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世話焼き令嬢は拾った獣人に全てを奪われる  作者: 柊原 ゆず


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12/22

第十一話 翻訳者


 ルーベンス伯爵邸を出立してから、十日が過ぎた。重厚な黒鉄の馬車が国境の深い森を抜けた。車窓から見える景色は、アメリアが生まれ育った人間の王都とはまるで異なるものへと変貌していた。石造りの洗練された街並みは消え、切り立った岩山と大樹を利用した野性味あふれる巨大な建造物が姿を現す。すれ違うのは、獣の耳や尾を持つ者、あるいは全身を分厚い毛皮で覆われた巨漢の獣人達ばかりだ。


「……随分と、遠くへ来てしまったのね」


 アメリアは馬車の窓からそっと外を覗き込み、心細げに呟いた。

 ここ数日、彼女の疎外感を決定的にしているものがあった。それは『言葉』だ。国境を越えたあたりから、同行している帝国の使者たちは、人間の言葉である公用語をピタリと話さなくなった。代わりに彼らの口から発せられるのは、喉の奥を鳴らすような低い唸り声や、独特の破裂音が混じる『獣人語』である。

 アメリアには、彼らが何を話し、何を笑っているのか、ただの一言も理解できなかった。宿場町で休憩を取る際も、周囲から向けられる強烈な好奇の目――あるいは、人間という脆弱な種族に対する値踏みするような視線に晒され、彼女はすっかり萎縮してしまっていた。

 だが、その状況に誰よりも我慢ならなかったのは、アメリア本人ではなくルカであった。愛するアメリアの白く滑らかな肌や、陽光を弾く美しい髪が、見知らぬ獣の目々に晒されている。無遠慮で、時に下卑た劣情すら孕んだ視線が彼女を舐め回すたび、ルカの胸中ではドス黒い殺意が沸騰していた。周囲の獣が『王の印』を刻む第一皇子の帰還を肌で感じ、委縮する。だがルカは彼らのことなど気にすることなく、全員の眼球を抉り出してやりたい衝動を彼女の前で抑え込むことだけに集中した。彼はその宿場町に到着するなり、すぐさま行動を起こした。

 馬車の休憩中、ルカが両手いっぱいに抱えて戻ってきたのは、大量の布地――否、衣服だった。


「ルカ、それは……?」

「アメリアお嬢様、お召し物を変えましょう」


 ルカが差し出したのは、頭からすっぽりと被る分厚い絹のベールと、手首から足首まで一切の肌を露出させない、身体のラインすら完全に隠してしまうダボダボの豪奢な外套だった。過保護の塊のような、外の空気に触れることすら許さないといった風情の装いに、アメリアは目を丸くした。


「こ、これはちょっとやりすぎじゃない……?私、息が詰まってしまいそうよ」

「アメリアお嬢様に集まる目を逸らすためです」


 戸惑うアメリアに対し、ルカは真剣そのものの瞳で、もっともらしい言い訳を並べ立てた。


「ここは人間の国ではありません。彼らにとって人間の女性は珍しく、目立ってしまいます。中には野蛮な考えを持つ者もいる。万が一、貴女に危険が及んだら……僕は正気を保てません。これは、僕が貴女を確実にお守りするための服です。これを着て、どうか僕を安心させてはくれませんか?」


 不安げに眉を下げるルカに懇願されたら、アメリアにそれを拒むことなどできるはずもなかった。


「……分かったわ。貴方がそこまで心配してくれるなら、着るわね」


 アメリアが従順にベールを被り、外套に身を包むと、彼女の美しい容貌は完全に外の世界から遮断された。その姿に、ルカの暗い独占欲はひどく満たされた。

 ――誰にも見せない。貴女の美しさも、怯えるような可憐な表情も、すべて僕だけのものだ。

 馬車が再び走り出す直前、使者の長が「グルル」と喉を鳴らしながら獣人語でルカに尋ねた。


『……殿下。あちらの娘、随分と怯えておいでですが、大丈夫でしょうか。人間には少々刺激が強すぎたのでは?』


 その言葉の意味を、ルカは完璧に理解していた。『第一皇子ルキウス』として誘拐されたのは、わずか五歳の時。記憶の大部分は路地裏の泥水と共に薄れ去っていたはずだったが、不思議なことに、帝国領内に入り『王の印』が活性化するにつれ、忘れ去っていた母国語が脳裏に鮮明に蘇ってきていたのだ。いや、思い出したというよりは、獣人としての『本能』が言語の構造を自動的に書き換えている感覚に近い。


『ああ、問題ない。彼女は俺が責任を持って庇護する。貴様らは、そのまま自分達の言葉で話し続けろ。彼女に合わせる必要はない』


 ルカもまた、流暢な獣人語で冷徹に返答した。その見事な発音に、使者たちは「おお……!」と感銘を受け、深く頭を下げる。しかし、そのやり取りを見ていたアメリアの肩が、ビクッと跳ねた。


「ルカ……?今、貴方……彼らとお話をしたの?」

「ええ。不思議ですね。自分でも驚いているのですが、彼らが何を言っているのか、手に取るように分かるのです。幼い頃の記憶と、この血に刻まれた本能が教えてくれているのかもしれません」


 ルカは柔らかな微笑みを浮かべ、アメリアの隣へと席を移した。密着するような距離で座り、彼女の震える小さな手を両手でそっと包み込む。


「アメリア。……不安ですか?」

「そ、そんなことないわ。私は、貴方を支えるために来たんだもの。言葉くらい、すぐに覚えるわよ」


 強がるアメリアだったが、その声は微かに上ずっていた。ルカは胸の奥で、甘い毒がじわりと広がるような快感を覚えた。

 ……いいえ、覚えさせませんよ。貴女には一生、この国の言葉など理解できなくていい。


「無理をしないでください。獣人語の発音は人間の喉の構造では非常に困難です。それに……」


 ルカはわざと声を潜め、アメリアの耳元で囁いた。


「この国は、力こそがすべての弱肉強食の世界です。外を歩く彼らの目を見てください。か弱く美しい人間の女性は、彼らにとって格好の『獲物』に見える。仮に言葉が通じたとしても、はぐれてしまったら。力の弱い貴女がどうなってしまうか……僕には恐ろしくて想像もできない」

「っ……!」


 アメリアの顔から、さぁっと血の気が引いた。彼女は無意識のうちに、ルカの衣服の袖をギュッと強く握りしめた。


「だから、約束してください。僕の傍から絶対に離れないと。彼らの言葉は、すべて僕が貴女のために翻訳します。貴女は何も心配しなくていい。ただ、僕の声だけを聞いていればいいんです」

「ルカ……。ええ、わかったわ。貴方がいてくれて、本当によかった……」


 安堵の息を吐き、ルカの肩にすり寄るように身を寄せるアメリア。彼女は気づいていない。ルカが『翻訳』という絶対的なフィルターを通して、彼女に与える情報を完全にコントロールしようとしていることに。外の世界がどれほど友好的であろうと、ルカが『彼らは貴女を脅かしている』と翻訳してしまえば、それがアメリアにとっての世界の真実となるのだ。彼女の世界は今、分厚いベールと、ルカというたった一つの窓を通じてしか見えなくなっている。

 ああ……最高だ。

 自分に縋り付くアメリアの温もりを感じながら。

 ルカは、アメリアからは見えない角度で、薄暗い愉悦に満ちた笑みを深く、深く刻み込んでいた。






 ルカの言葉に深く安堵し、すっかり彼を頼り切るようになったアメリア。だが、彼女の生来の真面目さと『お姉ちゃん』としての責任感が、思わぬ形で首をもたげたのは翌日のことだった。


「ルカ、私に獣人語を教えてくれないかしら」


 夜の帳が下り、野営のための大型天幕の中でくつろいでいた時のことだ。アメリアは真剣な眼差しで、ルカを見つめてきた。


「え……?」

「このまま何もせずに、ただ守られているだけなんて嫌なの。言葉が分からなければ、貴方が本当に困った時に助けてあげられないわ。私も、少しでも貴方の役に立ちたいのよ」


 ルカは、内心で舌打ちをした。アメリア・ルーベンスという少女は、ただ庇護されるだけの脆弱な人形ではない。愛する者のためならば、未知の領域にすら踏み込もうとする強さと、真っ直ぐな善意を持っている。ルカがもっとも恐れ、そして同時に、たまらなく惹かれる部分でもあった。だが、今のルカにとって、彼女のその向上心は邪魔でしかない。外界と彼女を繋ぐ『言葉』という手段を、自力で獲得されては困るのだ。しかし、ここで頭ごなしに否定すれば、彼女は不審に思い、かえって一人でどうにかしようと空回りを始めるだろう。彼女の性格を熟知しているルカは、すぐに最適な『妥協案』を弾き出した。


「……素晴らしいお心がけです、アメリアお嬢様。貴女のその優しさに、僕はいつも救われます」


 ルカは胸を打たれたような完璧な微笑みを浮かべると、使者の荷物から一冊の薄い書物を借り受け、彼女に手渡した。


「まずは、これから始めてみましょう。獣人語の初級編です」

「ありがとう、ルカ!」


 アメリアは顔を輝かせ、熱心にその本を開いた。

 しかし、ルカの瞳の奥には氷のような冷たい光が宿っていた。彼が渡したその本は、人間の商人や子供向けに作られた、ごくごく初歩的な単語帳に過ぎない。『こんにちは』『ありがとう』程度の挨拶や、名詞がいくつか並んでいるだけだ。獣人語特有の喉を鳴らす複雑な発音記号も、文脈によって意味が反転する難解な文法も、一切記されていない。つまり、その本を暗記したところで、使者たちの早口で複雑な日常会話など、到底理解できるはずがないのだ。


「……この文字、まるで爪痕みたいね。発音はどう読むのかしら。ルカ、ここは……」


 アメリアはランプの灯りを頼りに、必死に文字を追っていた。ルカは隣に座り、彼女の質問に丁寧に、優しく答えてやる。時折わざと間違った発音を教えたり、微妙なニュアンスをはぐらかしたりしながら。一時間ほどそうしていただろうか。初級編の単語帳だけでは、会話の全容を掴むためのピースが決定的に足りないことに、聡明なアメリアも気付き始めた。


「これだけじゃ、彼らの言葉の半分も理解できないわ……。もっと詳しい文法が載っている本はないの?これじゃあ、みんなが何を話しているのか全然わからないわ」


 焦燥感を滲ませて訴えるアメリア。その言葉を待っていたルカは、これ以上彼女の探求心が広がる前に、そっとその本を取り上げ、パタンと閉じた。


「もう休みましょう。旅路はまだ続きます。疲れで身体の不調をきたすのは、いけません」


 ルカの声は、どこまでも甘く、優しく、それでいて有無を言わさぬ絶対的な拒絶を含んでいた。


「でも……」

「アメリアお嬢様。僕のために無理をして、貴女が倒れてしまったら……。僕は悲しくて、耐えられません。それに、焦らなくても僕がいつでも翻訳しますから。ね?」


 不安と庇護欲を煽るように少しだけ眉を下げてみせると、アメリアはそれ以上反論できなくなった。


「……そうね、ごめんなさい。貴方の言う通りだわ。明日も早いものね」


 アメリアは小さく息を吐き、申し訳なさそうに微笑んだ。


「おやすみなさい、ルカ」

「ええ。良い夢を、アメリアお嬢様」


 彼女が毛布に包まり、やがて静かな寝息を立て始めたのを確認すると。ルカは手元にある初級編の本を冷たい目で見下ろした。

 ……学ぶのは結構。だが、貴女が理解できるのは、僕が許可した『世界』だけだ。ルカはランプの火を消すと、闇の中で愛しい少女の寝顔を見つめて、頬を撫でた。


つづく

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