、何万という獣人たちが、ただ馬車に向かって平伏している。
「え……っ?」
アメリアは息を呑んだ。
「王の血脈に、絶対の忠誠を!」
誰かが発したその声に呼応し、地を震わせるような歓声と咆哮が帝都全域に轟いた。
それは、ルーベンス伯爵家でアメリアが抱いていたような『使用人に対する親愛』とは次元が違う。圧倒的な力と血筋に対する、本能的な『服従』の儀式だった。
「ルカ……みんな、貴方に向かって……」
「……」
アメリアが震える声でルカを見ると、彼は窓の外を冷ややかな瞳で見下ろしていた。その横顔には、いつもアメリアに見せるような『甘えん坊の弟』の面影は欠片もない。無表情で、冷酷で、下々の者たちを塵芥のように見据える――完全なる『王』の威圧感。
あ……れ?
アメリアの心臓が、トクンと嫌な音を立てた。自分が見知っているルカは、雷の音に怯え、夜中に一人で眠れなくて泣きついてくる、臆病で優しい男の子だ。けれど今、何万もの獰猛な獣人たちをたった一瞥で平伏させているこの男は、一体誰なのだろうか。長旅の最中、この男の身体に組み敷かれ、首筋に牙を立てられた記憶が、アメリアの脳裏にフラッシュバックした。彼女は、背筋に走る恐怖に、息を呑んだ。
「……アメリアお嬢様?どうかされましたか?顔色が悪いですよ」
ふいに、ルカがアメリアに向き直り、いつもの極上の笑みを浮かべた。先ほどまでの冷酷な王の顔が嘘のように、氷のように透き通った青い瞳は、純粋な心配の色に染まっている。あの冷酷な眼差しは、自分の勘違いだったのだろうか。そう思えるほど、彼はアメリアにはとても優しく、甘い。
「あ、ううん、なんでもないわ!少し、人の多さにびっくりしちゃっただけで……あの、ルカ」
「……アメリアお嬢様?」
ルカは、アメリアの様子がおかしいことを肌で感じ取っていた。彼女の若草色の瞳が小刻みに揺れ、自分を見る視線に、ほんの僅かな『怯え』が混じっている。アメリアは膝の上でギュッと手を握りしめると、小さく深呼吸をした。そして、先ほどの底知れぬ恐怖に無理やり蓋をするように、わざとらしく明るい、けれどどこかぎこちない笑顔を張り付けた。それは彼女にとって、自身の心を守るための無自覚な防衛本能だった。そして、ルカにとって最も恐ろしい提案を口にした。
「私も、敬意を払った方がいいわね。ルキウス殿下。これから、貴方が『立派な皇子様』になれるよう、私が精一杯サポートさせていただきますわ!」
ピシッ、と。
ルカの頭の中で、何かが凍りつき、ひび割れる音がした。
『ルキウス殿下』。そして『私という改まった一人称』。
それは畏敬の念などではない。明確に、彼女が意志を持って自身との間に分厚い壁を作り、距離を置こうとした証だった。今までどんなに甘えても、執事として接しても決して引かれることのなかった『身分差』という絶対的な境界線を、彼女自身が引いてしまったのだ。ルカの顔から、さぁっと血の気が引いた。喉が干上がり、呼吸が浅くなる。
駄目だ。そんな壁を作られたら、僕は貴女の懐に潜り込めなくなる。『可愛い弟』として、貴女の熱を奪えなくなる……っ!
「……やめてください、アメリアお嬢様」
ルカは思わず身を乗り出し、アメリアの細い両手を縋るように強く握りしめた。氷のように冷たくなったルカの手に、アメリアがビクッと肩を揺らす。
「僕は……僕は、貴女の前ではただの『ルカ・ヴィンター』なのです。皇子でも、ルキウスでもない。貴女が拾ってくれた、あの日のままです。だから、どうか……っ、これまで通りで、いてください」
青ざめた顔で、必死に訴えかけるルカ。いつもの余裕に満ちた完璧な笑顔はそこにはない。それは、彼女の心を繋ぎ止めるための計算や演技などではなく、魂の底から絞り出した、狂気じみた本気の懇願であった。
その悲痛な響きに、アメリアはハッとして目を見開いた。ルカの氷のように冷たい手と、微かに震える広い肩。その姿は、先ほど窓の外の獣人たちを平伏させていた『皇帝』のものとは程遠く、路地裏で震えていたあの日の仔犬そのものだった。戸惑いの中で、アメリアの胸に強烈な罪悪感が込み上げてくる。
……そうよ。ルカは今日、知り合いなど誰もいない、この見知らぬ故郷に戻ってきたばかり。いくら皇族の血を引いているとはいえ、彼はずっと人間の国で育ってきた。きっと、不安で、心細くてたまらないはず。あんなに心細そうにしている彼を支えるためにここまで来たというのに、私は勝手に怯えて、身分で突き放すような真似をしてしまった。なんて可哀想なことをしてしまったのだろう。
アメリアは自身の無自覚な防衛本能を恥じると、繋がれた手をそっとほどき、代わりに彼の広い背中へと腕を回した。そして、幼い子供をあやすように、優しく、一定のリズムで撫で始める。
「……ごめんね、ルカ。心細いのよね。お姉ちゃん、気付いてあげられなかったわ」
アメリアの声は、いつもの春の陽だまりのような温かさを取り戻していた。
「分かったわ。さっきの『ルキウス殿下』って呼ぶのは、もうやめるから。だから、そんな悲しい顔をしないで、顔を上げてちょうだい」
その甘く優しい声に促され、ルカはゆっくりと顔を上げた。端正な顔立ちは不安げに歪み、透き通った青い瞳は捨てられた仔犬のように潤んでアメリアを見つめている。アメリアはふわりと微笑むと、彼を見上げるようにして、その冷え切った頬に自身の柔らかく温かな手をそっと添えた。
「ほら、もうすぐお城よ。ルカの格好いい姿、お姉ちゃん期待しているわ」
彼女の手のひらから伝わる温もりと、変わらない『お姉ちゃん』としての眼差し。それが、ルカの凍りついていた心臓を急速に溶かしていく。彼女は自分から離れていかない。今まで通り、僕の傍にいてくれる。
「……はい、アメリアお嬢様」
ルカの強張っていた頬が緩み、ようやくその顔に、心底からの深い安堵の色が滲んだ。
アメリアは未だに『ルカが新しい環境に慣れるまでのサポート役』だと思い込んでいる。しかし、その分厚い仔犬フィルターは、徐々にひび割れていくことになるのだった。
やがて馬車は、王城の巨大な扉の近くに静かに停車した。
「さあ、着きましたよ。アメリアお嬢様」
ルカが先に出て、恭しく手を差し伸べる。アメリアはその手を取り、過保護な外套とベールに包まれた姿で、おそるおそる馬車から外へと降り立った。すると、王城の豪奢な扉の前には、かしこまる大勢の従者たちの他に、ひときわ目を引く人物が三人並んで待ち受けていた。
一人は、金髪の柔らかな髪赤い瞳をした、優しげに微笑む男。
一人は、頭頂部が黒で毛先が銀色という、ルカに似た系統の顔立ちをした男。エメラルドの瞳には、生真面目そうで少し神経質そうな面持ちが浮かんでいる。
そして最後の一人は、紫の瞳が特徴的だが、それ以外はかつての幼いルカにそっくりな少年だった。
三人はそれぞれ犬耳をピンと立てている。
出迎えた従者の長が進み出て、深く頭を垂れながら獣人語で彼らを紹介した。
『第一皇子ルキウス殿下。長きにわたるご苦難、誠に大儀でございました。帝国は再び殿下をお迎えできたことを、心より歓迎いたします。失われた時間は決して戻りませんが、これからの未来は殿下と共にございます。……さて、こちらへお出迎えに出られましたのは、第二皇子シリウス殿下、第三皇子レオン殿下、第四皇子ノア殿下にございます。誇り高き殿下の帰還に、弟君たちも深い敬意と喜びを表しております』
従者の長は、人間のアメリアを内心では歓迎していなかった。話せるはずの『公用語』は使わず、ルカにだけ説明をしたのだった。だが、ルカにとっては逆に好都合であった。獣人語のわからないアメリアには、彼らがルカの兄弟であることすら咄嗟には理解できなかったからだ。
ルカは三人を冷え冷えとした瞳で一瞥するだけで、挨拶の言葉を一つもかけることはなかった。
『この城にある皇妃の部屋に案内しろ』
『皇妃の部屋、ですか……?!』
『俺の言葉に意見するのか?』
『いえ、滅相もありません……!』
ルカは短く、圧倒的な王の威圧感を込めた獣人語で従者に指示を出した。戸惑う従者を黙らせて、ルカはアメリアと共に歩き出そうとする。
長年帰還を待ち望んでいたはずの兄弟たちに対する、あまりにも冷酷でそっけない態度。アメリアは、実の兄弟と思われる王族たちを完全に無視するルカの態度にハッとして、慌てて彼の袖を引いた。
「る、ルカっ!家族との再会なのよ!仲良くしなくちゃ!」
彼女の目には、長年離れ離れだったルカが、緊張と心細さのあまり兄弟に冷たく接してしまっているように見えたのだ。しかし、ルカは内心で忌々しげに舌打ちをした。
仲良く、だと? 冗談じゃない。どいつもこいつも、僕の愛しい人に下卑た視線を向けるようなら、たとえ血の繋がった兄弟であろうと今すぐこの場で喉笛を食いちぎってやる。
ルカはアメリアを自身の背に庇うように隠すと、三人の兄弟たちの方へと冷酷に向き直った。そして、アメリアには絶対に意味がわからないよう、低く地を這うような獣人語で、強烈な殺気と共に言い放った。
『……兄弟であろうと、彼女に手を出したら無事では済まないと思え』
それは、挨拶などではない。絶対的な覇者を気取った、雄としての猛烈な牽制だった。その言葉に、三人の兄弟たちはそれぞれの反応を示した。
シリウスは面白そうなものを見つけたように悪戯に微笑み、生真面目なレオンはその圧倒的な威圧に押されるようにコクコクと首を縦に振って頷いた。そして末弟のノアは、冷酷に牙を剥く大好きな兄の姿に、かえって尊敬の念を抱いたように瞳をキラキラと輝かせている。
三者三様の反応が返されたが、ルカの放った凄まじい牽制の言葉も、兄弟たちの間に走った見えない火花も、獣人語を理解できないアメリアには全く伝わっていない。
「ルカ、挨拶はできたかしら?」
アメリアがベールの下から無邪気に尋ねると、ルカはすぐさま振り返り、先ほどの殺気が嘘のような、極上に甘く優しい『弟』の微笑みを浮かべた。
「ええ。先程従者に、客室を準備してもらいました。さあ、行きましょう」
「そう、よかったわ。……皆さん、これからよろしくお願いしますね!」
アメリアは彼らに向かってふわりと頭を下げたが、ルカは彼女の視線が他の雄に向かうことすら許さず、すぐさま彼女の腰を抱き寄せて歩き出した。こうして、三兄弟との顔合わせはルカの強引な牽制によって一瞬のうちに幕を閉じた。アメリアは彼にエスコートされながら、自分が招かれた『豪華な客室』は実は『皇妃の部屋』であり、他の雄を一切寄せ付けないための『完璧な鳥籠』となることなど、未だ知る由もないのだった。
つづく




