第九話 理想の旦那様
アメリアは身体の疼きを我慢していたが、とうとう限界を迎え、朝になってようやく眠りについた。ルカはアメリアを愛おしそうに見つめると、彼女の唇に自身の唇を重ねた。彼は満足気に微笑むと、そっとベッドから下りて仕事の準備を始めるのだった。
昼下がりになり、アメリアはようやく目を覚ました。睡眠が身体の疼きをリセットしたようだ。彼女は安堵の溜め息を吐き、支度を始めた。
「アメリアお嬢様、おはようございます」
ルカは、アメリアが起きるとすぐにドアの部屋をノックし、入室する。ギクリ、とどこか居心地の悪い顔をするアメリアに、ルカはいつものように極上の笑みを浮かべる。
「あ……ルカ、おはよう」
「おはようございます。少し遅い時間ですが、昼食の準備をいたしましょうか?」
「……今日は食欲がないから、お茶にするわ」
「畏まりました」
ルーベンス伯爵家のサンルームは、麗らかな陽光と、甘い紅茶の香りに包まれていた。
「お嬢様。本日は、食べたいと仰っていた王都で流行りの焼き菓子をご用意いたしました」
「まあ、嬉しいわ!ありがとうルカ。いつも気が利くわね」
完璧な所作でティーカップを差し出すルカに、アメリアは花が咲いたような笑顔を向けた。
一見すれば、穏やかで微笑ましい主従のティータイム。しかし、給仕をするルカの内心は、昨夜からずっとどす黒いマグマが煮えたぎったままだった。
……『ここは、旦那様に触れていただくところよ』、か。
昨夜の彼女の言葉が、耳の奥にこびりついて離れない。自分ではない人間の雄を、自分の『夫』として迎え入れる気でいるアメリア。その事実を思い出すだけで、視界が赤く染まりそうになる殺意が湧き上がる。だが、ここで無理やり奪えば彼女は心を閉ざしてしまう。ルカは必死に深呼吸をし、暴れ狂う自分の中の獣に言い聞かせていた。
――落ち着け。彼女が『旦那様』という幻影を大事にしているなら、僕が完璧にその理想をトレースし、その席に座ってしまえばいいだけだ。
ルカは極上の微笑みを口元に貼り付けると、さりげなく、だが核心を突く質問を投げかけた。
「……そういえば、お嬢様。少し気になったのですが」
「なあに、ルカ。どうしたのかしら?」
「お嬢様は、どのような殿方が理想なのですか?……その、未来の『旦那様』として」
その言葉を口にするだけで、ルカの奥歯がギリッと嫌な音を立てた。愛する女から、他の男への条件を聞き出さなければならない屈辱。彼女に見えない位置で、獣の爪が自らの掌に深く食い込む。だが、これは『未来の自分』へのリクエストなのだと、ルカは懸命に頭を切り替えていた。
「えっ?私の、理想の旦那様……?」
アメリアは目を丸くした後、ぽっ、と頬を桜色に染めた。その純情な乙女の反応すら、ルカにとっては面白くない。他の雄を想像して顔を赤らめるな、と喉元まで出かかった暴言を、奥歯を噛み締めやり過ごす。
「そ、そうねぇ……」
アメリアは焼き菓子を小さく齧りながら、夢見るように天井を見上げた。
「まずは、やっぱり……私を一番に大切にしてくれて、たくさん甘やかしてくれる人がいいわね。私が落ち込んでいる時は、優しく慰めてくれて」
……それは僕が毎日やっている。
「それから、頼りがいのある人。私より背が高くて、いざという時には大きな身体で私を守ってくれるような、強い殿方が素敵だわ」
……僕のことじゃないか。
アメリアの口から次々と出てくる『理想』を聞きながら、ルカは心の中で即座にチェックを入れていく。彼女は無自覚だが、長年ルカに世話を焼かれ、甘やかされてきたせいで、彼女の『理想』の基準は完全にルカのスペックに寄ってしまっているのだ。
なんだ、僕で完璧に条件を満たしているじゃないか。
ルカが内心でほっと安堵の息を吐きかけた、その時だった。
「あっ、でも。一番大切なのは……『誠実で、私を絶対に騙したりしない人』よ!」
「……え?」
「やっぱり夫婦になるのだもの。例えば、私には優しい顔を見せておいて、裏では誰かを傷つけていたり……嘘をついて私を騙すような人は、絶対に嫌だわ!いつも正直で、裏表のない人がいいの」
ピシリ。
ルカの完璧な笑顔に、微かな亀裂が走った。
「……誠実で、裏表のない、ですか」
「ええ!私の知らないところでこそこそと怖いことを考えているような、腹黒い人はお断りよ。お互いを信じ合える関係が一番だもの!」
アメリアは何も知らず、純粋な理想を語ってニコッと微笑んだ。
まさにその『彼女には優しい顔を見せ、裏では見合い相手を脅し、彼女を騙して都合よく操っている腹黒い獣人の男』であるルカの背中に、冷たい汗が伝い落ちた。
「……そ、そうですね。お嬢様の仰る通りです。夫婦の間に、隠し事は良くありませんからね……」
「でしょう?だから、私はゆっくりと時間をかけて、そういう誠実な殿方を探すつもりよ」
その愛らしい笑顔の裏で、ルカは顔を引き攣らせながら、再び奥歯を噛み砕くほどの力でギリギリと食いしばっていた。
……このままでは、僕のこれまでの行いがバレた瞬間、確実に『旦那様』の候補から除外される……!
他の雄への嫉妬よりも、自分自身の過去の所業が最大の壁として立ち塞がるとは思ってもみなかった。
だが、ここで引き下がる狂犬ではない。ルカは深く深呼吸をすると、氷のように冷たい青い瞳の奥で、新たな、そしてより狡猾な決意を固めた。
……バレなければいいだけの話だ。僕が彼女の理想とする『誠実で優しい旦那様』の皮を、死ぬまで完璧に被り続ければいい。
そして、彼女の身体をさらに僕の熱に溺れさせ、もう僕の嘘や腹黒さに気づいたとしても、絶対に逃げられないところまで追い詰めてやる。
「……お嬢様。その素晴らしい理想の旦那様が、早く見つかるといいですね」
「ええ!ルカも応援してね!」
「勿論です。僕が、お嬢様に『一番相応しい男』を見極めて差し上げますよ」
誰にも渡すつもりなど微塵もないが、ルカは恭しく一礼してみせた。
「ふふっ。理想の旦那様のお話をしていたら、なんだか楽しくなってきちゃったわ」
自分の理想を語り終え、満足げに紅茶を一口飲んだアメリアは、ふと思いついたように目の前の美しい執事を見上げた。
「ねえ、ルカ。貴方の『理想のお嫁さん』はどんな方なの?」
「……僕の、ですか」
「ええ!ルカくらい格好良ければ、どんな令嬢でも選び放題だと思うのだけど」
無邪気に首を傾げるアメリアを前に、ルカは心の中で深いため息を吐いた。
僕の理想の嫁、だと? そんなもの、聞くまでもないだろう。目の前で、呑気に紅茶を飲んでいる貴女に決まっている。
そうストレートに言えればどれほど楽だろうか。しかし、今のルカはあくまで『誠実で完璧な執事——あるいは弟——』という皮を被っていなければならない。ルカは極上の微笑みを浮かべながら、甘く囁くように口を開いた。
「そうですね……。とても優しくて、温かい人です。僕がどんなに寂しい時でも、嫌な顔一つせずに抱きしめて、慰めてくれるような方ですね」
「まぁ、素敵。ルカは甘えん坊さんだものね」
「それから……少し無防備で、危なっかしいところがある人がいいです。僕が四六時中傍にいて、一生守ってあげたくなるような」
ルカは熱を帯びた青い瞳で、じっとアメリアを見つめた。夜になれば警戒心もなく僕をベッドに招き入れ、甘い声で啼いてしまう無防備な貴女のことですよ、と視線で訴えかける。
「へえぇ……。ルカって、案外お世話好きなのね。他には?」
「あとは、そうですね。僕のこの銀色の髪を撫でるのが好きで……よくこのサンルームで、一緒にダージリンティーを飲んでくれる方がいいですね。笑うと花が咲いたように愛らしくて、少しおっちょこちょいで……」
そこまで言えば、いくらなんでも分かるだろう。
これはもう『理想』などというレベルではない。アメリア本人の特徴を、そのまま羅列しているだけなのだから。
さあ、照れて頬を赤らめるなり、「それって、私のこと?」と冗談めかして笑うなり、何らかの反応を示してくれ。ルカは期待に胸を膨らませ、アメリアの顔をじっと見つめた。
しかし。
アメリアは「うーん」と腕を組み、真剣な顔でウンウンと唸り始めた。
「……すごく具体的ね。銀髪が好きで、紅茶の趣味が良くて、優しくて……。うーん、私の知っているお嬢様の中に、そんな完璧な方いたかしら……」
「…………はい?」
「あ!もしかしてルカ、既に心に決めた『想い人』がいるのね!?だからお見合いも断ったの!?」
パァァッ!と顔を輝かせ、とんでもない勘違いを炸裂させるアメリア。その瞬間、ルカの頭の中でブチッと何かが切れる音がした。
――な、なぜ気付かない!?これほどまでに!限りなく「貴女です」と!むしろ貴女以外の誰に当てはまるというのか!!
ルカはテーブルの下で、先ほどとは別の意味で両拳をギリギリと握りしめた。これではまるで、僕が一人で空回って、一人で遠吠えをしている悲しい犬のようではないか。
「……ええ。とても鈍感で、僕の気持ちに全く気付いてくれない方ですが」
「まあ!ルカの気持ちに気付かないなんて、本当にもったいないわね!私が協力してあげようか?恋文の代筆なら得意よ!」
「結構です!!」
ルカは思わず、執事らしからぬ強い口調で遮ってしまった。ビクッと肩を揺らすアメリアを見て、ハッと我に返る。いけない、つい苛立ちが表に出てしまった。
「……申し訳ありません、お嬢様。大声を出してしまって」
「い、いいえ。いいのよ。ルカも真剣なのね。……でも、そんなに素敵な人がいるなら、いつか必ずルカの気持ちも伝わるわ。私、応援してるから!」
純度一〇〇パーセントの善意で、力強くガッツポーズを見せる愛しい主人。その底抜けの鈍感さに、ルカはもう怒る気力すら失せ、ただただ深い眩暈を覚えた。これほどまでに自分を『弟』や『執事』という枠に固定し、異性として、ましてや『夫候補』として微塵も意識していないとは。
……この人を落とすのは、骨が折れそうだ。
だが、その鈍感さすらも、ルカの底なしの執着を煽る燃料でしかない。
今はまだ、気付かなくていい。僕がどんなに黒い感情を抱き、どんなに貴女を欲しているか。このふざけた『お姉ちゃん』という勘違いごと、必ずベッドの上で泣かせて、分からせてやる。
「……ええ、ありがとうございます、お嬢様」
ルカは引き攣りそうになる頬の筋肉を総動員して、極上の微笑みを浮かべた。
「僕の『お嫁さん』は、もう見つけていますから。……絶対に、逃がしませんよ」
ティーカップに隠されたルカの青い瞳が、獲物を狙う獣のようにギラリと光った。鈍感な令嬢と、彼女を絶対に逃がすまいと網を張り巡らせる狂犬。二人の認識が交わるその日まで、ルカの胃痛とやきもきする日々は、もう少しだけ続くのだった。
つづく




