第十三話 番の刻印
アメリアの背中を執拗に撫で回していたルカの指先が、次第にその動きを止め、彼女の華奢な肩をギリッと強く掴んだ。
「ッ……!ル、カ……?痛いわ……っ!」
ただならぬ力強さにアメリアが顔を顰めると、ルカは彼女の首筋に顔を埋めたまま、喉の奥から「グルル……」と、獣特有の低い唸り声を漏らした。
「……っ、あつい……!」
「ルカ、しっかりして!やっぱりお医者様を……っ!」
たまらず身を起こそうとしたアメリアだったが、ルカの逞しい腕に阻まれ、再びベッドの上へと組み敷かれてしまう。至近距離で見下ろしてくるルカの青い瞳を見て、アメリアは息を呑んだ。熱に浮かされたその瞳孔は、まるで夜の獣のように縦に細く裂け、人間離れしたギラギラとした光を放っていたのだ。さらに、荒い呼吸を繰り返す彼の唇の隙間からは、以前よりも明らかに鋭く尖った犬歯が覗いている。
「ルカ……貴方、目が……!」
「足りない……」
「え……?」
「触れているだけじゃ、足りないんです……。身体の中を炎が暴れ回って、貴女の全部を……僕の中に、取り込みたい……っ」
それは、半分は覚醒の熱による本能の暴走であり、もう半分は明確な意志を持った『言い訳』だった。ルカは喘ぐようにそう告げると、アメリアの衣服の襟元に顔を擦り寄せ、彼女特有の甘い香りを肺の底まで深く吸い込んだ。そして、無防備に晒された白く滑らかな首筋に、そっと唇を落とした。熱い吐息と、濡れた舌の感触。
「ひゃっ……!」
アメリアが身を震わせた直後、チクリ、と鋭い痛みが彼女の首筋を走った。
「痛っ……!?ル、カ……噛んでる、わ……っ!」
「……んんっ……」
ルカは鋭い牙をアメリアの柔らかな肌に立て、血が出ないギリギリの力加減で、執拗に甘噛みを繰り返した。それは獣人社会において、雄が自らの『番』に所有権を主張するための、明確なマーキング行為だった。
「だめっ、ルカ……!痛い、離して……っ!」
「ごめんなさい……でも、こうしていないと……っ」
痛みに身を捩るアメリアに対し、ルカは涙声で掠れた悲鳴を上げた。
「貴女が傍にいてほしいのに、僕の中の恐ろしい何かが暴れ出して……貴女を、完全に壊してしまいそうで……怖いんです……っ!だから、お願い……少しだけ、耐えてください……っ」
「ルカ……っ」
自分が離れれば、ルカは正気を失い、本当の獣になってしまうかもしれない。そんな恐ろしい想像と、『可哀想な弟』の悲痛な懇願に、アメリアの抵抗する力は完全に奪われてしまった。彼女はギュッと目を瞑り、痛みに耐えるようにシーツを固く握りしめた。
「……分かったわ。いいわよ、落ち着くまで……好きなようにして……」
その言葉こそが、ルカが待ち望んでいた絶対的な『許可』だった。
……ああ、底なしに優しくて愚かな貴女が、愛おしくて堪らない。
アメリアから見えない位置で。それまで痛みに喘いでいたはずのルカの唇が、三日月のように深く、邪悪に吊り上がった。ルカは、甘い香りを放つアメリアの首筋に再び顔を埋める。柔らかな肉に鋭い犬歯を立て、そこから血が滲まない絶妙な力加減で、ゆっくりと、執拗に吸い上げた。
「ひぐっ……!ルカ……っ」
痛痒い感覚にアメリアが小さく身を捩ると、ルカは彼女を逃がさないように、逞しい腕でその細い腰をきつく抱き寄せる。そして、赤く色づいた首筋から、華奢な鎖骨の窪みへと、濡れた舌を這わせながらゆっくりと降りていった。少しだけはだけさせた衣服の隙間から覗く、無防備で雪のように白い肩口。そこに、一つ、また一つと、ルカは自らの絶対的な所有を示す真っ赤な痕を咲かせていく。ガリッと肌を削るような野蛮な甘噛みと、焼け付くような熱い吐息。アメリアの白雪のような肌に落ちる、鮮血のようなその痛々しい痕跡を至近距離で眺めながら、ルカの胸の奥では、昏くドロドロとした独占欲が歓喜の悲鳴を上げていた。
――今すぐこの服を引き裂いて、彼女のすべてを力ずくで奪ってしまいたい。
下腹部に溜まるドス黒い熱と、雄としての破壊衝動がルカの理性を焼き尽くそうとしていた。しかし、ルカはギリギリのところでその衝動を鎖で縛り付けた。
駄目だ。ここで一線を越えてしまえば、彼女の純粋な善意と『お姉ちゃんとしての使命感』を利用できなくなる。彼女が完全に僕なしでは生きられなくなる、その心髄までを自分の色で染め上げるまで、最後の一線だけは絶対に超えない。
「……アメリア、お嬢様……っ」
ルカは狂おしいほどの愛おしさと執着を込めて、彼女の手首にまで牙を立てた。アメリアは知らない。彼女の肌に刻まれた無数の赤い痕は、扉の向こうにいる獣人の使者たちに対して、『この女は次期皇帝の番である。手を出せば殺す』という、絶対的な不可侵のメッセージとなることを。
「痛いのは、これで最後ですから……」
ルカは甘く囁きながら、一番色濃く残った首筋の痕を愛おしげに舐め上げた。善意という名の鎖で縛られたベッドの上で、アメリアの身体はゆっくりと、しかし確実に、ルカだけの『所有物』へと作り変えられていくのだった。
薄暗い寝室に、柔らかな朝の光が差し込み始めていた。
ルカはゆっくりと瞼を持ち上げ、自分の身体に起きた劇的な変化を静かに実感していた。数日間、脳を焼き肉体をきしませていた凄まじい高熱は、嘘のように綺麗に引いている。頭の芯はかつてないほどに冴え渡り、四肢の先々にまで、これまで感じたこともないほど膨大で濃密な魔力が滔々と巡っているのが分かった。
そして何より、視界の位置が違う。骨格がさらに頑強になり、一回り引き締まった自分の肉体は完全に『大人の雄』としての完成を迎えていた。身長は二メートルを超え、ルカは人間の雄よりも遥かに強靭な肉体を備えた。
……覚醒は、無事に終わったようだな。
ルカはベッドの中で身を起こし、すぐ隣に視線を落とした。そこには、着の身着のままで、痛みに耐えた姿勢のまま限界を迎え眠り込んでしまったアメリアの姿があった。シーツをしっかりと握りしめていた指先は微かに赤く、何よりその細い首筋から鎖骨、はだけた肩口にかけて、昨日ルカが狂ったように貪り、刻み込んだ無数の赤い歯型と吸い痕が、痛々しく、そして酷く淫らに残されている。一晩中ルカの凄まじい熱と暴走に付き合わされた彼女の顔は、ひどく疲れ果て、今も浅い寝息を立ててぐったりとしていた。
じわり、と下腹部に昏い独占欲の熱が蘇る。これは、僕の匂いだ。僕の刻印だ。この無防備な女性は、僕のものになった。あとは、彼女が目を覚ました瞬間に、どう『言い訳』をするか。ルカは脳内で瞬時に、アメリアの罪悪感と庇護欲を最大限に揺さぶるためのシナリオを組み立て、自身の表情を完全にコントロールした。
「……ん……っ……」
アメリアの長い睫毛が震え、若草色の瞳がゆっくりと開かれる。起き上がろうとして身体を動かした瞬間、首筋に走るピリッとした痛みに、彼女は「あっ……」と顔を顰めて小さく悲鳴を上げた。その瞬間を、ルカは見逃さなかった。
「アメリアお嬢様……っ!」
ルカはベッドの上で、大きく逞しくなったその身体をわざと小さく丸め、尻尾を股の間に巻き込み、耳をぺたりと伏せるようにして涙ぐんだ。青い瞳に、今にも零れ落ちそうなほどの涙をいっぱいに溜め、必死に、そして悲痛に訴えかける。
「申し訳ありません……っ!!僕は、僕はなんてことを……!貴女の、白く美しい肌を、こんなにも傷つけてしまいました……っ!どうか、殺してください。こんな薄汚い獣、お嬢様を傷つけるような化け物は、生きていてはいけないんです……っ!」
ルカはアメリアのシーツを握りしめ、ボロボロと大粒の涙を流しながら、全力で『庇護欲をそそる哀れな少年』を演じ切った。その必死で、あまりにも絶望に満ちた謝罪に、アメリアは首筋の痛みも忘れ、慌てて彼の頬に手を伸ばした。
「ルカ、やめて……!自分をそんな風に言わないで……っ!貴方は化け物なんかじゃないわ!」
ルカの頬に触れたアメリアの手は、昨日のルカの熱が移ったかのように温かかった。彼女は痛みを堪えながら、優しく微笑む。
「もう、いいのよ。お姉ちゃんなんだから、具合が悪くなった弟の看病をするのは当然よ。あの時は、貴方の意識がなかったんだもの。本能が暴れてしまっただけでしょう?私は怒ってなんかいないわ」
お姉ちゃん。弟。
身体中にこれ以上ないほど鮮明な『番の刻印』を刻みつけられ、ルカの匂いで隅々まで染め上げられているというのに。アメリアは未だに、目の前にいる大柄な男を『可哀想な弟』だと信じて疑っていないのだ。あまりの滑稽さに、ルカは喉の奥からせり上がってくる暗い爆笑を抑えるのに必死だった。油断すれば、三日月のように吊り上がってしまいそうな口元を、ルカは「ンンッ」と、泣き腫らして喉を詰まらせたような声でどうにか誤魔化した。
「……あ、アメリアお嬢様……。でも、本当に、痛かったでしょうに……」
「平気よ。少しチクっとするだけ。……でも、そうね」
アメリアは少し悪戯っぽく、けれどどこか『お姉ちゃん』としての威厳を取り戻そうとするように胸を張った。
「これだけ酷い目にあわされたんだもの。お詫びはしっかり、してもらうわ」
「……え?」
ルカは涙を拭うフリをしながら、訝しげにアメリアを見上げた。アメリアは、ベッドの上にいるルカをびしっと指差す。
「ルカが完全に回復するまでは、ベッドから出ることは一切禁止!絶対安静よ!手はこうしてずっと握っていてあげるけれど……それ以上の我が儘は、もうおしまい!わかった?」
お姉ちゃんからの、これ以上ないほどに優しい『お仕置き』だった。熱が下がり、肉体が劇的に強化されたルカにとって、ベッドに縛り付けられるなど、何の意味もない。むしろ、こうして合法的に彼女をベッドサイドに拘束し、ずっと手を握らせておけるのだから、望むところですらあった。だが、ここで素直に喜んでは弟であり完璧な執事の演技が台無しになる。
「そんなあ……。ですが、僕はお嬢様のために、お茶を淹れたり、お洋服の準備をしたりしなければ……」
「ダメよ。今日だけは、私が貴方の『お姉ちゃん』として、全部面倒を見てあげるんだから」
アメリアは満足そうに微笑み、ルカの大きな手を両手でぎゅっと包み込んだ。アメリアに握られた手のひらを見つめながら、ルカは心の底から満ち足りた暗い愉悦を味わっていた。
ああ、本当に愛おしい。お姉ちゃん、ですか……。一生、その無知で優しい鳥籠の中で、僕に飼われていてくださいね、アメリア。ルカはアメリアに悟られないよう、シーツの影で、誰よりも邪悪で甘い笑みを深く、深く刻み込むのだった。
つづく




