第十二話 覚醒の一歩
獣人語の初級本を巡る小さな攻防から、さらに数日が経過した。
帝国の中心地へと近づくにつれ、馬車を取り巻く環境には、アメリアにもはっきりとわかる『変化』が訪れていた。道中、あれほど頻繁に馬車の様子を窺いに来ていた獣人の使者たちが、まるでこの黒鉄の馬車を避けるかのように、一切近寄ってこなくなったのだ。食事や水を持ってくる時でさえ、彼らは顔を青ざめさせ、ひどく怯えた様子で素早く荷物を置くと、逃げるように去っていく。
最近、使者が来ないわね……。気を使ってくれているのかしら?
アメリアは分厚い外套に身を包んだまま、窓の外の様子を窺い、一人首を傾げていた。言葉の通じない獣人たちに囲まれるプレッシャーから解放され、彼女としては幾分か息がしやすくなったのも事実だ。彼らが気を利かせて、ルカと二人きりの静かな時間を作ってくれているのだと、彼女は好意的に解釈していた。
だが、真実はまったく異なっていた。彼らが近寄れないのは、ルカの身体から無意識に放たれ始めた『威圧フェロモン』のせいだった。王の血が本格的に目覚めようとしている証。それは、普通の獣人であれば呼吸すら困難になるほどの、絶対的な強者の覇気である。魔力を持たない人間であっても、空気の重さを感じて逃げたくなるほどのフェロモンの量である。しかし、不思議なことに、人間であり魔力を持たないはずのアメリアにはその威圧感が一切効かなかった。それどころか、彼女には、ルカから微かに甘い香りが漂ってくるようにしか感じられていないのだ。彼女がルカと幼い頃から一緒に過ごし、肌すらも重ねていたことが大きな要因であった。
……いい気味だ。どいつもこいつも、僕の威圧に怯えて尻尾を巻いている。
ルカは向かいの席で呑気に外を眺めるアメリアを見つめながら、内心で冷たく嗤っていた。これでいい。使者たちすら近寄れないこの馬車の中は、誰の目も声も届かない、完全なる密室だ。
彼女の世界には、もう僕しかいない。
ルカがその暗い優越感に浸りきっていた、まさにその時だった。
「……っ、ぁ……!?」
突然、ルカの心臓が早鐘のように激しく打ち鳴らされ、視界がぐらりと歪んだ。内側から灼熱の炎で焼かれているような、尋常ではない熱。そして、全身の骨がきしむような激痛。獣の王としての膨大な魔力が、これまで人間社会で抑圧されていた彼の肉体を、真の『獣の王』へと強引に造り替えようと暴れ始めたのだ。
「ルカ!?どうしたの!?」
突然胸を掻き毟ってシートに倒れ込んだルカを見て、アメリアが悲鳴を上げた。彼女は慌てながら、心配そうに彼の額に手を当てた瞬間、アメリアは「ひっ」と息を呑んだ。触れているだけでも火傷をしそうなほどの、異常な熱だった。ルカの肩口にある漆黒の『王の印』が、ドクンドクンと不気味な脈を打ち、禍々しい光を放っている。
「どうしよう、すごい熱……!誰か、誰か呼んでこないと!外の人たちに薬を……っ!」
パニックに陥ったアメリアが立ち上がり、馬車の扉へ向かおうとした。
その瞬間。
「……行かないで、ください……っ!」
ルカの震える手が、アメリアの外套の裾を力強く掴んだ。肉体を造り替える痛みは本物だった。獣人の強靭な肉体すら引き裂かれそうな激痛に、ルカの額には脂汗が浮かび、呼吸はひどく乱れている。
しかし、彼の恐ろしいほどに冷静な頭脳は、この強烈な苦痛の最中であっても、『アメリアの心を縛るための最適解』を弾き出していた。
「ルカ……!でも、お医者様に診てもらわないと……」
「駄目です……。これは……病気なんかじゃ、ない……」
「え……?」
「これは……僕が、『皇帝』になるための……不可避の、身体の変化……なんです。彼らには……どうする、ことも……できません……」
荒い息の下から、ルカはかすれた声で真実を告げた。アメリアの動きがピタリと止まった。皇帝になるための変化。それはつまり、彼が人間社会の弱々しい『孤児の弟』から、獣人を統べる強大な存在へと完全に生まれ変わるための、過酷な試練だということだ。
「……っ」
ルカはアメリアの細い腕を引き寄せると、自らの熱い頬を、彼女のひんやりとした小さな掌に擦り付けた。痛みに歪む瞳で、すがるように彼女を見上げる。
「僕が、立派な皇帝になるのを……支えてくれるって、約束、してくれましたよね……?だから……お願いです。僕を一人にしないで……離さないでください……っ!」
涙を浮かべ、痛みに耐えかねたように懇願するルカ。その言葉は、アメリアの根底にある責任感と、『お姉ちゃん』としての庇護欲を、一瞬にして極限まで跳ね上げた。
――そうだわ。私が、見届けて支えるって約束したじゃない。この苦痛を乗り越える彼には、もう私しかいないんだわ。
アメリアの瞳から迷いが消えた。彼女は馬車の扉から手を離し、ルカの傍らに深く座り直すと、その震える身体をギュッと力強く抱きしめた。
「ごめんなさい、ルカ。……どこにも行かない。貴方が良くなるまで、私がずっと、ずっと傍についていてあげるからね」
「アメリ、アお嬢、様……」
「大丈夫よ。お姉ちゃんが、絶対に貴方を守ってあげる」
アメリアは水筒の水で濡らしたハンカチで彼の汗を拭い始めた。その顔には、自分が一歩でも馬車から出れば彼が一人で苦しむと思い詰めたような、悲壮な決意が浮かんでいた。
熱で朦朧とする意識の中。ルカはアメリアの柔らかい膝枕に頭を預け、彼女の献身的な冷たい手の感触を味わいながら。
ああ……貴女は、本当に優しくて、愛おしい……。
苦痛に顔が歪む。けれどアメリカの冷たくも優しい手に、心が満たされてゆくのを感じる。ルカは彼女の手に頬を擦り寄せ、痛みと幸福の狭間で微睡むのだった。
ルカの身体を襲う『覚醒の熱』は、数日が経過しても引く気配を見せなかった。道中、異常なほどに濃密になり続ける威圧フェロモンに気づいた使者の長は、これ以上の馬車の旅はルカの、そして使者たち自身の身体が持たないと判断し、街道沿いの大きな街で最も上等な宿を手配した。
重厚な扉の前。怯えきった様子で案内を終えた使者たちに対し、ルカは荒い息を吐きながら、冷ややかな視線で告げた。
『もう、ここでいい。下がれ……』
『は、ははっ!何か御用がございましたら、すぐにお呼びを……!』
ルカから無意識に放たれる王の覇気に耐えきれず、使者たちは逃げるようにその場から立ち去った。それを確認すると、ルカは心配そうに自分を支えるアメリアと共に、ゆっくりと部屋の中へと足を踏み入れた。
カチャリ、と重い鍵が掛かる音が響く。完全な密室となった瞬間、ルカは耐えきれないというように、身につけていた上着とシャツを乱暴に脱ぎ捨てた。
「ルカ!?駄目よ、急にそんな格好になったら……!」
「熱いのです……っ!身体の内側から、焼かれているみたいで……!」
上半身裸になったルカがベッドに倒れ込む。その肩口にある『王の印』は、馬車の中にいた時よりもさらに色濃く、禍々しい脈を打っていた。熱に浮かされ、脂汗を滲ませるルカの身体は、以前よりも明らかに筋肉が厚みを増し、骨格そのものが一回り大きくなっているようにアメリアには見えた。アメリアは慌てて水盆を用意し、ベッドサイドの椅子に腰掛けて、濡らした布で彼の額や首筋を拭い始めた。
「ごめんね、ルカ。代わってあげられないのが、もどかしいわ……」
悲痛な面持ちで呟くアメリア。ルカは薄く目を開け、熱を持った青い瞳で、すがるように彼女を見上げた。
「アメリア、お嬢様……」
「何?お水が欲しいの?」
「……雷の夜のように、僕を抱きしめてもらえませんか?」
その言葉に、アメリアの動きがピタリと止まった。雷の夜。それはルカを屋敷に引き取って間もない頃、激しい雷雨に怯えて泣きじゃくる彼を——実際には彼が怯えるふりをしてアメリアのベッドに潜り込んだのだが——、アメリアが一晩中抱きしめて慰めた夜のことだった。
「ルカ……」
今、目の前で苦しんでいるのは、あの夜と同じ、孤独で怯えた『可哀想な弟』なのだ。アメリアの胸の奥で、どうしようもないほどの庇護欲が込み上げた。彼女はゆっくりと靴を脱ぎ、ルカの隣へと身を横たえた。
その瞬間。
「っ……!」
ルカの逞しい腕が、アメリアの細い身体を蛇のように絡め取り、力強くギュッと抱き寄せた。密着した素肌から、火傷しそうなほどの異常な熱が伝わってくる。アメリアが驚いて身を強張らせると、ルカは彼女の首筋に熱い顔を埋め、ほう、と安堵の吐息を漏らした。
「……つめたい……気持ちいい……」
「……ルカ、私まで寝たらベッドが狭くなってしまうわ。手ならずっと握ってあげるから、やっぱり私は傍で座っているわね」
あまりの密着具合と、ルカの身体から発せられる見知らぬ『大人の男』の気配に、アメリアは本能的な戸惑いを覚え、そっと身体を離そうとした。だが、ルカの腕はビクともしない。熱で朦朧としているはずなのに、その拘束は恐ろしいほどに強固だった。
「……いや、です」
ルカの声が、甘く、低く耳元で鼓膜を震わせた。
「貴女の肌に触れていると、不思議と痛みが和らぐのです……だから、どうか……このままで……」
「っ……でも……」
「お願い、します……僕には、貴女しかいないのです……!」
掠れた、泣きそうな声。その卑怯なまでの懇願に、アメリアは完全に抗う言葉を失った。自分が離れれば、彼は再びあの激痛に一人で耐えなければならない。そう思うと、もう一歩も動くことはできなかった。
「……分かったわ。ここにいる。ずっと、抱きしめていてあげるから」
アメリアが諦めたように力を抜き、ルカの背中にそっと腕を回した、その時だった。
「……ありがとうございます、アメリアお嬢様」
大人しくなった彼女をいいことに。ルカの大きな掌が、衣服越しにアメリアの背中を、滑るようにゆっくりと撫で下ろした。肩甲骨から、背骨の窪みをなぞり、華奢な腰のラインへと。熱を持った指先が、まるで彼女の形を自分の中に写し取るかのように、執拗に、そして正確に這い回る。
「っ……ル、カ……?」
背筋をゾクゾクと駆け上がる得体の知れない感覚に、アメリアは小さく身をよじった。それは『弟の甘え』と呼ぶにはあまりにもねっとりとした、明確な熱を孕んだ愛撫だった。
「痛いのです……こうしていないと、狂ってしまいそうで……」
ルカは苦しげな言い訳を口にしながら、今度は彼女の柔らかな髪に指を絡め、後頭部を優しく撫で上げた。
「んっ……」
逃げられない。アメリアの善意と使命感という鎖で縛り上げられたこのベッドの上で、彼女はルカの気まぐれな熱にされるがままになっていた。
ああ……柔らかい。いい匂いがする……僕のアメリア。
彼女の華奢な身体を隅々まで愛でながら、ルカは熱で霞む頭の中で、歓喜の絶頂にいた。
嫌がらない。拒絶されない。看病という無敵の盾さえあれば、彼女はどこまでも僕を甘やかしてくれる。
ルカはアメリアの肩口にそっと唇を押し当て、誰にも気づかれないように、深く、甘い溜息を吐き出した。
つづく




