第十話 崩れゆく日常
あの日、アメリアが頑なに守ろうとした『未来の旦那様』のための純潔。ルカはそれを力ずくで奪う衝動をギリギリのところで押さえ込み、来るべき日のために牙を研ぎ続けていた。
表向きは完璧な執事として、そして時折、裏で王都の騎士団に出入りし、圧倒的な剣術で武功を立て始めていた。すべては『アメリアを娶るにふさわしい、正式な身分』を手に入れるため。
アメリアの『旦那様』という幻想の席を、力ではなく、誰もが認める正当な形で乗っ取るためだ。彼女の心身はすでに僕に依存しきっており、あとは僕が肩書きを手にして、彼女を完全に囲い込むだけ。
陥落の時は、もうすぐそこまで来ている。
ルカはそう確信し、満ち足りた暗い愉悦の中で日々を送っていた。
――そんなある日。
ルカの完璧な計画は、彼自身の身体に起きた『異変』によって、根底から覆されることになった。
その日の夜。
ルカは自室で執事服を脱ぎ、寝巻きに着替えようと鏡の前に立っていた。
数日後に控えた騎士団での重要な昇格試験のことを考えながら、ふと視線を落とした瞬間。
「……なんだ、これ」
ルカは思わず眉をひそめた。
彼の引き締まった右の肩甲骨から鎖骨にかけて、これまで見たこともない『紋様』が浮かび上がっていたのだ。
それは、まるで鋭い爪で刻まれたような、あるいは獣が咆哮しているような、複雑で禍々しい漆黒の痣だった。
痛みはない。だが、その紋様からは、ルカ自身ですら本能的に恐怖を覚えるほどの、圧倒的で濃密な『力』が放たれていた。
「……っ!?」
ルカは鏡に顔を近づけ、その紋様を凝視する。ただの痣ではない。脈を打つように、微かに黒い光を帯びて明滅している。ルカの獣人としての本能が、激しい警鐘を鳴らしていた。
これは……まさか。
幼い頃、路地裏を這いつくばって生きていた頃に、年老いた獣人の浮浪者から聞いたお伽噺がある。
はるか北の地、獣人たちを統べる強大な帝国。そこでは、王の血を引く真の後継者が成熟の時を迎えた際、その身に『王の印』が発現するという。その印を持つ者だけが、すべての獣人を平伏させる絶対的な力を振るうことができるのだと。
「……馬鹿な」
ルカは低い声で吐き捨て、自身の肩を強く掻き毟った。
消えない。それどころか、紋様はルカの感情に呼応するように、さらに濃く、黒く広がり始めた。
自分が、そのお伽噺の帝国の後継者?
冗談ではない。僕は路地裏で親に捨てられていた野良犬だ。そんな大層な血筋であるはずがない。
だが、事実として、ルカの身体の奥底から、これまで感じたこともないほどの強大な力が溢れ出そうとしていた。
もし本当に自分が後継者なのだとしたら、いずれ必ず、帝国の使者が自分を迎えに――いや、連れ戻しに来る。
連れて行かれる?僕が、この屋敷から?
ドクン、と心臓が嫌な音を立てた。
アメリアを置いていく?
冗談じゃない。あと少しで、彼女のすべてを手に入れられるというのに。僕が騎士の称号を得て、彼女に愛を刻み込むまでの完璧な計画が、こんな得体の知れない血筋のせいで壊されるなんて、絶対に許せない。
「……消えろ。こんなもの、いらない……っ!」
ルカは漆黒の紋様をナイフで削り取ろうとすらしたが、刃を当てた瞬間、紋様から強烈な覇気が放たれ、ナイフは手から弾き飛ばされた。
これは、肉体に刻まれた傷ではない。魂に刻み込まれた、絶対的な宿命の証だった。
「ルカ?どうしたの、大きな音がしたけれど……」
その時、自室のドアの向こうから、聞き慣れた愛しい声がした。アメリアだ。彼女は、ルカにブラッシングをするために丁度部屋を訪れようとしていたところだったのだ。
「……っ!」
ルカは慌ててシャツを手に取り、隠そうと振り返った。
しかし、アメリアがドアを開ける方が一瞬早かった。
「ルカ、入るわよ……って、きゃっ!?」
上半身裸のルカを見て、アメリアは慌てて両手で顔を覆った。しかし、指の隙間から見えたルカの身体の『異変』に、彼女はハッとして目を見開いた。
「ルカ……その肩、怪我をしたの!?」
「ち、違います、お嬢様!これは……っ!」
ルカは顔を青ざめさせ、咄嗟に手で紋様を隠した。しかし、アメリアは心配そうに近づき、ルカの腕を退けようとする。
「見せてちょうだい。酷い痣じゃないの……真っ黒で、なんだか不思議な形をして……」
じっと紋様を観察していたアメリアの顔つきが、ふと変わった。
幼い頃から屋敷の図書室にある本を読み漁っていた彼女の頭脳が、その複雑なデザインと、ある文献の記憶を結びつけたのだ。
「……この紋様……どこかで……」
「……ぁ、アメリア、お嬢様」
「あっ!思い出したわ!北の帝国に関する歴史書に、これと同じ挿絵があったの。獣人たちを束ねる、王族の直系にだけ現れるという『王の印』……!」
アメリアの若草色の瞳が、驚きと、そして純粋な歓喜で輝いた。
「ルカ、貴方……孤児じゃなかったのよ!北の国の、王族の血を引く方だったのね!」
「違います!僕はただのヴィンターです、お嬢様の執事の……っ!」
必死に否定するルカだったが、アメリアの『弟を救いたい』という善意は、すでに暴走を始めていた。
「すごいわ、ルカ!これで貴方の本当のご家族が見つかるかもしれないわ!お父様に伝えて来るから待っていて!」
パァァッと顔を輝かせたアメリアは、クルリと背を向けると、止める間もなくルカの部屋から駆け出していってしまった。
「待っ……アメリア、やめろ……っ!!」
ルカの悲痛な叫びは、夜の廊下に空しく響いた。彼女の純粋な善意が、ルカをこの屋敷から引き剥がす最悪の引き金を引いてしまった。
残されたルカは、肩の紋様を握りしめ、透き通った青い瞳に絶望と昏い炎を宿して、ギリリと歯を食いしばったのだった。
アメリアが父親であるルーベンス伯爵に『王の印』のことを報告した翌日。
事態は、ルカの予想を遥かに超える絶望的な速度で動き出した。早朝、ルーベンス伯爵家の門前に、王都には似つかわしくない重厚な黒鉄の馬車と、屈強な戦士たちが押し寄せたのだ。彼らは、はるか北の地にある『ヴォルフレイム帝国』から派遣された特使だった。
帝国の第一皇子である『ルキウス』は、幼少期に当時の皇帝を恨んだ者により誘拐され、殺害されたのだと思われていた。しかし、今は亡き皇帝は諦めなかった。愛する皇妃との第一子であるルキウスは生きていると、捜索を諦めることなく、遺言にも捜索を続けるよう残していた。
そして、数日前から王の印の微かな波動を察知して王都を捜索していた彼らは、伯爵からの急報を受け、矢の如く屋敷へと乗り込んで来たのである。
「おお……!間違いありません、その御肩の印!我らが探し求めていた第一皇子、ルキウス殿下に間違いありません!」
応接室。
厳つい顔をした獣人の使者たちは、ルカの肩にある漆黒の紋様を見るなり、一斉にその場に平伏し、歓喜の涙を流した。
「長きに渡る捜索、ついに報われました……!さあ殿下、今すぐ祖国へご帰還を。殿下の御兄弟も、殿下の帰りを心待ちにしておられます!」
使者たちの言葉に、同席していたルーベンス伯爵夫妻は信じられないものを見るように目を丸くし、そして――アメリアは、両手で顔を覆ってボロボロと感動の涙を流していた。
「よかった……っ。本当によかったわね、ルカ……!貴方は孤児なんかじゃなかった、待っていてくれる本当の家族がいたのよ……!」
「……」
部屋中が感動と祝福の空気に包まれる中。
ただ一人、ルカだけは氷のように冷たい、感情の一切抜け落ちた瞳でその光景を見つめていた。ルカは混乱の最中、猛烈な速度で必死に思考を巡らせていた。
帝国へ帰る?ふざけるな。僕はアメリアの傍を離れるつもりなど毛頭ない。こんな使者ども、今すぐここで全員斬り捨てて……。
そこまで考えた時、ルカの脳内に閃光のようにある『事実』が走った。
――待てよ?
僕はこれまで、騎士団で武功を立て、正当な『爵位』を得ることで、アメリアを妻に迎えようと思っていた。一介の執事という身分差を埋めるために。だが、今目の前に転がり込んできたものはどうだ?『ヴォルフレイム帝国の第一皇子』。やがて皇帝となる、絶対的な血筋。爵位などではない。皇帝になったら……圧倒的な権力を持てば、誰に憚ることもなく、完璧に合法的な手段でアメリアを迎え入れることができるじゃないか。しかも、僕の言葉が絶対の法律となる『異国の地』へ、彼女を連れ去ることができるのだ。
ルカの氷のような瞳の奥に、ドス黒い歓喜の炎が灯った。
「ルカ?どうしたの、嬉しくないの?」
感動の涙で潤む瞳で自分を見上げてくるアメリアに、ルカは静かに口を開いた。
「……条件があります」
「えっ?」
ルカは使者たちを見下ろし、王の血を引く者としての威圧感を微かに放ちながら、冷徹な声で告げた。
「僕が『ルキウス』として祖国へ帰還し、王位を継ぐための、絶対条件です。……ここにいるアメリア・ルーベンス嬢を、僕の『同行者』として共に帝国へ迎え入れること。そして、国を挙げて彼女を最高の賓客として遇すること。……それが呑めないなら、僕はここを一歩も動きません」
その言葉に、応接室は水を打ったように静まり返った。
使者たちは顔を見合わせ、ルーベンス伯爵は「なんと!」と息を呑んだ。
「で、殿下……!それはつまり、この人間の娘を、殿下の妃として迎えるということで……」
「まだそこまでは言っていません。僕の傍には彼女が必要です」
ルカは、戸惑うアメリアを真っ直ぐに見つめた後に、使者へと視線を移す。
「人間社会の常識しか持たない僕が、いきなり獣人の国を治めるなど不可能です。ですから、孤児だった僕を誰よりも理解し、教育してくれた彼女の支えが不可欠なのです」
ルカは『完璧な執事』の顔で、尤もらしい理屈を並べ立てた。皇子を国に連れ帰るのが最重要任務である使者たちに、それを断る理由などあるはずがなかった。
「……承知いたしました! 殿下のご帰還が叶うのであれば、その条件、喜んでお受けいたします!」
「伯爵様も、よろしいですね?第一皇子殿下からの、正式な要請です」
「ちょ、ちょっと待ってください……!」
ルーベンス伯爵は、慌てて止めた。一介の執事が祖国へ戻るのは構わない。けれど、愛する娘が遠い異国へと向かうとなれば話は別だ。
「アメリア。ルキウス殿下には悪いが、私は無理に行く必要はないと思っている。人間のいない、獣人の国に行くのは、決して容易なことではない。言葉も、文化も、何もかもが違う異郷の地だ。お前がどれほどの苦労や孤独を背負うことになるか、父には想像もつかない」
ルーベンス伯爵は、使者たちから放たれる無言の威圧感に冷や汗を流しながらも、真っ直ぐに愛娘の瞳を見つめた。
「これはお前の人生だ。第一皇子殿下からの要請とはいえ、お前が少しでも嫌だと言うのなら、断って構わない。お前を守るためなら、後のことは私が何とかしよう。だからアメリア、周りのことは気にせず、お前の本当の心に従って選びなさい」
伯爵の切実な言葉に、応接室に張り詰めた空気が流れた。
ルカは伏し目がちに立ち尽くしたまま、内心で『余計な口出しを』と伯爵への舌打ちを噛み殺していた。あと少しで完全に退路を塞げたというのに、ここでアメリアに余計な選択肢を与えるなど万死に値する。
だが、ルカはすぐさま思考を切り替えた。
ここで無理強いをしては、せっかくの『完璧な合法』にヒビが入る。それに、ルカは誰よりもアメリアという少女の性質を熟知していた。
「アメリア、お嬢様」
ルカはぽつりと、掠れた声でアメリアの名を呼んだ。
そして、ゆっくりと顔を上げ、不安と孤独に怯える『見捨てられた孤児』のような、ひどく儚げで心細そうな瞳で彼女を見つめた。彼が長年かけて培ってきた、アメリアの庇護欲を最も煽る完璧な表情だった。
「僕は、本当の家族の顔も知りません。いきなり皇帝になれと言われても、不安で、怖くて押し潰されそうです。……どうか、僕が新しい国に慣れるまで……傍で支えていただけませんか?」
震える声でそう懇願するルカを見て、アメリアの胸はギュッと締め付けられた。
彼女の目には、目の前にいるのがヴォルフレイム帝国の次期皇帝などではなく、かつて路地裏で拾い上げ、自分が教育し、愛情を注いで育ててきた『可哀想な弟』のままでしかなかった。見知らぬ獣人たちに囲まれ、遠い国へたった一人で連れ去られようとしている孤独な少年。
そんなルカを、アメリアが見捨てることなどできるはずがなかった。
「お父様」
アメリアは伯爵に向かって、迷いのない、凛とした声で告げた。
「私、行きます。ルカと共に、ヴォルフレイム帝国へ」
「アメリア!だが……っ!」
「ルカが私を必要としているなら、私はルカを支えたい。彼が立派な皇子様として、ご家族に受け入れられるまで。それが、今日まで彼を見守ってきた私の責任だわ」
純粋な善意と使命感に満ちたその宣言に、使者たちは「おお、なんと慈悲深い人間の娘か」と感嘆の溜息を漏らし、伯爵は「……そうか。お前がそう決めたのなら」と、力なく肩を落とした。
アメリアはルカの方へ向き直った。
「……ルカったら。体が大きくなっても、中身は甘えん坊のままなのね」
アメリアは呆れたように、けれど慈愛に満ちた笑顔で涙を拭い、ルカの銀髪を優しく撫でた。
「いいわ。ルカが立派な皇子様になれるまで、お姉ちゃんが付いて行ってあげる!」
――言質は、取った。
歓喜に湧く使者たちと、ルカのために一肌脱ごうと意気込むアメリアの背後で。
ルカは顔を伏せたまま、誰にも見えないように、口の端を三日月のように吊り上げて、極上の笑みを浮かべた。
……ええ。お嬢様には、僕が『立派な皇子様』になるまでの間、傍にいてもらいます。一生かかっても、僕が『立派』になる日なんて、永遠に来ませんけれどね。
「アメリア……ありがとうございます。貴女はやはり、僕の光です」
ルカは胸に手を当て、深く、恭しく一礼をした。
――ああ、なんて愛おしく、愚かな人だろう。自ら進んで、一生出られない鳥籠の中へと入ってきてくれたのだから。
もはや王都の騎士団で功績を上げる必要すらない。帝国の第一皇子という絶対的な権力さえあれば、人間の国から遠く離れた閉鎖的な獣人の宮廷で、彼女を誰の目にも触れさせず、徹底的に自分色に染め上げることができる。貴女を守る家族も、貴女に近づこうとする獣のような男どもも、そこには存在しない。僕がすべてのルールを決める、巨大な鳥籠だ。
彼女が『役目を終えて帰りたい』と願ったとしても、その時は皇子の権限で帝国の国境を封鎖すればいいだけの話だ。
こうして、アメリアは純粋な善意から、自らルカの用意した『逃げ場のない玉座の隣』へと足を踏み入れることになったのである。
つづく




